雨と獣
ザシャさんは、奥の部屋に引っ込んでしまった。扉がしっかり閉まった音だけが響いた。
「初対面の人間を放って寝るってすごくない?私が泥棒だったらどうするんだろ……」
『あの男、金には困ってなさそうだからな』
「うーん」
私は部屋を見回す。暖炉の周りには木工の動物を模した飾りがあった。大きなソファはしっかりと詰め物がされてふっくらしている。暖かそうなチェックのブランケットもかかっていた。本棚には、高そうな装丁の本が並んでいる。
せめて雨が小降りになったら出ていくつもりで、私は使ったカップなどを洗って片付けた。食べかけのパイにはカバーをかける。
ちらっと見てしまった食品庫には、ソーセージやジャガイモなど豊富に食材が揃っていた。ザシャさんは暇だとは言っていたけど、食材を買う収入はどこから得てるんだろう。罠を仕掛けていたけど、彼は狩人とか木こりという雰囲気じゃない。
何気ない言葉遣いをしてるけど口調はすごく穏やかで、所作も上品だ。だけど私の何かに我慢出来なくなるといって、部屋に閉じこもってしまった。
本当に寝てるのかな。気になって、私は忍び足でザシャさんの部屋の前に行く。扉に耳を近づけるけど、何も聞こえなかった。
そっと離れ、私はソファに腰かける。
「どうしよ。暗くなってきたけど雨、ますます強くなってない?」
『今出るのは得策じゃない。風邪などの感染症は私は治せないからな』
カンパニュラはソファの周りに大きなキノコを生やし、その上に寝そべった。ちょうど私と同じくらいの高さになっている。
「か、勝手に人の家の床にキノコ生やしちゃダメでしょ」
『あとで片付ける。問題ない』
「うーん。ならいいのかな……」
カンパニュラの黒く弾力ある肉球をつつきながら私は呟く。肉球の間からは奔放な白い毛が、元気な草のように伸びていた。
「眠くなってきちゃった……」
暖炉に薪は追加していないけど、ずいぶん効率のいい高級暖炉らしくまだじんわり燃えていて部屋は暖かい。柔らかく体を包み込むソファも気持ち良くて、私は目蓋が重くなってしまった。これは人をダメにするソファだと思う。
『私が見ているから少し寝ていいぞ』
「ありがと……」
出ていかなきゃとは思うけれど、ここはあまりに居心地が良い家だった。冷たく暗い外に出ていく勇気が出せない。
目をつむると、ぼんやりザシャさんの顔が浮かんだ。なぜ森の奥でひとりで暮らしているのかわからない。ちゃんとお礼くらい言って別れたいのに。
『……デイジー』
「ん?ううん……」
『起きろ』
カンパニュラの肉球で顔を刺激されて私は目を開ける。ひんやりして気持ちよかった。だけど、いつの間にか真っ暗になっていて、間近に感じるカンパニュラも、ぼんやりとしか見えない。夜中らしい。
「どうしたの?」
『良くない気配がする、家の外からだ』
「外から?」
カンパニュラにそう言われても、何をどうするべきか寝起きの頭では判断がつかない。
『近付いてる!この気配は魔獣だ』
「ま、魔獣?!」
私は一気に目が覚めた。
魔獣は残虐で野蛮で陰湿で、絶対に目をつけられてはいけないもの。
――精霊の成れの果てだ。
精霊は、好きになったたったひとりの人間のために獣の姿を借りて現れる。そしてそのひとりを、天命が尽きるまで力の限り守ろうとする。
だけど、ごく稀に守りきれなくて死なれてしまうことがある。精霊はその悲しみに耐えられない。精神だけの存在である精霊は、肉体のように疲れるということを知らない。だから、いつまでも悲嘆の沼に浸り、やがて魔獣に堕ちてしまう。
極限まで濃縮された思いが反転して、憎悪と憤怒に満ちた空っぽの獣の肉体を作り出す。それはかつて愛した人間に、愛され、撫でられた形だ。悲しい肉の塊は、斬っても斬っても復活する。
どうやって存在を終わらせるのか、魔獣自身も誰も知らない。魔獣と目が合うと呪われると言われている。失った人を求めてか、死ぬまでつきまとうらしい。
まさか、ザシャさんは――
「ザシャさんは寝てるよね?! 起こさないと」
『いや、多分あいつが……』
「放っては逃げられないわ」
暗いので壁に手をついて歩く。慣れない家だけれど、そんなに広くないので見当はついた。閉まっている扉のドアノブに手をかけると、ガチッと鍵がかかっている感触だった。
「ザシャさん!! 開けて! 起きて!」
壊す勢いで、激しくドアを叩く。すぐに中からドーリスが吠え立てる声が返ってきた。
「ねえ! 魔獣が来てるから! 逃げないと!!」
ベッドから転げ落ちたのかと思うような鈍い音と、ドーリスのびっくりした高い鳴き声が聞こえた。どうにも出来ないので立ち尽くしていると鍵が解除される音がして、ドアが開かれた。髪とヒゲが乱れたザシャさんの顔が目の前にある。
「ザシャさん! 一旦逃げましょう!」
「ごめん……君だけ逃げて。俺が引き付けておくから」
「ザシャさんは?」
「俺は魔獣に呪われているんだ。巻き込んでごめん。睡眠薬を飲んで寝たから大丈夫だと思ったのに」
闇の中で、ザシャさんの白目の部分が青白く光って見えた。泣いているのかもしれない。
「……手を貸します」
「いいから! 俺が間違ってたんだ、頼むから逃げろ! あいつはまた俺の前で人を殺す!」
『デイジー、逃げよう! 魔獣は厄介なんだ、守りきれない』
ザシャさんとカンパニュラに逃げろと言われているのに、私の足は釘で打たれたみたいに動かなくなっていた。
玄関のドアが破壊される激しい音と共に、生臭い気配が侵入してきた。
「俺が足止めするから、デイジーは頼むから裏口から逃げて!」
ザシャさんは室内から剣や棍棒らしきものを持ち出している。
「私も戦います!」
「あいつを倒す手段はないんだ! 俺が今まで何回あいつを斬ったと思う?! もう腕が上がらないまで斬っても再生してくるんだ! それで俺の目の前で……人を殺す」
「私は殺されません、私にはカンパニュラがいるから」
「悪いけど、大地の精霊は戦闘向きじゃない」
『そうだ、デイジー。私はデイジーを失いたくない』
ザシャさんとカンパニュラは揃って似たようなことを言っている。どちらも私を心配してくれているから、反抗するのは心が痛む。
けれど、それ以上に私はもう逃げたくない。
「私の精霊はカンパニュラだから。出来ますよ。倒せます」
私は手短に作戦を伝えるべく、ザシャさんの部屋に籠り、ドアの鍵をかけた。侵入してきた魔獣が体当たりをしているが、この部屋のドアだけ鉄で補強されていた。
「――それが出来たら、すごいとは思う。でも、デイジーの身の安全を一番に行動して欲しい。ダメならすぐに逃げて、そして二度とここには来ないでくれ。俺はここでひとりに戻るだけだから。あの魔獣は俺を殺さずに苦しめ続ける」
「やり遂げます」
自分に言い聞かせるように私は言った。ザシャさんの顔が歪むのがうっすら見えた。
「ごめん……もうドアが限界だ」
「了解です」
私は軽く足首を回す。斬れ味の良いという剣を一本借りた。亀裂が広がり、ドアが打ち破られた。暗闇にうっすら浮かぶ魔獣の姿は、大きな猿の姿をしている。前足が後ろ足より長く、太さも段違いだ。
その太い前足で魔獣は破壊したドアの木片を、鋭く投げつけてきた。私は壁を蹴り、反動で浮き上がってそれを避けた。落ちながら体をひねり、魔獣を蹴り上げる。したたかに食い込んだ私の足は魔獣の顎やいくつかの骨を砕き、隙を作った。部屋を飛び出し、あちこちぶつかり、家具を薙ぎ倒しながら家の外を目指す。
「家の中壊してごめんなさい!」
今はそれどころじゃないけど、とりあえずザシャさんに大声で謝っておく。魔獣の狙いは私だ。私を殺してザシャさんを苦しめたいらしい。
玄関は既に破壊されているので、涼しい夜風の方向に向かえば簡単に家を出られた。カンパニュラもついてきている。
「カンパニュラ、安心して。あなたを絶対に魔獣になんかさせないから。私は死なない。だから力を貸して」
不安そうなカンパニュラの息を聞いて、私は走りながら何とか言葉をかける。
『デイジーの望みなら、私はやる』
かっと目を見開くカンパニュラは、相変わらず格好いい。