ラインフェルデン公爵
蔦の梯子を登って私は地上へと戻った。
「デイジー! 良かった、帰ってきた……」
ザシャさんが瞳を潤ませて迎えてくれる。ガウクさんと従者さんも後ろで大きく息を吐くのが見えた。
「ちゃんと戻ると言ったじゃないですか」
デイジー・クルルはこれにて死んだということになる。予定通り、川の源流に大きなダムを造った。今はカンパニュラが水を底から満たし、淵まで水が覆っている。生命の木を隠匿するためだ。
「さっきは本当に、すごい光景だった。ユーゲンベルクの街からも見えたと思う」
「ああ、私は今日のこの日を忘れない。大地の精霊士デイジーの勇壮な最期は必ず証言するし、後世まで語り継ぐと約束しよう」
ザシャさん父子の熱い眼差しに晒されて、私は照れる気持ちが湧いてきた。だけど、急に二人は驚いたように私の背後に向けて目を見開く。つられて私の後ろを見るといつも通りカンパニュラの姿があるだけなのだけど。
『デイジー、今は私の姿を見せているんだ。声も聞かせている。こやつらが、私が大精霊なのか知りたがっていたから』
「そうなの?」
『そうだ。私が新しい大精霊であり、デイジーが精霊の女王である。今後そのように対応するように』
カンパニュラはふっくらとした胸を張って、ふんぞり返った。
「はい、もちろんです。カンパニュラ」
「……」
ザシャさんは前からうっすらと見えていたからまだ落ち着いてるけど、ガウクさんはいきなり大型の雪豹が現れて喋ってたのだから驚いている。そういえば私も初めてカンパニュラと会ったときは、恐怖で失神した。
真っ白な毛並みに映える輪状の模様は、獰猛な蛇に似ているし。体も大きく、四つ足で私の腰くらいの体高がある。前足なんて私の顔くらい太い。まあそのうち慣れてくれるだろう。
「私は、今まで通り普通の対応でいいですから……」
「いや、大事にするよ。早速だけどデイジー、あっちで温かいものでもどう?地底は寒いかと、用意をしてたんだ」
ザシャさんが微笑んだ。口に出しては絶対言えないけれど、ザシャさんって本当に出来る男だなと思う。私は確かに空腹を感じていた。
案内された、ダムから少し離れたところではもうひとりの従者さんが火の番をする焚き火があり、おいしそうな湯気の立つ鍋まであった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ザシャさんから金属の取っ手付きのカップに入ったパン粥とスプーンをもらい、地面に敷かれた布に座る。その後ろにカンパニュラが腹這いになった。気温が低いせいか、パン粥はもくもくと湯気が上げている。冷ましながらそっと口に運んだ。味付けはチーズと、乾燥パセリだろうか。思った以上にお腹が空いていて、シンプルな味付けなのに、今まで食べたものの中でもかなり上位に入るくらいおいしく感じた。
「おいしいです」
私が口を開くと、そこからも湯気が出る。山の夜の気温は低いんだなと思った。
「疲れた?」
ザシャさんは笑って、私の横に座る。その手には同じくパン粥の入ったカップがあった。
「まあその……初めてのことだらけでしたから」
ザシャさんは、私が地底で何をやってきたのか、大体わかっているようだ。私は言葉を濁して答える。そういえばザシャさんは最初から精霊士について詳しかった。精霊士はほとんど貴族や王家に雇われたり囲われたりするから、基本的な教養としてご存知なのだろう。
焚き火に照らされたザシャさんの顔には、深慮の色が見えた。
「あの中に、生命の樹を植えた?」
「植えましたけど、私は人に使ったりしませんよ!」
まさか勝手に使われることを心配されてるのかと、焚き火のせいではなく異常に顔が熱くなる。すぐ近くに来たガウクさんが、咳払いをしたので私はそちらを向く。ショックから回復したらしい。
「デイジー。冗談ではなく、生命の樹の実を今後どうするのかね?」
「ですから、相手の意思に反して、勝手に食べさせるなんてしませんよ!!」
ガウクさんに対してもつい声が大きくなる。だって、あの実は強力な惚れ薬みたいなものだし、二人で一緒に食べれば子宝に恵まれるというおまけ付きだ。そんな気恥ずかしいおまけがあるから、私は精霊の女王になったとザシャさんに言いたくなかったのだ。
「しかし、生命の樹の実の効果は何もひとり限定ではない。何人でも虜にすることが可能だ。私の兄に食べさせるかね?」
「何をおっしゃるんですか?!会ったこともない皇帝陛下に食べさせようなんて発想全くありません!」
叫んでから、あ、と思った。ガウクさんが皇帝の弟と知っていると自白してしまった。ガウクさんは苦笑する。
「精霊の女王にきちんとした自己紹介が遅れて申し訳ない。いかにも、私はヴィルヘルム・エドゥアルト・ラインフェルデン公爵で、王弟である」
「あ……す、すみません。公爵閣下だと勝手に知ってて」
閣下は長い名前を名乗り上げた。そして、閣下がさっき言っていた意味がわかってもっと恥ずかしくなる。生命の樹の実を恋愛的な目的で使うのではなく、権力目的で使うのかと訊かれていたのだ。そう、完全に私の頭がお花畑だった。
「おっと、精霊の女王であるあなたにそんな呼ばれ方をされては精霊達に怒られてしまうから、私の名は気軽に呼んで欲しい。私はただの、ザシャの父親だよ」
閣下は人の良い笑みを作った。
「そ、それでは……ヴィルヘルムさん?」
これで合っているのかとびくびくしながら名を呼ぶと、ヴィルヘルムさんは笑みを深くした。隣でザシャさんが額に手を当てる。
「デイジー、紹介が遅れてごめん。騙すつもりじゃなかったんだ。ただ面倒かなと思ってさ」
「面倒だなんて。ザシャさんのお父さんに会えて嬉しいですよ」
「……そうか、それはありがとう」
ヴィルヘルムさんは私の横に座った。少しカンパニュラを気にしつつ。
「だが、今後のためにも確認はしたいんだ。デイジーが望むのなら私は皇帝陛下と謁見する機会を作ろう。私が言えば、食べさせるのも簡単なことだ」
「ああもう、父さんはすぐそういう駆け引きしようとする。やめてよ……」
ザシャさんの制止を無視して、ヴィルヘルムさんの榛色の瞳が私の心の奥底を覗くように向けられた。ものすごいことを言っていると思う。実の兄が私の言いなりになって良いはずがない。
ヴィルヘルムさんは先程とは雰囲気が急変し、見つめ返しても感情が一切読み取れなくなっている。皇宮育ちなだけあって、こういう心理戦は慣れているんだろう。
「……いいえ。私は生命の樹の実を利用して権力を手にするつもりは、一切ありませんから、ご安心下さい。私はささやかな幸せが欲しいだけです」
素直にそう言った。皇帝陛下に食べさせれば、権力だって手に入るかもしれない。でもそんなものは私が欲しいものではない。自分で作り上げる、暖かな家庭が欲しい。
「そうか……それは、私もわかるつもりだ」
ヴィルヘルムさんは、張り詰めていた気配を緩め、ふっと哀愁を滲ませる。――私はヴィルヘルムさんの哀愁の意味に思い当たった。
「皇帝陛下に対して、後ろめたさをお持ちのようですね。自分だけ幸せになっていると」
ザシャさんから聞いた話を思い出した。彼は皇帝の弟として愛情のない宮廷で育った。父や母を皇帝陛下、皇后陛下と呼び、乳母や侍女に育てられた。私とは別次元の方向からとはいえ、愛がある家庭に憧れ、大人になってから夢を叶えた。
でも、幼い頃から今に至るまで、皇城で暮らし続ける皇帝陛下に対して罪悪感や後ろめたさがあるのだろう。だから私に鎌をかけて、敵意がないか探ろうとしたんだ。お兄さんが大好きなんだなと思う。
ヴィルヘルムさんは、カンパニュラに振り向いた。心を読み、伝えたのかと思ったのだろう。
『私はデイジーに何も言っていない。ヴィルヘルム、お前の話を聞いてデイジーが答えを出したんだ』
カンパニュラの優雅な尻尾の動きを見て、ヴィルヘルムさんは苦笑いのまま首を振った。
「……参ったな」
「ヴィルヘルムさんが皇帝陛下を大事に思ってるのは、私でもわかりました。陛下なら、もっともっとわかっていらっしゃるでしょうし、そんな人が幸せで悪い訳ないじゃないですか。気に病むことはないですよ」
「デイジー、やはりあなたは精霊の女王の器だ。なるべくしてなったんだね」
「それはちょっとわかりませんけど。生意気を言いました」
従者さんが、温かいお茶を持ってきてくれたので話が中断する。ヴィルヘルムさんはお茶を一口飲み、何か決意したかのように勢いよく顔を上げた。
「これからは私があなたを保護しよう。ザシャだけでは頼りないだろう?」
「父さん!」
ザシャさんがかなり嫌そうに声をあげるので、私は笑ってしまう。いくつになっても親子は親子なんだろう。
「ザシャさんは、私にすごく良くしてくれてますから、大丈夫ですよ」
「まあ、ザシャに言いづらいことがあればいつでも私に言ってくれたまえよ」