5
「ちょっと雨宿りさせてくれよ」
そう言うと、俺は返事も待たずに水川の傍に近づいた。
水川は見るからに俺を訝しんで、全身で警戒していた。
まるで猫が逆毛を立てるみたいに全神経を張り詰めて。
自己紹介がてら握手を求めても、ちらりと見るだけで返そうともしない。
余裕の無い奴め…
意外と純情なのかな。まさかまだ何も知らないって事は…ないだろうな、この顔で。
本人にその気がなくても周りがほっとかないだろう。
まあ、確かめりゃすぐわかるけどな。
スケッチブックと鉛筆を手にした水川は、絵を描こうとしていたらしい。
続けようかしまいか躊躇っているのを感じて、俺は水川の傍に立ち、彼のスケッチブックを覗く振りをしながら、その表情を見つめた。
すると水川が俺を見上げて、そのままお互いが見詰め合う格好になる。
少し紅潮した頬が光と影になり、茶褐色の髪の上に天使のワッカが見える。
細い銀縁の眼鏡も繊細な顔に良く似合っている。
変だな…目が離せねえ…
「あ…」
声にならない水川の口が少しだけ開いた。
濡れた俺の髪のしずくがスケッチブックを濡らした。
「悪い…」思わず後ずさる。
水川は黙って自分のカバンから小さめのタオルを俺に差し出した。
…これって俺に対する好意って受け取っていいのか?それとも単なる親切心か…
まあ、いい。何方道確かめる時間も方法も幾らだってある。
俺は部屋の隅の目に付いた木箱を運び、水川の斜め後ろに座り、様子を伺うことにした。
一服しようとしていた事を思い出し、煙草を取り出して火を付けようとするが、さっきの雨で湿気っているのか思うように付かない。
「ちっ…」と、吐き捨て水川の方を見ると、睨みつけられていた。
え?煙草がダメなのか?それともおまえも一本欲しいのか?
…まあ普通に考えれば前者だろうな。
「煙草は…よくないよな」箱を仕舞いながら様子を伺うと、
「一応、ここで煙草は吸うなって言われてるから」と、言う。
気になって誰にと問うと、
「藤内先生」
トウ…ナイ…ああ、生物の変人の先生か。あれがここの温室を知ってて、水川とも知り合いねえ…
「……水川って藤内と仲いいの?」
「べつにそういうわけじゃない。たまたまここで顔を合わせただけだ」
…本当にそれだけかよ。あのおっさん、むっつり助平の様相だぜ。ミナおまえ狙われてるんじゃないのか?
まあ、いい。俺が変な虫が付かないようについでに監視してやるよ。
「なあ、描いてるとこ見てていい?」
これは単純に好奇心のつもりで聞いた。
何より俺に対するそのピリピリした警戒を解いてやんなきゃ、先に進めそうもない。
俺ってそんなに危険な顔してんのかな〜ちょっと自信なくなってきたよ。
そんな事を考えていると、水川は目の前の鉢の植物とスケッチブックとに交互に目と顔をやり、無心に鉛筆を走らせている。
…なんつう半端ない集中力。
さすがに学年一位ってことだけあるな。優等生ミナくん。
俺が近くにいる事なんて忘れてしまってる?
そっと近づいて斜め後ろ45度から顔を覗く。
…少し唇を尖らせて真剣な顔。長い睫毛だ。翳る薄曇の日差しが白肌に弱く照り、少しだけ儚げに見える。その薄青の翼も今日は静かに閉じているようだ。
やっぱり幾分憂いの見える姿態だな。
強引に迫るのは得じゃない。
そう思い、その細い首に指を当てた。
「な、なに?」
飛び上がる程に肩が跳ね、理解不能の顔で俺を見る。
…一応ね、マーキングだよ、ミナ。
俺の印を付けた。
俺がおまえを忘れないように。
おまえが俺を記憶するように。
数日後、俺達は運命の再会って奴をした。
あのマーキングが効いたかどうかは知らんが、俺にとってはチャームの魔法だね。
もうすぐおまえは俺の虜になるんだ。
なあ、そうだろ?ミナ。