目覚め
「――そうして、塩が水に溶けるとなぜ見えなくなるのか、水が蒸発するとどこへ行くのか、不思議に思ったオスカー少年はいくらでも研究できる環境を手に入れたのでした。めでたしめでたし」
パチパチとオスカーが実験の手を止めて拍手する。私のレポートの発表が終わった。
オスカーの人生について感想をレポートにまとめろと言われて、私は朝方までどう書いたらいいか悩み苦しんだ。レポートの書き方なんて全然知らないから、かわいそうだなあと思いました。終わり。しか書けなかった。
だってそれしかない。伯爵家の子女が好きで色々と頑張ったのに。多くの人々を救ったのに、今は地下室にひとりこもるしかなくなっている。
でも私はオスカーに負けたくなかった。書けませんでした。なんて言いたくなかった。
結局私は、いい所だけをかいつまんで、幸せな結末の絵本もどきを書き上げたのだった。
「素晴らしいよ。僕の人生がまるで成功しかない幸せなものみたいじゃないか。君、お話の才能があるよ。そのレポート、僕にくれる?」
オスカーがとても嬉しそうなので、私は胸が苦しくなった。何だか薄汚れた大人になってしまった感がある。
「養護院で小さい子を寝かしつけるのに、色々作ってましたから」
私の書いた絵本みたいなものををオスカーに渡すと、大事そうに抱えられた。小さい子のお世話をしてるときに似た感情が沸き上がる。25歳の男性に対して失礼だけど。
「ありがとう。それでさ、わかったよ。君はお話の形態にすれば何でもすぐ覚えられると思うよ、元素記号とか……」
「そうかもしれませんね。ただ、私のレポートはこれで終わりじゃないです」
「というと?」
オスカーは片眉を上げて見せた。ずっと仮面をつけていたというのに意外と表情筋が器用だ。
「……私の結論がまだです」
「おお、いいね。学がないのに意外と良くわかってる。そう。結論は大事だよ」
再びオスカーは拍手をした。煽ってるのかもと思うが、笑ってみせる。
「つまり――オスカーという人は、疑問に思ったことをそのままにはしておけない人とよくわかりました」
「その通り」
「なので、しつこく聞かれる前に私がどうしてユーゲンベルクに来たか簡潔にお話します」
そもそも私がこの質問に答えなかったから、こんな大変面倒なことになったのだ。それが本当に、完璧にわかった。
「すごい。君は思ったよりずっと頭がいいかもね」
「オスカーに頭がいいと褒めてもらえるなんて嬉しいです」
作り笑いの応酬をして、私は軽く咳払いをした。
「ええと……私が村を出たきっかけは、本当に下らないことです。私にはどうしても好きになれない幼馴染がいて、彼も精霊士なんですが」
「まさか、トム・ブレヒト?風の英雄?」
オスカーは驚きにサファイアみたいな瞳を見開き、うざったいトムの通り名を口にした。
「ええ、そうです。よくわかりましたね」
「わかるよ。フューゼン村の精霊士と言ったらトム・ブレヒトしかいない……」
トムが有名だとは聞いていたけど、遠いユーゲンベルクの研究所の地下室にこもりきりのオスカーまで知ってるなんて、大したものだなと思う。私は全然知られていないのに。オスカーが続きを顔で促すので、重い口を開いた。
「自慢でも何でもないですが。トムが戦局の合間に帰ってきて、結婚しよう、と言われました。でも絶対に嫌で、村を飛び出して、何となくここに来ました。おわり」
『デイジー……』
カンパニュラが慰めるように私の足に頭を擦り付ける。それがすごく嬉しい。オスカーには理解されようもないけど、私はトムが本気で嫌だった。オスカーはやっぱり理解不能といった顔をしている。
「いくつか質問してもいい?」
「はい……」
「断ることは出来なかったの?」
訊かれると思った。ため息が出てしまう。
「断りました。嫌だと言いました。でも締め上げられて……」
「ご、ごめん。ひどいこと聞いてごめん。そんなに怒らないで」
私は怒りに任せてめちゃくちゃ低い声になってしまって、オスカーは脅えた。しょんぼりと背まで丸めている。
「そうだよね、いくら君でも風の精霊士には勝てないよね」
「というかですよ。勝てるとか勝てないとかじゃなくて、力ずくで無理やり言うこと聞かされたんです。トムは子供の頃からずっとそうでしたよ。私が言うこと聞くまで、しつこくやめないんです。そんな人どうやって好きになれますか。まして結婚なんて、絶対嫌です」
「うぐ……色々と身につまされる」
オスカーは胸をおさえて机に突っ伏した。
「別にオスカーは責めてませんけど」
「……ごめんね。僕もさ、無理やり話をさせたよ。もうそういうのはやめる」
オスカーは立ち上がり、部屋の奥に駆けていった。すぐにクッションを数個抱えて戻ってくる。
「はい、使って」
「え?」
「君、寝不足の顔してるし、寝てていいよ。もう過去のことは忘れてのんびりしてて」
オスカーは部屋の片隅の椅子に積まれた本を下ろして、そこを空けた。私の寝不足に気づいてるとは知らなかった。
「どうぞ」
「どうも……」
少し埃っぽい椅子に私は座る。足を乗せるオットマンもオスカーは運んできてくれた。明日あたりからこの部屋の掃除をしようと私はくしゃみしながら決意する。
「あ、埃っぽい? やっぱ僕のベッド使う?」
「いえ。ここで大丈夫です」
流石にベッドは借りられないので、私はクッションを抱えた。
「じゃあお言葉に甘えてちょっとだけ仮眠を取りますね……カンパニュラ、来て」
『うむ』
カンパニュラが椅子と同じくらいの高さにキノコを生やして、横に寝そべった。更に天井からざっと蔦がカーテンのように降りてくる。おまけに甘い匂いのする赤い花を蔦にまとわせてくれた。
「うわ、すっごい。これが君のカンパニュラの力なんだ。初めて見た」
蔦のカーテンの向こうから、オスカーの感嘆する声が聞こえたけど、私はカンパニュラのふわふわの毛皮にくっついて早々に意識を飛ばした。
それから目を覚ましたのは、扉を叩く音がしたからだった。寝ぼけて跳ね起き、蔦のカーテンを出ると、オスカーが仮面をつけて昼食のワゴンを運び入れていた。
「あ……すみません、寝すぎました」
昼まで寝てるなんていい身分すぎる。なのに食べ物の匂いで、かなりの空腹を感じた。
「いいよいいよ。お昼にしようか」
オスカーが仮面をその辺に投げ捨て、お皿を並べている。なんか異常に優しい。
「食べたら働きますから」
「したいようにしていいよ。僕は、その……精霊士だからって君をいじめないから。反省したんだ」
こちらを向いたオスカーは、一皮剥けたみたいなさっぱりした顔で微笑んだ。
『デイジー、どうやら悪手を打ったようだな。この小僧の瞳を見ろ』
カンパニュラがぷりぷり尻尾を振り回して私に囁いた。そう、オスカーの瞳に何かが宿っている。今までは、ひたすらきれいな顔をした子供だと思っていたけど急に男って感じになった。
「あの……私が寝てる間に、変な薬でも調合して飲みましたか? 何か変わりましたね」
「飲んでないよ。でも君が寝てる間に考えて、色んなことがわかっただけ。僕がいかに思い上がっていたかとか」
食事用のテーブルにきれいにお皿を並べたオスカーは、私を席につかせる。
「君さえ良ければ、ずっとここに居て欲しいな。ここは身を隠すのには丁度いいし、もし何かあったら、僕が君を守るから」
そう熱く語られて事態の深刻さを思い知った。興味を失ってもらうつもりだったのに、何か違うことになってる。
「オスカー……」
「そんな迷惑そうな顔をしないで。大丈夫、君の嫌がることはもう絶対しないから」
断ろうとしたら先に退路を塞がれる。いや、オスカーはまだ十分勝手なような、そうでもないような。