再会
翌日もオスカーは、異常に優しくなったままだった。一晩経ったら元に戻らないかなという私の希望は泡と消えた。
「これあげるよ」
「何ですかこれ?」
オスカーは善意の塊みたいな笑顔で、ビーカーに山盛りに入った粉を渡してくる。
「僕の作った入浴剤だよ。お湯に入れると発泡して、肌の血行を促す」
「……ありがとうございます。助かります」
嬉しいけど、まだそんなに肌荒れして見えるかなと私はオスカーから距離を取った。きょとんとしてオスカーは首を傾げた。それから思い出したように人差し指を立てる。
「あ、お昼寝する?」
「そんなに毎日寝ませんよ、今日はこの部屋の掃除をしますからね!」
「え、いいよお。そんなに汚くないよ、少しは自分でしてるし」
「隅の方とか埃っぽいじゃないですか」
オスカーの研究室兼自室の広い地下の部屋は、色々なものが溜まって雑然としている。5年間オスカーと精霊のブローディアしか立ち入らないので散らかるのもわからないではない。
「ものを勝手に捨てたりはしませんけど、整えて清掃します」
「そう? じゃあお願いするよ、寝室でもクローゼットの中でもどこでも見ていいよ」
「そんなのは見ないです……」
なぜ余裕なのかわからないけど、オスカーは全く恥ずかしげもなく微笑んだ。そういう感情が薄い人なのかもしれない。全く感覚がわからない。カンパニュラが勝手に古い手紙とかを読んで、個人情報を知っている私は胸が痛くなった。誤魔化すように手近な書類を手に取り、角を揃える。
しばらく掃除を続けていると、硬い扉を叩く高い音が響いた。
「はい?」
オスカーは奥に引っ込み、私が扉を開けて出る。扉の外にはクラウゼ所長の秘書、ヨハナさんがいた。
「デイジーさんにお客様がいらしてます」
「私に? 私宛てに来るような人なんていないと思いますけど……」
「ラインフェルデン様です」
「知らない人です。私はいないと言って下さい」
その名前には全然心当たりがない。私がこの研究所にいることは秘密なはずなのに。所長は約束してくれたのに。
「何をおっしゃってるんですか? 彼の紹介でデイジーさんは当研究所に来ましたよね?」
「え? もしかしてザシャさんが来たんですか?」
「デ、デイジーさん、ま、まさかご存知なかったんですか?ザシャ様の家名を」
ヨハナさんは、お化けでも発見したみたいに驚き、開いてしまう口を手でおさえた。ラインフェルデン家ってどうやらすごいお家らしい。
「知らなかったです……だって森では、そんなこと言われてないですから」
「君、ザシャ氏と知り合いなの? あのザシャ氏がここに来てるの? だって彼の呪いは?」
オスカーが仮面をつけて戸口まで来て、会話に加わる。だけど情報が錯綜していて会話はますます混乱した。
しばらくごちゃごちゃの問答を続けて、私はやっと応接室までの道を、ヨハナさんと急いだ。
「ザシャさんがラインフェルデン公爵の御子息だったなんて……」
とりあえずそこまでは、私は理解した。
並走しているカンパニュラを睨むけど、カンパニュラは素知らぬ顔で尻尾を左右に振っている。絶対知ってたのに黙ってたんだ。森の家をカンパニュラが探索したときとか、私が仮眠してるときとかに知ったはずなのに何で教えてくれなかったんだろう。そんなにすごい身分の人だったのに、私は割りと気軽に接してしまっていた。非礼を何て詫びよう。
ヨハナさんが応接室をノックする。
「お待たせして申し訳ありません、デイジーさんをお連れしました」
まだ私の心の準備は出来てないのに、ヨハナさんは素早く扉を開けた。
クラウゼ所長の後頭部と、ザシャさんと、ザシャさんの黒い大型犬、ドーリスの姿が見えた。
応接室のソファから立ち上がったザシャさんと目が合い、私はぎこちなく中に入る。
ザシャさんは黒い髪をきちんと切り、整えていた。髭もなく、笑顔が眩しい。蜂蜜色の瞳はすごく親愛的に感じる。でもザシャさんの着ている、複雑な染め抜きがある紺色のジャケットは、気の遠くなりそうな刺繍まで施されていてすごく高級そう。靴なんて鏡みたいに艶々に光っている。でもそれを磨いたのはザシャさん本人じゃなくて、きっとお仕えする人だ。
「お……お久しぶりです」
どう接したらいいかわからず私は、数歩で立ち止まった。お久しぶりと言っても、1週間くらいだ。丁度良くドーリスが激しく尻尾を振って来たので、そのまま抱きあった。ドーリスは後ろ足で立ち上がると余裕で私より背が高い。
「よしよし。ドーリスも久しぶり。元気ね」
「デイジー!良かった元気そうだね……いや、そうでもないかな?」
ザシャさんはドーリスの後ろから私の顔を覗きこんで、怪訝な表情になった。まだ私の顔はあんまり良くないらしい。
「クラウゼ所長、デイジーを働かせすぎじゃないかな?」
「あー、その」
「大丈夫です! 皆さんにはとても優しくしてもらってます! 個人的な悩みがあるだけです!」
クラウゼ所長が太い眉を困らせて私を見たので、焦って弁明する。
「そ、それよりラインフェルデン様はどうして公爵様のご長男だと森で私に教えてくれなかったんですか? 親がお金持ちどころの話じゃないですよ。私、ご飯なんて作ってもらって……」
「ああ、デイジー」
ザシャさんがドーリスの前足を後ろから優しく取り、ドーリスをお座りさせる。ザシャさんと正面から向き合う形になって恥ずかしい。私はまだ服を新調できてなくて、白衣を着てるとはいえ本当に素朴な格好なのに。
「デイジーの前では俺は、何でもないただのひとりの男だよ。どうか森の中と変わらない関係でいさせて欲しい。何なら、もっとくだけた口調でいい」
「そんな……キラキラの格好で言われても」
「デイジーが望むなら、以前の格好に戻すよ」
「それはしなくていいです、わかりました。森の中の感じでいきましょう」
自然と緊張がほどけて、笑ってしまった。ザシャさんは森の空気が染み込んでるみたいに、何だかいい雰囲気をまとっていた。近くにいてくれると、心が穏やかになる。
「じゃあ友人として、デイジーの個人的な悩みを聞いてもいいかな?」
「ええと……」
私はクラウゼ所長をちらっと見る。私のダム計画について、ザシャさんになら相談してもいい気がする。でも所長にまで話していいんだろうか。
「おっと。私は用事を思い出したから、しばらく席を外すよ」
クラウゼ所長はザシャさんに向かってウインクをした。ザシャさんが苦笑する。
「ありがとう、クラウゼ所長。またあとで」
「うむ」
私は部屋を出ていくクラウゼ所長の毛の無い後頭部を見守った。ザシャさんとは本当に仲が良いらしい。扉が完全に閉まってから、ソファに向かい合って座った。カンパニュラは床に寝そべる。
「ねえカンパニュラ、ザシャさんにあのこと話してもいいと思う?」
『まあいいんじゃないか』
カンパニュラはこうなることを予期していたみたいに、悠然と答えた。ここ数日の問答が嘘みたいに、一切反対しない。我が精霊ながら恐ろしいやつ。私はザシャさんに向き直った。
「悩みというのはですね、私の精霊、カンパニュラの力で、この都市の水を賄う巨大ダムを作りたいという話なんですけど。……勝手に掘ったら問題ありますか?」