13
俺は月村さんのアパートに行き、月村さんの行きそうな場所の手がかりを見つける為、部屋中を探し回った。
テレビさえ置いてない必要最小限のこの部屋に、ひとつだけ似つかわしくない鎌倉彫の小さな三段引き出しがある。
俺はそれを探す事にした。
数枚の葉書や封書の束、そして数十枚の写真があった。
ピアノを弾いている月村さんや、友人と一緒に写っている写真は、アメリカでの生活が垣間見える。月村さんの表情は今の彼とは随分違って、生き生きとし、野心的にも見えた。
彼は今、どんな思いで自分の「死」を受け入れているのだろう。
写真の中にひとつだけ違和感のある風景があった。
林の中に浮かぶ萌黄色の外壁と臙脂色の屋根。その屋根を飾る天使の形をした風見鶏。
月村さんはここに行ったんじゃないかと、ふと思った。
写真の裏にこの場所を記した住所が書いてある。
俺はこの場所に行くことを決めた。丁度いい具合に明日からは夏休みだ。
自宅には一週間前から夏季休暇で帰国している慧一が居る。
俺と慧一はお互いにどこか気兼ねしながら、距離を取っていた。
どちらかが踏み出そうとすると、一歩引き下がるように一定の距離から縮まらないのが、もどかしい。
俺が悪いのは判っている。
心を開くことを拒んでいるのは俺の方。
この人に甘えたいのに、俺は慧一が俺の事を少しでも嫌ったり、負担に思ったりするのが、不安で怖くてたまらないんだ。
本当に愛想つかされ、完全に捨てられてしまったら、俺はひとりになってしまう。
そうなる前に俺は自分の還る場所を探さなきゃならない。
それが月村さんとは思えなかった。
だけど、あの人が俺を求めているのは判りきっていた。
そして俺と同じように、彼は俺に触れることを怖れている。
だから俺は手を差し伸べてやりたい。
そして彼の命が本当に限られているのなら、せめて俺に出来ることをしてあげたい。
「慧、俺しばらく友達と旅行に行くから」
俺はキッチンで夕食の支度をする慧一に声をかけた。
「しばらくって、どれぐらい?」慧一は手を止めて俺を見つめる。
慧の目を見るとウソがばれてしまいそうで、俺はすぐに視線を外した。
「…一週間…ぐらいかな」
「どこに行くんだ?」
「長野の方…」
「連絡先を教えてくれ」すかさずメモ帳を目の前に出す慧一に、少し腹を立てながらペンを取った。
こんな時だけ俺を縛り付けようとする。
俺はメモ帳に「Satyri」の電話番号を書いた。
もし何かあれば、慧一はここに連絡する。そしたら否が応でも慧一は俺の素行を知ることになるだろう。
俺がどんな人間か、どんなことをしているか、慧一には知る権利がある。
彼は知るだろう。俺の本質を。
慧一が「天使」と読んでいた凛一はどこにも居ないことを。
軽蔑するだろう。二度と俺を愛しているとは言わないだろう。
愛されたいのに嫌われたいなんて、矛盾している。
俺は慧一に対する感情をコントロール出来ないんだ。
「凛一、話があるんだ…」慧が俺に近づいてくる。俺は一歩後ろに下がりながら、
「何?俺、宿題片付けておきたいんだけど…」と、言った。
「…帰ってから言うよ」慧一は眉を顰め、俺を見つめた。
「そうしてくれよ」
俺は逃げるようにこの場を去る。
慧一の視線を背中に感じながら、俺は自分のするべき道を選んだ。
ごめんね、慧。俺はまた兄貴に心配をかけるかもしれない。
翌日、俺は写真の家を探す為、長野に向かった。
中央本線から乗り継ぎ、小さな駅に降りバスに乗った。
揺れながら走る車内から外を眺めると、田園風景が目の前に広がった。
まだ金色に色付いていない稲穂が風にさわさわと靡いている。
その背景となる近くに遠くに連なる山々との境目が不思議な色合いに包まれて、神秘とさえ思えた。
都会でのスモックに塗れたビルディングの狭間を舞う風とは色も温度も違う。
それだけで気持ちが晴れた。
半時ほどで景色は変わり、緑の木々の間にいくつかの別荘が見え隠れする。
まだ開発中の別荘地らしい。
俺は前持って調べ上げていた駅でバスを降り、目的の別荘を探した。
白樺の木々に囲まれた細い街道は、舗装されていない砂利道で、そこを二十分ほど歩くと、車のわだちの跡もないけもの道になる。
曲がりくねった道の両側は白樺の林とうっそうとした緑に囲まれた森に近い雰囲気で、人の手入れなど感じられない茂みだ。しかもゆるい坂道になっていて、次第に息が上がっていく。
森の影で陽が薄くなるにつれ、先ほどまでの颯爽とした気分は消え、焦りが一層濃くなってくる。
見つからなかったらどうしよう…と、不安になった頃、緑に見え隠れしながらも、漸くあの風見鶏を見つけることができた。
月村さんがここにいるとは限らないが、兎に角あの建物を目指そう。
俺は足を速めた。
近寄って建物を良く見ると、写真のものより色合いも風情も損なって見えたが間違いはない。そう思って、玄関に繋がる階段を昇っていくと、ピアノの音色が聞こえてきた。
ショパン…ノクターンOp.9をジャズ風にフュージョンしている。
…間違いない。月村さんのピアノだ!
俺は逸る心を抑えて、静かにドアノブを回す。
正面のアップライトピアノを弾く、月村さんの背中が見えた。
彼は俺が入ってきたのも気づかずに、ピアノを弾き続けている。
俺はその場に立ち竦んで、その音に身を委ねていた。
優しいメランコリックなショパンの旋律はそのままなのに、月村さんのジャズのニュアンスが混じると切なさが増す。
胸が締め付けられるほどに…
俺はその孤独な背中に近づき、そして、両手を伸ばした。