第一章 追想 1
以下の物語と連動しております。
「GLORIA」
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「愛しき者へ…」
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「早春散歩」
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俺は5歳で母親を亡くしている。しかし感慨は少ない。
5歳と言えば幼稚園にも行って、それなりの社会性を身に付け、巷の子供たちと泥んこになって日が暮れるまで遊びまわる。
そんな風景が想像出来るはずだが、俺にはそういうものがなかった。
身体の弱い母親の傍らに居て、母親を寂しがらせない為に、俺はいつも母の目の届くところに居た。
そのくせ母親の亡くなった日のことや、自分が泣いたのかどうかすら、覚えていないんだから、あれだけ可愛がったのにと、きっと母親も浮かばれないことだろう。
母がいなくなっても悲しみはなかった。
外交官の父親は初めから俺の景色には映っていなかった。彼なりに父親の役目をしてきたつもりだろう。しかし、圧倒的にあの人と居る時間は少なかった。
嫌いも好きもない。
父親とはこういうものかと認識していた。
俺を育てたのは二人の兄姉だった。
9つ上の兄、慧一と、8つ上の姉、梓は、俺を溺愛した。
梓は主に俺の教育係だった。
この人の思想や物を語る上での機知に飛んだ言葉は、なんとも魅力的であり、学校で教えるいかなる知識より、明確に的確に理解できた。
慧一はというと、まるで母親と父親を兼ねた役回りであり、常に俺を守り、受け止めてくれた。
どんな我儘を言おうとも、彼は怒ったりせず、俺が納得するまで繰り返し言い聞かせる。
そのクセ俺が誰かれかいじめられると知るや、そいつの自宅まで竹刀を持って押しかける。
そういう気性の激しさを俺には見せなかったが、梓は時折零していた。
「慧は傍から見るほど理性的な人間じゃないよ。人を選ぶのよ。私にはめちゃくちゃ我儘言うくせに、凛にはそういう感情をおくびにも出さないんだから」
またこんな風にも言った。
「凛、慧にはあなたが必要みたいだから、不本意だろうがなんだろうが付き合ってやんなさい。あれはあなたがいないと死んでしまうわよ」
冗談めいて言ったその言葉を真面目には捉えなかったが、あれが梓との最後の交わした言葉だった。
梓は二十歳で死んだ。
自動車事故だった。山沿いの急な曲がり角でスピードを落とさず、車は崖から転落した。
運転手は梓の男友達で、助手席には梓が居た。
妙な噂があった。心中したのではないかと言う話だ。
実際、男の親がいいがかりを付けに家までやってきたが、親父は相手にしなかった。
俺は知っていた。
梓は家を出る前、こう言った。
「好きでもない男に好かれても迷惑なだけなのよ。何故それを判らないのか…全く理解できない」と。
おそらく一方的に男が無理心中を図ったのだろう。
だけど、それを証言する気力さえ当時の俺にはなかった。
梓は俺をずっと守ってくれた。手を離さないでいてくれた。
だからそれを失った俺は、生きていく気力を失っていた。
慧一が居なかったら俺は其の時死んでいた。
慧一が初めて俺を捨てたのは、大学が決まった時だった。
自宅から一時間もかからずに通える大学だったが、慧一は大学の近くで暮らしたいと言い、家を出ることを決めていた。
梓もその時初めて聞かされた風で、えらい剣幕で捲し立て、言い争っていた。
「だからどうして、家から通えるのにわざわざマンションまで借りたりするのよ!」
「建築学科は忙しいんだよ。レポートだって、研究だって…とにかくゆっくり学問に専念したいんだ。週末には帰ってくるし、凛一の学校行事だってちゃんと参加するって言っている。ひとりになる時間をくれてもいいだろう!」
「勉強なんてどこでも出来るし、あんたなら今更ガツガツ勉強しなくても、ちゃんと要領良くやっていけるじゃない。だいたい一言も相談も無く勝手に決めるなんて…卑怯だね」
「…好きに言えよ。俺はもう決めたんだ」
「じゃあ、凛一にはあんたから言いなさいよっ!私、知らないからねっ!凛一がどうなったって!」
「…わかってる」
酷く苦しそうな慧一の顔がドアの隙間から見えた。
最後に梓がはき捨てるようにこう言った。
「慧は…凛一を捨てるのね」と。
慧一は黙っていた。
それまで隠れて見ていた俺は、大声で泣きだし、「もういい!慧が行きたいなら行っていいから。ケンカしないで!」と泣き叫んだ。
慧一が家を出た後、梓とふたりきりになった。
家政婦さんは、母が生きている頃から常にいたが、慣れた頃には人が変わってしまうから、名前すら覚えていない。いい人も居たけれど、あの人等は給料を貰って仕事をして俺らを世話してくれる人であって、慧一や梓以上に愛情を注いでくれるわけではない。
俺は常に愛を求めていた。
誰でもいい。俺を愛して欲しかった。
慧一と梓の愛は無上の愛情だ。肉親以上の絆で結び付けられている。
それ故疑うことを知らない。裏切られることもない。
慧一が俺から逃げても、それが緩むことはない。
事実、慧一は呼び出せば電話一本で俺に還って来る。
それが当たり前だった。
ただ、少しずつ時間が経つと、慧一は俺たちと距離を取った。
俺の世話をするのが億劫になったのかもしれない。
誰か他の奴に懸想しているのかも知れない。
一度、慧一に内緒でマンションの前まで行った事がある。慧一と一緒にエントランスから出てきた男は友達なのだろうか。慧一は俺の知らない世界で楽しそうに笑っていた。
完全に捨てられたと感じた。
絶対に切れる筈もない慧一と俺を繋いでいたものが、一方的に手を離された感覚。
その晩から食事が喉を通らなくなり、その上酷い高熱で一週間ほど寝込んだ。
俺は弱い。まったく未完全にも程がある。
兄が俺を見返らなかったぐらいで、こんなにも脆弱になるのか…
慧一は梓からの連絡を受け、寝込んでいる俺の傍で一週間付きっきりになった。
俺は…10歳になっていた。