覚醒
子供たちの制止、村人の制止を振り切って私はついに村を出た。本気を出して走れば、誰も私に追い付けない。
村を出てから私は大きな道を避け、人が足を踏みいれない、暗い森の奥へと進んだ。この辺りは針葉樹の森が広がっていて、背の高い木々は日光も視線も遮ってくれる。
私は念には念を入れる。わざとぬかるんだ道を通り、足跡を正確に踏み直して道を戻る。それから真横の茂みにジャンプするという方法で足跡を完全に途絶えさせた。
「あははっ」
森の中、私はひとりで笑った。自由になれた嬉しさで、おかしくもないのに笑いが止まらない。
頭のてっぺんからつま先まで、私は私。私のものだ。もう誰にも奪わせない。
自由と孤独が、ここにある。
ずっとひとりでもいいような気がした。頭上を見上げると、春の雪が舞い降りていた。
何だか感傷的な気分になって、近くの木に寄りかかる。そうして地面に落ちては儚く溶けてしまう雪を眺めていた。
『いつまでここにいる気だ』
「ひっ!!」
突然、私の傍に白く巨大な獣が現れて、話しかけてきた。驚いて変な声が出たけれど、私に加護を与えてくれている大地の精霊、カンパニュラだった。
カンパニュラはこの地方にはいないはずの、雪豹という生物の姿を模している。四つ足でも、その体高は私の腰に届くくらい大きい。雪のような真っ白な毛並みに、点々と輪状の模様が絶妙なバランスで描かれている。
「姿を見せてくれたの久しぶりだから、びっくりしちゃったじゃない」
『体が冷えるぞ』
カンパニュラは頭をこすりつけ、私に寄り添ってくれた。万年雪の高山で生きる雪豹の毛皮は信じられないほど温かい。
「ありがとう。あったかいね」
『そうだろう。デイジーが決して凍えないように、私は仮の体に、この雪豹を選んだ』
カンパニュラの言葉はいつも少ないけれど、優しさに溢れている。どれだけひどいことがあっても、もう涙は枯れて出ないのに、カンパニュラに優しくされると我慢出来なくなる。
「私、ちょっと疲れちゃった。人を嫌ったり、拒否したりするのってエネルギーがいるのね。」
『では、少し休め。私が守っているから』
しゃがみ込んで、涙を流す私を誘惑するようにカンパニュラは横になった。更に周りにシロツメクサを絨毯のように一気に伸ばしてくれた。私はカンパニュラのふわふわで温かいお腹の辺りに顔と体を埋める。
「私もカンパニュラみたいに強かったらいいのに」
つい、本音が漏れた。精霊の加護者として振る舞うのは実はあんまり得意じゃない。借り物の力という感じがある。
『いや、私は強くない。力が足りなくて、デイジーの前に出て来られるまですごく時間がかかってしまったし』
「え?私が死にかけてるときに、たまたま見過ごせなかったから仕方なくじゃなかったの?」
『……本当はもっと前から見てた。遅くなってすまないと思っている』
私は初めてカンパニュラが現れたときを思い出した。
トムが兵士として戦地に赴いてからも、私を取り巻く環境はあまり改善しなかった。村の大地は痩せ、人々はいつも空腹で苛立っていた。
畑の農作物を盗んだとか卵を盗んだとか、トムの数々の罪状を被っている私には、ろくに食べ物があたらない。
ある日、私は空腹に耐えかねて森に散策に出た。そして背の低いトゲトゲした木に、小さな実がなっているのを見つけた。それが有毒だとも知らず、私は赤いのも青いのも、ひとつ残らず食べてしまった。勢いで種まで飲み込んだ。
毒があるとわかったのは、お腹が痛みだしてからだ。ひどい腹痛と呼吸困難に陥って、歩けやしない。
誰もいない森でひとり、もだえ苦しんだ。このまま死ぬんだなと、もうそれでもいいやと目を閉じたとき、突然ふわふわした毛皮が寄り添ってきたのだ。
何がなんだかわからなかった。とりあえず大型の獣に接近されていると理解すると、死を覚悟したはずなのに、恐怖で心臓が一気に縮み上がった。
這って逃げようとすると、太い前足で転がされ、お腹を踏まれ、食い殺されるのかと震えが止まらなかった。だけど、眼前に迫る獣の青い瞳はきれいで、お顔も格好いい模様だなとなぜかそんなことを考えた。そうして獣は鋭い牙の生えた口を開いた。
『なぜ逃げる。毒を治してやるからじっとしてろ。本当に仕方ない人間だ』
言葉を喋る獣というあり得なさに、私は気絶した。
数日後、自分のベッドで目覚めた私の近くに、まだ獣はちゃんといた。それから大地の精霊だと教えてもらい、カンパニュラと名付けて契約をしたのだった。
「私は遅かったなんて思ってない。だって、カンパニュラのおかげで生き延びたんだし。感謝してるわ」
ただ、もう少し心臓に優しい現れ方をして欲しかった。とは言わずに、私はカンパニュラのお腹を撫でた。
『そう言ってもらえると助かる……私はデイジーが好きで力を貸しているのだ。遠慮はいらない。デイジーが幸せそうにしてくれるのが、私の一番の望みだ』
「ありがとう。カンパニュラがいてくれたら、私はもう幸せよ」
『……』
「カンパニュラ?」
カンパニュラは、喉をゴロゴロと低く鳴らし始めた。くっついているから私の骨にまで振動が響く。
『ふん……人間は若いときはそう言う。が、ある程度歳をとると自分も家庭を持ちたかった、精霊のせいで結婚出来なかったとか文句を言い出すと先輩が言っていた』
「先輩?」
急に現実味のあることをカンパニュラが言うので私は笑ってしまう。精霊に先輩がいるなんて初耳だし。
『デイジーはまだ18歳だから焦ることはないが、人間の相手はいずれ見つけた方がいいだろう。穏やかで、共に暮らすのに不自由のない人間を』
「まあ、そのうちね」
トムみたいに最悪な人と比べると誰でもいい気さえするけれど、私を愛してくれるのか自信がない。カンパニュラがこうして甘えさせてくれるなら、ほかに何もいらないのになと私は顔の向きを変えた。こんなに優しいカンパニュラは珍しいから、存分に味わっておきたい。お腹の柔らかい毛が頬に当たる。
結局一晩をそこで過ごして、翌朝に私は目が覚めた。
「……何だか甘い匂い」
私の周りには、いつの間にかイチゴと黒すぐりが生えていた。どれもしっかりと完熟している。目が合ったカンパニュラが、どことなく自慢気に口を開いた。
『朝食に食べるといい。残りは携行食に』
「すごいじゃない!!こ、こんな短時間で育てられたの?」
今までは畑の実りを良くするとかその程度で、こんな速度で成長を促進させられるなんて知らなかった。
『デイジーに頼まれなかったからやらなかった。だが、これからは私の判断で勝手にやる』
「助かるけど……」
私はどちらも大好きなので、喜んで摘み、食べ始めた。甘くて瑞々しい。
『デイジー。食べながら聞いてくれるか?』
「うん?」
『一晩考えたんだ。私は、今までデイジーを放置しすぎた。人間としての幸せを享受させたいと、なるべく私は出過ぎないように、見守ってきた。だがその結果はこれだ』
「ごめん……」
私は手が止まって、イチゴや黒すぐりで染まった指先を見つめる。言われた通り、2年もカンパニュラがいてくれて、たどり着いたのは森の中で野宿の未来。精霊として恥ずかしいのかもしれない。
『デイジーは悪くない。私のせいだ。私のやり方が間違っていた。だからこれからはこんな風に、勝手に動く。嫌かもしれないが……』
「カンパニュラが私のためを思ってくれてるんだもの。嬉しいよ」
『……昨日、私さえいればいいと言ってくれたな?』
「うん」
『そういう言葉は、精霊に効くんだ。効きすぎるから、今後は控えろ』
カンパニュラは、尻尾をゆったり振りながらそう言った。怒ってる訳じゃないと思う。むしろ、もっと言えという意味かもしれない。
雪豹は、実際にいるユキヒョウに見た目と模様がそっくりの創作上の生き物です。ユキヒョウ(約150cm)より大きくて250cmくらい、成体でも目が青い設定です。私がユキヒョウが大好きだから書き始めました。