状況整理
私が言い終わってから、ザシャさんは一拍おいて頭に手を当てた。
「ごめん、俺の予想の遥かななめ上だった。ちょっと待って」
「あ、はい」
長い睫毛を伏せてしばし瞑目してから、ザシャさんは優しそうな蜂蜜色の目を開く。
「……デイジーがただの女の子じゃなくて壮大な人だとはわかってたつもりだけど、悩みがすごすぎる。新生活での不自由かと思い込んでた。服とか家具とか」
いや、もちろん服は普通に欲しいし、家具も欲しいけど。今はそれどころじゃない。
「私が壮大なのではなく、カンパニュラがすごい精霊なだけです」
「精霊士だから、ふたりでひとつだよ。カンパニュラは巨大ダムを掘れるということだね? もしかして、一日もかからずに?」
「はい」
「ああ……まだ誰にも言ってないよね?」
「はい」
「この件は、俺が責任持って安全に進める」
顔をきりっとさせて、ザシャさんは続ける。
「ユーゲンベルクの水問題は、俺が魔獣に呪われる以前からの懸案事項だ。この辺りは、俺の父――ラインフェルデン公が統治しているが、いつまでも水の供給をオスカーに頼っている点は度し難い。なのにまさか、ここに来たばかりのデイジーに解決策を提案されるなんて……」
ザシャさんはお茶を一口飲んで、忙しくあれこれ考えあぐねているようだ。私も用意されていた冷えたお茶を口にした。でも、口がさみしい。ザシャさんの顔を見ていると、森の家でご馳走になった『暇人のパイ』を思い出してしまう。
あれはすごくおいしかった。でも、復帰したザシャさんは公爵家の長男としてきっと忙しいんだろう。
ヨハナさんに聞いたら、ラインフェルデン公は皇帝の弟だと言う。このベルストク帝国で、皇帝に次ぐ権力者の息子が、ザシャさんだ。貴族中の貴族にも程がある。こんな風に気軽にお話はしてくれるけど、ザシャさんはもう二度と私にご飯を作ってくれないんだと思うと切なくなった。お腹が空いたのかもしれない。
「すみません、忙しいザシャさんに変なお話をしてしまいました……」
ザシャさんのお父さんですら放置していた難しい問題に踏み込もうとしていたんだと私は反省して、黙考するザシャさんに声をかける。
「全然変な話じゃないよ。素晴らしい提案だ。俺に話してくれて本当に嬉しい。ただ、デイジーの身の安全を第一にしたい。ゆっくり話したいから今夜、外で食事でもどうかな?」
「お食事、ですか」
私は困ってしまう。貴族のザシャさんが連れていってくれそうなお店に着ていける服がない。カンパニュラは服までは作れない。作れても葉っぱの服だ。
「先約でもあった?すごく困った顔してるけど」
「いえ。ただ私はまだ服を新調出来てないので……」
「服?ああ」
ザシャさんは自分の服をつまむ。
「俺のこれは、家のものがすごい勢いで仕立てさせたんだ。でもその間、デイジーは必死に動いてたんだよね。その高潔で美しい精神を恥じることは何もない。内密の話が出来る、気軽な店を調べておくから」
「高潔とかではないですけど、そういうお店だとありがたいです」
ザシャさんは育ちのせいなのか美辞麗句がポンポンと良く出てくる。でも単に疲れて仕立て屋に行くのが後回しになっていただけなので、顔が熱くなった。しかもこの人、本当に気軽なお店とか行くんだろうか。
「夕方には終わるかな? 研究所前で待ってるよ」
「はい」
私はとりあえず応接室を出た。でも、何食わぬ顔をし続けてるカンパニュラには言いたいことがたっぷりある。人気のない中庭に移動して、カンパニュラの眼前にしゃがんだ。大きな雪豹の姿は魅惑的で、本当は撫でまわして抱きつきたいけど、意識して怖い顔を作る。
「カンパニュラ! どうしてザシャさんが公爵家の人だって黙ってたの?!」
『別に……』
「別に?! 意味わかんない!」
『別に、精霊の私からすると大したことじゃない。同じ人間だ』
「うわー、出た人間皆平等発言。そりゃ理想はそうだけど、集団として数が多くなると人間は差別しなければいられないのであるって分厚い本で私は読んだわよ!」
意味もなく手を振りかざす私を無視して、カンパニュラはその辺に草を生やした。にょきにょきと伸ばした草を、カンパニュラは太い前足で器用に丸める。
「な、なにそんな、大きい猫ちゃんみたいなかわいいことしてるの……それおもちゃ?」
『デイジーに怒られてつらいから、気分を紛らわしているんだ』
「……!! ごめん! ごめんね! ほら、転がす?」
私がボールを軽く小突いて転がすと、カンパニュラはそれを勢い良く追いかけて走っていった。ピンと立っている尻尾がかわいい。面白い。
「カンパニュラ、すっごいかわいい。これ楽しい」
『そうだな』
満足そうにカンパニュラは草のボールを咥えて、私のところに戻ってきた。
「もう一回やる?」
『うむ』
私はしばらく時間を忘れてカンパニュラと遊んだのだった。
地下のオスカーの研究室に戻ると、今度はオスカーがしかめっ面で私の前に立ち塞がった。
「遅かったね……僕、聞いてないんだけど。君が魔獣を倒したなんて」
「すみません、クラウゼ所長からお話済みかと思ってました」
「なかったよ! 何でそんな危ないことしたの?! 一歩間違えば新しく魔獣が生まれるとこだったんだよ?!」
オスカーは顔が整っているだけに、怒ると意外と迫力があった。カンパニュラのように草でも丸めたい気分になる。でも何もない。確かに私やオスカーのような精霊士が不慮の死を遂げると、残された精霊は魔獣化する。精霊と契約したからには、生きる責任があるのだ。
「ねえ、何でそんな危ないことを……ザシャ氏に惚れたから?」
「はっ?」
びっくりして俯いていた顔を上げる。オスカーが目尻を赤くしていた。
「ザシャ氏は確かに男前だしすごくいい人だけど、身分が高過ぎるよ」
「何言ってるんですか、ないですよ。だって出会って半日も経たないで魔獣は来ましたから。私はただ」
「ただ?」
「魔獣がかわいそうだったんです。だって、元は精霊じゃないですか。好きだった人を亡くして、いつまでも悲しんで、苦しみ続けてるなんて救いがないですよ……早く楽になってもらいたかったんです」
オスカーは厳しい目付きで私を見つめた。お互いに精霊士だからわかるはずだ。精霊の愛はとても深い。愛だの何だのを信じられない私でも、カンパニュラだけは信じられる。
「……君は、淡々としてるようで案外激情型だということはわかった」
「そうですかね」
そのように分析されても、何とも言えない。
「でもカンパニュラに心労をかけるのは良くないよ。僕だって、ぞっとした。もう危ないことはしないでよ。もし、魔獣退治なんて頼まれても断って」
「魔獣は滅多にいないから大丈夫だと思います」
精霊士自体がほとんどいないから、魔獣なんて伝説的に珍しいものだ。私は掃除の続きをしようとモップを握り、背を向ける。
「掃除は今いいから! どういう風に魔獣を倒したのか詳しく教えてよ」
私の前に回り込んできてオスカーが言い募る。モップも奪われた。
「いいですけど……そうやって怒るのやめてくれます?」
「あっ……」
「背が高い人に上から怒鳴られるのつらいんです。私をいじめないって言ってくれたじゃないですか」
上目遣いにオスカーを見ると、やってしまったという感じに慌てていた。
「ごめん。怒ってない、全然怒ってないから」
さっきのカンパニュラ風に弱いふりするの意外と効く。いいやり方教えてくれたなとカンパニュラの方を向くと、口を半開きにして呆れていた。