魔獣の墓標
血腥い匂いと血煙を噴き上げて魔獣は突進してきた。恐ろしい勢いで体を修復している。
私は家から離れ、障害物のない場所を目指して走る。草を掻き分ける魔獣の足音は背後に迫っていた。思っていたより、足が速い。
強く踏み切った足音が聞こえたと思ったら、生暖かい息が耳にかかった。慌てて右肘で魔獣のあばら骨を突き、左手で押してもう一段階、押し込む。骨が砕ける鈍い音がした。魔獣は悲鳴を上げて後ろに倒れる。魔獣の体の打たれ強さは普通の獣並みだ。ただ終わらないという一点が、ほかとは違う。
魔獣が痛みにもがき、血を流す姿に少しずつ心が蝕まれる。魔獣に呪われた人は、何度も魔獣を倒しているうちに自らが魔獣になるとも言われている。
また走り出した。カンパニュラがいいという場所までとにかく走らなきゃいけない。
「カンパニュラ! この辺はまだダメ?!」
『もう少し先だ!』
息が切れて、足がもつれ始めた。
『デイジー! ここだ!!』
速度を緩めた私に、また再生の血飛沫を飛び散らせて魔獣が迫る。獣の荒い呼吸に少し身が竦むけれど、その息を止めるべく、高い頬骨を剣の柄で殴って砕き、怯んだ隙に喉目掛けて勢い良く踵を下ろした。
息が出来ず倒れた魔獣の腹に剣を突き立て、裂け目を作った。
「カンパニュラ!今よ!」
魔獣の腹から、血に濡れた木が芽吹く。魔獣がひどい咆哮をあげた。木に阻害されて、体を修復できないからだろう。せめて痛みがわからないようにと私は頭を破壊した。
小さな葉と細い枝は魔獣の体を回復させずに、太く、大きく成長を続けた。魔獣の体を苗床にあちこちから生き物のように芽を出し続ける。再生し続ける魔獣と、成長を続ける木の戦いになった。私は歯を食いしばり、木の成長を助けようと何度も何度も魔獣の体を斬った。
少しずつ、魔獣の体は茂る葉と幹で見えなくなる。そうして1本の大木になり変わった。枝には赤く細かな花弁の花が咲いている。
「魔獣は……まだ生きてる?」
『気配がなくなった』
「死んだってこと?」
『魔獣は元々生きてるとも死んでるともつかない存在だからその表現は正しくないが、もう苦しむことはないだろうな』
「そう……」
私はカンパニュラの後頭部をごしごし撫でた。あの魔獣も、かつては愛した人に何度も撫でられたんだろう。確かにあの体は存在してた。
「ありがとう、カンパニュラ」
『私もこんなことは初めてやったが、同胞を楽にしてやれて良かったと思う。デイジーが私を信じてくれたから出来たんだ』
カンパニュラは木を見上げて、珍しく感傷的に声を詰まらせていた。あのまま逃げていたら、カンパニュラはそっと悲しんでいたかもしれない。そしてきっと教えてくれないのだから、これで良かったと思う。
ザシャさんがいつの間にか背後に立っていた。いつから見ていたんだろう。ザシャさんの足元には剣が落ちている。
「魔獣はいなくなりました。この木が、墓標ですね」
ザシャさんに私はそう伝える。こういう魔獣の倒し方は聞いたことがないけれど、私とカンパニュラなら出来ると信じていた。魔獣が体を再生しようとする度に木に阻害されるのは、何万回も斬ったのと同じ効果を与えたのだろう。
「信じられない……俺、あと数年はひとりで戦わなきゃいけないと思ってた……いや、もしかしたら一生かと」
ザシャさんは鼻をすすりながら大木の木肌を撫で、花を見上げる。夜風のせいだと思うけど、赤い花はくすぐったそうに揺れた。そういえばいつの間にか、雨は上がっていた。
「ありがとうデイジー。本当にありがとう」
「カンパニュラにも言って下さい」
「ありがとう、カンパニュラ」
カンパニュラもくすぐったそうに毛並みを震わせた。本来何十年もかかる木の成長を、こんなに短時間で済ませたカンパニュラの力は本当にすごいと思う。地中に根を伸ばしやすいように、岩石などが埋まっていない場所まで走ってきたとはいえ、見事な花まで咲いている。
「カンパニュラ、この木は何て言うの? きれいな花ね」
『百日紅だ。何となく』
「冗談みたいな名前ね……」
小さな花が密集して咲く百日紅は、私が幹を撫でても夜風にそよいだ。とてもかわいらしい花だ。
「デイジーに俺はどうやってお礼したらいい?何か欲しいものがあるなら……」
「お礼なんていらないですよ。私がつい、居心地良くてザシャさんのお家に居座ってしまっただけなんですから」
ザシャさんが聞いてくるけど、私は肩をすくめた。
「だけど、俺は魔獣に呪われているとデイジーに言わなかった。ごめん。俺、本当にずっと寂しくて、誰かと喋りたくて、居て欲しくて……」
「もういいですから」
「魔獣のこと言ったら、みんな、俺自体が魔獣みたいに見てくるのがつらくて……」
「もう終わったから大丈夫ですよ」
私に必死に訴えかけてくるので、この人の頭まで間違って撫でそうになった。流石にやめておこうと思う。ドーリスはザシャさんの気持ちに追随して、切なそうに鼻を鳴らしていた。
「……ごめん、好きになって」
「はい?」
ザシャさんが何か言ったが、聞き間違えた気がする。私はもう一度言ってくれるのを待った。
「……だ、だからさ。あの魔獣は、日頃から俺に嫌がらせをしてるけど、俺が人を好きになると、その人を殺そうとするんだ。知能が高いタイプの魔獣だったんだよ。だから睡眠薬を飲んで寝たんだけど、夢で見てしまった……ごめん」
『ふざけてるのか?迷惑なやつだな。こいつも木の生け贄にするか?デイジー?』
「……」
ザシャさんが何やら言っているのに対して、カンパニュラは牙をむき出して怒った。私はちょっと言葉がない。でも多分寂しさ故のことだろうと思う。私だってカンパニュラがいなくてずっとひとりだったら、誰彼構わず好きになるかもしれない。
そのまま夜が白み始めるまで、百日紅の前でザシャさんと話をした。ザシャさんは、ここで3年もひとりで魔獣と戦っていたらしい。
元々はユーゲンベルクで暮らしていたけれど、ある日訳もなく魔獣に呪われた。ただ目が合っただけ。なのに当時の婚約者を魔獣に殺された。ザシャさんはこれ以上周りに迷惑をかけられないと世間から離れ、静かに暮らす場所を探した。そうしてたまたま古いあの家を買い取った。
最初は男性の世話役を連れてきていたけれど、魔獣は彼さえも狙ったという。それで、完全にひとりにならざるを得なかった。
救いは、魔獣が愛犬のドーリスだけは見逃してくれたことだという。ドーリスがいなかったらとっくに狂っていたかもしれないとザシャさんは苦笑してドーリスを撫でた。
孤独な暮らしの中、ザシャさんの人好きは膨らんでいった。たまに迷い込んだお客さんを引き留め、数日もてなしていると魔獣が現れる。
ついにこの周辺では呪われた家として有名になり、食料などを届けてくれる人しか来なくなった。その人も呪いを恐れ、決して会話をしてはくれない。
そうして数年、ザシャさんはドーリス以外誰とも会話をしない日々を過ごしていた。
魔獣は常に近くにいる訳ではないから、早く呪いを終らせようとザシャさんは罠を仕掛けた。とにかく魔獣を斬って斬って、繰り返せば魔獣は再生しなくなるはずだと願いを込めて。
でも、驚くべきことに魔獣は、罠の人間避けの仕掛けを外していた。本当は、罠注意の立て札は設置してあったという。そして私が足を引っかけた。
それを私に知らされて、ザシャさんは心底肝が冷えたという。
魔獣が心を読むことは知っていたけど、あの大猿の魔獣はかなり賢いタイプだったんだなと思う。あの手この手で、呪った人間を絶望へ陥れようとしていた。魔獣は元々ほとんど発生しないし記録も無いから、私も初めて知ったことばかりだ。
「終わったからこんなこと言えるけど、魔獣がデイジーに救いを求めて罠の立て札を取り去ったのかも……」
『おめでたい頭だなこの男は』
百日紅の幹を撫でてザシャさんは呟いた。やっぱりくすぐったそうに赤い花が震えた。そしてカンパニュラが呆れたように尻尾を振り回している。