雨上がり
「ところで、ザシャさんはこれからユーゲンベルクに戻るんですか?」
私の今の目的地はユーゲンベルクだし、何なら一緒に行ってもいい気がした。ザシャさんはしばらく考えこむ。
「……しばらくこいつを見守りがてら弔って、安全確認してから戻るよ。デイジーを疑うわけじゃないけど、3年も一緒にいたやつだし……でも、後から必ずお礼をしに行く」
触ると花が震える百日紅の幹にザシャさんは語りかけるように言った。そういう優しいところが、魔獣に好かれてしまった一因じゃないかと考えてしまう。そんな考えは間違いで、ザシャさんに非は全くないから言わないけど。
「お礼なんて、さっきも言ったけど別にいらないですよ」
「そんなわけにはいかない。親の金だけど、ちゃんとお礼するよ。こう見えて親は金持ちなんだ」
でしょうね、と思う。今は熊男みたいにモジャモジャの髭と髪のザシャさんだけど、それには十分勘づいていた。
「私だって、ユーゲンベルクに着いたらお金持ちになる予定です……カンパニュラの力を借りて」
「あはは、デイジーとカンパニュラならそうだね。っと、もう朝だ。少し寝ていく? 今度こそ安眠してもらえるはず」
「お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」
すっかり青空が広がって、百日紅の花に目敏い小鳥が集まってきた。だけど私はとても眠い。あくびを噛み殺した。
「起きたら、デイジーの好きなもの何でも作るよ。もう魔獣の心配もないから、数日ゆっくりしてくれてもいいし」
「ダメ人間になりそうなので、起きたら出発します」
あの家は居心地が良すぎる。それに、ザシャさんの私を見る目はさっきからものすごく――甘ったるいものになっている。早く出た方がいい。
私とザシャさん、カンパニュラは並んであの家に戻った。そして壊れた玄関ドアの応急処置をして、客室のベッドを借りて眠りに就いた。
『デイジー、そろそろ起きたらどうだ。もう昼を過ぎた』
「うぅ………」
またもカンパニュラに起こされて、私は仕方なく体を起こす。夕方とかになると出発する気力が失せそうだし、ここで起きなきゃいけない気がする。
それにドアの隙間から、いい匂いが漂ってきていた。私がリクエストしたジャガイモのパンケーキの匂いだ。意地汚いと思うけど私は誘われるがまま身支度をして部屋を出る。
「ザシャさん、おはようございます。もう起きてたんですか?」
「おはよう、デイジー。よく眠れた?」
「!!」
振り返ったザシャさんの顔を見て、私は驚きに息を吸うしかなかった。顔の半分を覆っていた髭が、きれいさっぱり無くなっている。それに黒い髪は後ろで縛って爽やかになった。すごく若く見えるし、顔も小さく見える。
「ああ。髭、剃ってみた。どうせ向こう行ったら剃るから、顔を覚えておいてもらおうと思って。デイジーに誰ですかって言われないように」
「すっきりしましたね……」
「うん、すっきりした」
滑らかになった自分の頬を撫でてザシャさんははにかんだ。
ザシャさんはこうして見ると、かなりきれいな顔をしていた。本当にかっこいい男の人って頬の辺りがかっこいいのかもしれない。頬骨の下から顎にかけて、わずかに肉が削げて影になっているのが大人の男性っぽい。
「これなら怯えないでくれるかな? デイジーに初対面のとき野人でも見たかのような反応されたの実はショックでさ」
「気付いてました? その節は、失礼しました」
でもあれはしょうがないと思う。ボサボサ髪と髭でナイフ持ってたし。
「ザシャさんはすごく素敵だし、ユーゲンベルクに戻ったら忙しくなるでしょうね」
ザシャさんは焼いていたポテトパンケーキを華麗な手さばきでひっくり返す。こんがりと黄金色に焼き目がついていた。
「ああ……うん。デイジーの方が忙しくなるだろうね。それにたくさんの人に好かれるよ。君はとても魅力的だから」
ザシャさんが傍らに置いてあった封筒と、折り畳んだ紙を差し出してきた。――魅力的だなんて言われたのは初めてで、どういう顔をしたらいいかわからない。とりあえず封筒と紙を受け取った。
「えっと、これは?」
「デイジーはユーゲンベルクで仕事を探すんだったよね? 君の能力を生かすなら、国立製薬研究所が一番いいと思う。これが地図で、この封筒は研究所の所長、クラウゼ氏に渡して」
「何が書いてあるんですか?」
「デイジーに最高のおもてなしをするようにってお願いの文章だよ」
ふふっと笑うザシャさんの笑顔は、髭がないと眩しいものだった。
「ユーゲンベルクにはたくさんの人がいて、中には良からぬ考えの人もいる。安全な所で寝泊まりした方がいいよ。……大地の精霊の攻撃は、ちょっと時間がかかるし、寝てるときに変な薬とか打たれたら大変だよ」
『失礼な男だな、私を舐めくさっている。デイジー、ここで地割れを起こすか?』
カンパニュラが牙をカチカチ鳴らして怒る。けれど、カンパニュラの声が聞こえないザシャさんは別のフライパンでベーコンとソーセージを焼きながら都会の危険を訥々と語った。
何か、フューゼン村にいた頃にこんな話が良くあったなと笑ってしまう。村からとなりの町に出たいとか言おうものならすぐに町は危険だ、変な薬を打たれてお前自身を売られるぞ、なんて大人達に良く言われたものだ。子供扱いされてるのかも。
「その点、国立製薬研究所は水の精霊士がいて、精霊への理解があるし警備もちゃんとしてる。デイジーとカンパニュラなら絶対優遇されるし……」
「水の精霊士はちょっと気になりますね。色々とお気遣いありがとうございます。じゃあ、そこに行ってみますね」
私がそう言うと、ザシャさんの笑顔の光度が更に増し増しになった。
「うん!そこに居てくれたら、後から俺も行けるから!ああ本当は一緒に行きたいけど、今朝も言ったけど魔獣を弔ってやらないとだし……」
「わかりましたから、また会えますから、落ち着いて」
主人の気持ちを代弁するように、黒犬ドーリスが激しく尻尾を振って立ち上がり、私の肩に前足をかけてきた。かわいいけどずっしり重い。どんどん押されて、私の背中が壁にぶつかった。何これ?
「ドーリスがこんなに人に懐くのも初めてだよ、やっぱりいい人だってわかるのかなあ?」
「ザシャさん、見てないでドーリスを止めてくれます?」
ドーリスに迫られる私を、ザシャさんがにこにこ眺めてた。
「それじゃ、ほんとにお世話になりました」
「うん、気をつけて! 精霊がついててもデイジーは女の子なんだし」
何だかんだで、ザシャさんにはお世話になった。携帯食としてビスケットとドライサラミまでたくさんもらって、私はザシャさんの家から出発する。ユーゲンベルクまで、あと3日くらいだと思う。ザシャさんとドーリスが寂しそうなので私は笑顔で手を振った。
「向こうで待ってますね! また!」
ユーゲンベルクには知り合いがひとりもいないし、また会えると思うのは、少し心強い。
『あの男は、多少あれだが悪い男ではないし家事も出来るから一緒に暮らすにはいいんじゃないか? デイジーを好きだとあんなに主張してるし、デイジーが寝てる間に必死にあれこれ動いて……』
「やめてよ、急に何言ってるのカンパニュラ」
いくらも離れてないところでカンパニュラが変なことを言う。振り返ると、遠くでザシャさんがまだ手を振っていたので私は手を振り返した。
『私はデイジーの幸せを第一に考えて言ってるんだ』
「私は、カンパニュラさえいればいいって言ってるじゃない。もう人間の男なんていらない」
『……嬉しいが、それはダメだからな。いつかは誰かと』
「いいからいいから」
私はカンパニュラの魅惑的な耳と耳の間、点々と模様が連なるところを撫でる。ここを撫でるとカンパニュラは目を細めるのがかわいい。
「まだ焦らなくていいじゃない? ね?」
『……まあな』
カンパニュラは歩きながら、小さく喉を鳴らしている。昨日の雨がまだ乾いていない地面を踏みしめて、ザシャさんの視線を思い出した。
まあ、魔獣を倒したとかも含めて、一時的なものでしょ……。
私に対しても単に人恋しくて一時的にそんな気持ちになっただけとしか思えない。すぐ冷めると思う。もう、人の好きとか嫌いに振り回されたくない。
『デイジー? どうしたんだ?しかめっ面で』
カンパニュラに言われて私は顔を直そうと試みる。
「何でもない!」
『そうか?』
「うん。楽しみだね! ユーゲンベルク! その研究所でいい部屋もらえるといいなあ」
『そうだな、デイジーが楽しく過ごせればいいな』