選択の連続
ザシャさんは少し悲しそうな表情をした。
「本当は俺がトムを一発殴って、デイジーは嫌がってるんだから諦めろと言ってやれれば良かったんだけど、ごめん」
「ザシャさん、その気持ちだけですごく嬉しいです」
そんなことを言ってくれる人は今までいなかった。ザシャさんに殴られるトムなんて、想像しただけで笑ってしまう。ザシャさんは魔獣と戦っていたのもあってたくましいし、強いとは思う。だけど風の精霊士には勝てないだろう。そもそも普通の人間は精霊士に勝てない。というか水でも、光でも、大地の精霊士でも勝てない。
戦いにおいては風の精霊士が最強だと言われている。なぜならどこにだって風、つまり空気はあるし、トムは空気のあるところなら鋭い空気の刃を作り出せるからだ。あるいは相手の周りの空気を極端に薄くして呼吸が出来ないようにも出来る。トム自身は風の鎧を纏い、剣も弓矢も弾き返す。勝つ手段が全く見当たらない。
「これなら、トムから完全に逃れられるし、すごくいいと思います」
まだ切なげな目をしているザシャさんを励ましたくて、努めて明るく私は声を出す。
「私は死にます」
かえって悲壮感の出てしまった空虚な台詞だった。でも故郷の村人にも裏切られ、トムには迷惑な執着をされ、随分昔には母に捨てられた。最早、未練はない。
「じゃあ新しい名前は、何にする? これが候補だけど……」
ザシャさんは、お部屋のカーテンの柄を聞くように、気安く私に別の紙を見せた。ザシャさんも暗くならないようにしてくれてるんだろう。それに私は概念として死ぬが、名前を変えて生まれ変わる。
ザシャさんの提案する筋書きはこうだ。
――ここ数日の地震は火山噴火の前触れで、私は大地の精霊士としてそのエネルギーを一ヶ所に集め、山に大穴を空ける。そうしてユーゲンベルクを未曾有の危機から救い、私は力を使い果たして死ぬ。
その大穴はこの辺りで稀少な雨水を蓄えるダムとなる。水の安定供給を水の精霊士オスカーのみに頼る必要がなくなり、オスカーは自由の身となる――という、一度に二兎も三兎も得るよう完璧な計画だ。私はユーゲンベルクを救った英雄として死して伝説になるので、トムに探されることもなくなる。
やっぱり公爵家のご子息ともなると、考えることのスケールが違う。ドカンと最後を派手に決めて、いい人だったねと言われるなら、今のままトムに脅えて生きるよりずっといい。
「今の名前と遠くないディートリンデにしようかと思うんですが」
「似合ってるよ。俺の遠縁の、クラルヴァイン家に生き別れた娘がいたということにするから」
「なんかすごいですね」
ディートリンデ・クラルヴァインという名前を私は小さく呟いた。新しい名前はまだ他人のようで、全然馴染まない。デイジー・クルルに比べて格好良くなったのは嬉しい。
「でも、二人のときは変わらずにデイジーと読んでもいいかな?初めて会って、名前を聞いたとき思ったんだ、本当に花が咲いたみたいにかわいらしくて、空気を華やかにしてくれる君にぴったりの名前だって」
「あ、はい……何と呼んでも大丈夫です」
一部の恥じらいも力みもなく、するっと甘ったるい言葉で褒めてくるザシャさんにはいつも感心してしまう。
ザシャさんと別れて、中庭を歩きながら横をのしのし歩くカンパニュラに私は話しかける。
「ねえ、カンパニュラはどこまでわかってて私をここに導いたの?」
森で私が足を引っかけた罠は、魔獣に呪われた公爵の子息、ザシャさんのものだった。ザシャさんは水の精霊士オスカーがいる国立製薬研究所の理事だった。そのオスカーは精霊士としての立ち回りを失敗して自由を失くし、閉じこもっていた。
そして、私は生まれ変われることになった。何だかやけに上手く行き過ぎていて、操られているような気がする。
『私は、力を隠さずにデイジーを支えただけ。この道を選び取ったのは全て、デイジーだ』
「私の選択……」
『そうだ。魔獣と戦う選択をしたのも、オスカーを助ける選択をしたのも、デイジー自身だ。誇りに思う』
私を見上げるカンパニュラの大きな青い瞳には、夕陽が映りこんでいた。植木の影が射す白い毛皮に手を伸ばし、毛並みに沿って撫でる。指先が埋まるこの感触は、何物にも代えがたい。
「カンパニュラが支えてくれたからよ」
『当たり前だ、私はデイジーだけの精霊なのだから』
カンパニュラがいるなら、人々の記憶の中でデイジーだった私が死んでもなんら寂しくはない。私が死ぬまで絶対に傍にいてくれるカンパニュラは、私が私自身という証明ですらある。
「オスカーが気にしてるだろうから、早めにこのこと報告しちゃっておこうかな?」
『親切だな』
自分の鼻をペロッと舐めてカンパニュラは答えた。
「オスカー?ちょっといい?」
地下のオスカーの研究室、上が半円形の黒檀の扉を叩く。警備兵は見るともなしにこちらを見ていた。すっかり顔なじみだ。
返事はなかったが、鍵が解除される音がした。オスカーの精霊、ブローディアの気配がするのでブローディアがどうにか開けたようだった。中に入っても、オスカーの姿は見えずに氷の塊だけが浮いていた。私はブローディアは見えないが、これで鍵を開けたんだろう。
氷の塊が砕け、空中に小さな氷の粒で字が書かれた。
『オスカー泳いでる』
ブローディアは、たまにこうやって私に意思伝達をしてくるようになった。
「教えてくれてありがとう、ブローディア」
氷の粒はさっと消えた。奥から、びちゃっびちゃっとびしょ濡れの大型の生き物が歩いてくる音がした。まあ、この研究室にはオスカーしかいない。部屋の奥に、お風呂兼プールみたいな水槽があり、研究に行き詰まったときに泳ぐと聞いていた。
「オスカー、床が濡れるから拭いてから来たらどうですか?」
「いつもブローディアが乾かしてくれるから拭かないよ」
振り替えると、紺色のガウンを羽織ったオスカーが体や髪から水滴を盛大に滴らせながら、裸足で立っていた。それでも本当に美しい顔をしている。神話に出てくる、湖に映る自分の姿に見惚れて溺れ死んだ美青年が、どうにか這い上がってきたみたいだった。
「乾かしてくれてないじゃないですか」
「ブローディアはたまに焦らして僕を困らせるんだよ。かわいいネコちゃんだから」
「そうですか……」
そんなことを言い合っている間に、オスカーは急激に乾き、濡れて黒っぽく見えていた髪の毛は輝く金色になる。
「あ、乾いた。ねえ、折角だし今日は一緒に夕食も食べる?」
「そうですね」
「着替えてくる」
長い話になりそうだから夕食を食べてしまってからでもいいと私は思った。いつもは夕方に私は昼の残りを持ち帰って、住居棟のお風呂に入ってから、自室でひとりで食べる。でもこの時間だとお風呂は混んでいて入れないから、ゆっくりしてからでいいだろう。
私はオスカーの製作した水冷式冷蔵庫から昼の残りを取り出し、小鍋に移してアルコールランプで温め始めた。




