森の奥の家
私は、藁葺き屋根の裏側はどうなっているんだろうと上を見上げた。屋根裏部屋があるらしく、裏側は見えない。ただ、木の柱や梁は艶のある飴色に染まり、よく手入れされているようだった。
さっきから尻尾を激しく振って足にまとわりついてくる大型犬ドーリスも、黒い毛並みは艶々だ。名前からして多分女の子なんだろうけど、毎日大切にブラッシングされていると想像出来る。飼い主のザシャさんの頭はボサボサだけど。
「どうぞ、座ってゆっくりして。今お茶の用意をするから」
ザシャさんは私にダイニングの席を勧め、笑顔で戸棚からカップや何かを取り出している。
「嬉しいなあ、こんなにかわいいお客さんが来てくれて。とっておきのカップを使おう」
「……ご家族はお出かけ中ですか?」
戸棚の中に、繊細な絵付きのティーセットが揃いでいくつも見えて私は質問した。家の中のファブリックや小物も随分かわいらしい。この山男というか、森男というか、熊みたいな男の人の趣味というよりかは奥さんの趣味じゃないかと想像した。
「そう、人間は俺だけ。ドーリスが相棒だよ」
「え、あ、そうなんですか……」
私は困って、カンパニュラを見た。ザシャさんは悲しそうな顔になってしまって、聞かなきゃよかったと後悔する。でもカンパニュラはザシャさんの後ろに怖い顔で貼り付いて、おかしなものを入れないか監視に忙しいようだ。私以外には見えないし触れないので、ザシャさんは何度もカンパニュラの体をすり抜けていた。
「……ずっとひとりでいると寂しくてね。料理を作ってもひとりで食べるだけ。でも暇だから、手の込んだ料理をするしかなくて」
私の目の前に大皿で置かれたのは、完璧な籠目に編まれた、焼き目の艶やかなパイ。この人の手にかかると何でも艶々になるのかもしれない。
髪もヒゲも伸び伸びで、自分には全然手をかけていないけど、自分以外は大切にしている不思議な人だと思う。
『デイジー、これには毒物は入ってない』
「これは、2日かけて肉を煮込んで、擂り潰す。茹でたジャガイモと和えて更に滑らかになるまで練る。そして通常6回のところを12回折り込んだパイ生地で包んだ、"暇人のパイ"だよ。召し上がれ」
カンパニュラの検査と、ザシャさんの説明、小皿に取り分けてくれる作業を私は唾を飲み込んで待った。
「ザシャさんのお仕事に感謝します。いただきます」
久しぶりに嗅ぐ、バターの甘い香り。動物性脂肪。香ばしい香り。口に入れる前から結果はわかっている。極薄のパイの層は、ナイフの重みだけで儚く折れて、切断に至った。
「すっごく……おいしいです」
私は感動のあまり、なぜか声が小さくなった。ジャガイモが肉の香りとコクを吸い込み、滑らかに口の中でとろける。それに、肉自体の甘い香りとパイの香りが引き立てあっている。
「お口に合って良かった。そんなにおいしそうに食べてくれるなら、がんばって作ってよかったよ」
ザシャさんは嬉しそうに笑った。
「最近ずっと生の果物だけで過ごしてたのを抜きにしてもおいしいです」
「なるほど。大地の精霊使いはそういう修行みたいなことをするんだ?身を清める感じ?」
「いえ、修行とかではないんですけど」
宿を使って食事をしたら、カンパニュラが姿を消して構ってくれなかなるかと森を移動してただけだ。でも杞憂だったらしく、カンパニュラはのんびり家の中を徘徊している。
「修行じゃないんだ?じゃあデイジーは何でひとりでフューゼン村なんて遠いところから移動してるのか聞いていい?」
「……色々あって、村を出て花の都ユーゲンベルクで仕事を探そうかと」
「あっ、そっか。ユーゲンベルクには国立の製薬研究所があるから、大地の精霊の力を存分に生かせるよね。誰かの紹介かな?」
「……いえ、何となくです」
ザシャさんの笑顔がしぼんでいく。私の回答が期待以下だからだろう。しかも実情は、トムのプロポーズが嫌で、きちんと断ることもできずただ人の多いところに逃げてるだけと更にひどい。
「うん。そうだよね、初対面の人間にそう簡単には話せないこともたくさんあるよね。俺、人と話すのは久しぶりだからつい興奮して、ごめん」
頭を振って、ザシャさんは何か深い理由だと思い直してしまった。違うけど、説明できない。
「デイジー、パイのお代わりはいる?」
「あ、ありがとうございます」
おいしいパイを食べて沈黙を埋めた。気まずい空気など気にならないくらいにこれは絶品だ。家の中を探索し終わったカンパニュラが戻ってきた。何とも言えない表情をしている。耳が少し横向きになって、考え込んでいる感じだ。
「カンパニュラ、どうしたの?」
『いや、何でも』
私が虚空に向かって話しかけているように見えるのか、ザシャさんがくすっと控えめに笑う。
「ごめんなさい、変に見えますよね? 私」
「いや、変じゃない。ただ精霊と精霊士は本当に愛し合ってるんだね」
「ええまあ。そうなんです」
人に言われると照れるけど、事実なので私は否定しない。村を出てから私とカンパニュラの愛は深まったと思う。
そのとき、ちかっと眩しい光がして、耳を劈く轟音がした。雷だ。近くに落ちたのかと、反射的に窓を見る。激しく雨が降りだしていた。
「すごい雨……あの、すみませんがもうちょっといても大丈夫ですか?お邪魔にならないよう大人しくしてますから」
『そうだな、雷は危険だしここにいる方がいいだろう』
豪雨の中は歩きたくない。でも言ってる最中からザシャさんは顔を曇らせた。都合が悪いようだ。
「困ったな……」
「ごめんなさい、私がここにいるとまずいんですね。出ていきます」
「いや、待って。この雨は多分しばらく止まない。山が近いせいか雷もすごいんだ。でも、もう少しで俺が我慢出来なくなる可能性がある」
「え、何を……?」
「悪いけど、俺を殴って気絶させてくれる? それだったら家にいて大丈夫だから」
「は……?」
私はカンパニュラを見た。何か言って。
『ちょっとわからんな』
「……………理由もなく人を殴れませんよ」
カンパニュラもよくわからない何か特別な事情がザシャさんにあるらしい。ザシャさんは悲しそうな笑みを作った。
「そういう優しさを見せられると困る。いや、そもそも軽々しく誘った俺が悪いんだけど」
「お誘いはありがたかったですよ。このパイ、本当においしくて」
「ごめん……もう俺に話しかけないで。俺は部屋で寝てるから、この家は好きに使って」
ザシャさんは両手で顔を覆った。
そのまま重い足取りで私に背を向ける。ドーリスが鼻を鳴らしてザシャさんにすり寄った。事情がわからないけど、私が彼を傷つけてしまったのかもしれない。
「すみません、今すぐ出ていきますから」
私はこの家を出ていこうとトランクを持ち上げた。しかしカンパニュラが大きな体で私の進路を妨害する。
『家主がいいと言ってるんだ、休めばいい。雨に打たれると風邪を引くぞ』
「そんなあ……」
窓の外は風が吹き荒れ、斜めに雨粒が落ちている。