指輪
夕方になって製薬研究所の正面玄関を出ると、そこにはきちんと馬車が停まっていた。二頭立ての、よくある型の馬車だ。公爵家で御座いますって感じの馬車でなくて私はほっとする。
近付くと御者さんが私に気付き、馬車室の扉を開けた。
「やあ、思ったよりも早かったね」
ザシャさんは中で書類を読んでいたらしい。私を見て柔らかく微笑む。茶色のベストに黒のズボンとすごく地味な格好に着替えていた。合わせてもらったんだと思う。
「お待たせしました……」
御者さんの手を借りて乗り込んだ。二人きりかと思って一瞬緊張したけど、黒くてよく見えなかったザシャさんの大型犬、ドーリスがごそっと動いて安心した。
そんなのじゃないと分かってるけど、男性と二人でどこかへ行くなんて良く考えたら初めてだ。ザシャさんに手で勧められて、隣に座る。
「食事するのに適当なお店を探したんだけど、気楽で機密を守れる場所ってなかなかなくてね、ちょっと遠いところに行こう」
「すみません、ザシャさんにお手数かけさせてしまって」
扉が閉められて、馬車が動き出した。
「デイジー、そんなの全然気にすることじゃないよ。こうして普通の生活を送れるということが俺はどれだけ嬉しいか。デイジーが俺を救ってくれたからなんだから」
「もうそれはいいですってば」
「そう?」
人ってこんなに親愛の感情を表せるものなんだと驚くくらいに、ザシャさんは言葉の端々や、目線にそれを込めてくる。くすぐったい気持ちになるけど、ザシャさん独自の技術によるものなのか重くは感じない。緊張感もあっという間にどこかへ消えた。
何か話さなければという気持ちも湧かずに私は馬車の揺れに身を任せる。すごい安心感があった。
「街中を通るけど、ついでに寄りたいところはある? ちょっとした買い物とか、あれば」
「あ……ヴァンレン通りは通りますか?」
しばらくのんびりしてから、ザシャさんがさりげなく訊いてきた。女性の扱いに慣れてるなあと思う。この流れだと何でも買ってくれそうだけど、私はそこまではしたくない。
「ヴァンレン通り? うん、通るよ」
通る予定だったのか、今ザシャさんが少し大きな声で御者さんに指示したのか、とにかく馬車は左に曲がった。
「実はですね、カンパニュラが私に掘ってくれた石があるんです。それを宝石店に指輪にする加工をお願いしてたので……寄ってくれてありがとうございます」
「そうなんだ。それは素敵だね」
ザシャさんは紳士的な笑みを浮かべた。
それからややあって、私が告げた宝石店の前に、馬車はぴたりと停まった。
「こんなところに来るのは久しぶりだなあ。ちょっと見たいから俺も一緒に入っていいかな?」
「はい、もちろんです」
ザシャさんは何かやる気を漲らせている。絶対に受け取りだけしてさっさと店を出ようと覚悟しつつ、ザシャさんが開けてエスコートしてくれる扉の中に入った。
「おや、この前のお嬢さんですね。こんにちは」
黒いアイパッチをつけた店員さんが、以前と変わらずニヤッと笑って声をかけてきた。
「こんにちは。指輪は出来上がってますか?」
「はい。ご用意しますので少々お待ち下さい」
店員さんは布で仕切られた奥に姿を消す。ザシャさんは店内を見て回っていた。ただ、盗難されないようにか宝石は置かれてない。色々な形の砂時計があるくらいだ。
「ザシャさんの気に入るようなもの、ありますか?」
「うーん……デイジーの部屋の飾りでも、と思ったけど」
やっぱり。そういうつもりだったのかと私はこめかみを触る。
「私は何もいらないですよ」
「まだゲストルームを使ってると聞いたよ。家具の発注は?」
「ベッドは頼みました」
「ベッドだけ?」
ザシャさんの蜂蜜色の瞳が輝いて、私はしまったと思った。
「いえあの、そのうちゆっくり揃えますから」
「デイジー、そういうのはひとりでやると大変だよ。家具のまとまりも悪くなるし、専門の人に任せた方がいい。俺の方で信頼できる人を紹介するから」
「でも……」
ザシャさんの紹介してくれる人って絶対一流の人で、報酬も一流の人だと思う。
「俺の気を晴らすと思って、任せてくれると嬉しいな。何かしたいんだ」
そう熱心に訴えられると、断れなかった。断る方が悪い気すらする。
「あ、ありがとうございます。じゃあお願いします」
「良かった。費用の心配もいらないから」
ザシャさんは満足したようで、うんうんとひとりで頷いている。でも、もう何か援助してもらうのはこれっきりにしたい。貴族の人が、画家や音楽家に経済的な支援をする話は聞いたことがある。でも私は芸術の才能があるわけでもない。魔獣のことがあるくらいだけど、これでチャラってやつだろう。
店員さんが、六角柱のペリドットの飾りと小さな箱を持って戻ってきた。
「お待たせしました。こちらがお部屋の飾りです。それから、指輪のサイズの確認をお願いします」
「はい」
箱から取り出された指輪は、デザイン画より素晴らしく見えた。ペリドットは私の瞳にそっくりな黄緑色で、原石より美しく輝くようにカットされている。それを取り囲み守るように少々トゲのある葉や、細い葉などが金で細工されていた。本当に私とカンパニュラの関係みたいで嬉しくなった。
「ぴったりです」
『いいな』
左の薬指に嵌めて私はうっとりする。カンパニュラは姿を表さないけど、短くそれだけ言った。
「大変お似合いですよ……」
店員さんは私を見て、それからザシャさんを見た。何を疑問に思っているかはわかっている。左の薬指は、婚約指輪とか結婚指輪とかを嵌める指だから。
私とザシャさんの関係をどう思っているかわからないけど、何も言わないのが一番だろう。大きなペリドットの飾りは箱に入れてもらって店を出た。
ほんの数歩のところにある馬車に戻ろうとすると、物陰から男達がすごい勢いで飛び出してきた。
「おい、お前!待てよ!」
「また来るのを待ってたんだぞ!」
男達の顔を見て、私は既視感を覚える。以前、この宝石店を出たあとに強盗しようとしてきたやつらだ。
「彼らは?」
ザシャさんが目付きを鋭くして、私を馬車に誘導する。
「前にここに来たあと、私の荷物を盗ろうとしてきた人達です。返り討ちにしましたけど」
「なるほど。憲兵に突き出す?」
「そういえば、その発想はなかったですね」
まだ子供だし、あれで反省するかと思っていたけどそうではなかったようだ。折角嬉しかったのに、私は気分を害されたせいか急にめまいを感じた。
「うわっ……揺れてる?!」
「揺れてるぞ!!」
男達が口々に悲鳴を上げる。いや、男達だけではなく通りの人達が皆、恐怖と混乱に騒ぎだした。めまいではなく、足元が揺れていた。
「カンパニュラ?! 何かした?」
『いや、私は何もしてない。弱い地震だ。別に問題ない程度なので黙っていた』
「ええ、もう……ザシャさん、心配いらないそうです」
ザシャさんも不安そうに硬直しているので、声をかける。やがて揺れは収まった。建物はどこも壊れてないし、物も倒れていない。本当に弱いものだったけど、乗り物酔いしたような感覚だけがある。
「やっぱりお前、精霊士だったんだな!い、今、地震を呼んだんだろ!!」
「やべえやつ……!!」
男達が腰を抜かしたまま、私を指差して騒ぐのはやめて欲しかった。店から飛び出してきた人達の視線までが集まる。
「とりあえず行こうか」
「はい」
ザシャさんと馬車に乗り込む。御者さんはしっしと男達を追い払い、馬車は走り出した。
「今のはカンパニュラがやったんじゃないですけど、誤解されちゃいましたね……まずいでしょうか」
「大丈夫、何もかも」
励ましてくれてるのか、ザシャさんは力強く答えた。
「デイジーの精霊と神は全てご存知だ。俺はその補佐をするだけ。今の出来事も、大きな流れのひとつなんだろう」
「うーん……」
そうでもない気がするけど、ザシャさんが笑っているので、私も笑ってみた。それだけで、結構簡単に気持ちが明るくなる。