提案
翌朝、ヨハナさんは前日と同じ時間に私の部屋のドアを叩いた。
「おはようございますデイジーさん。お加減……良くなさそうですね」
私の顔を見るなり、ヨハナさんは厳しい目付きになった。
「オスカーがデイジーさんに何かしました? ねえ。昨日のお帰りの時間は通常通りで、やや疲れてはいるけれど異常なしと報告されてましたけど」
「えっ?!」
いつも部屋の中まで入ってこないから油断していた私に、ヨハナさんはぐいぐい迫ってくる。身長が同じくらいなのもあって顔が近い。というかそんなに私の行動が監視されているとは知らなかった。
「やっぱりオスカー・ファインハルスと言えども5年もこもっているから飢えた獣ですか? 何かされたんですか? ひどい顔です」
「まさか……ないですよ、オスカーがよく喋るから疲れただけですよ」
でもヨハナさんに頬を触られて、私は未体験の恥ずかしい気持ちになった。ちょっと肌が荒れてるのはわかってる。
「それだけでこんなお顔になりますか?!」
「こ、これは個人的な悩みのせいですよ……」
ヨハナさんの心配の勢いがすごくて、オスカーの宿題のせいとは言えなかった。それに、合間合間にカンパニュラにダム計画を話しては却下されて、寝るのが遅くなったから個人的な悩みというのも嘘じゃない。
「そうですか……」
ぐっと何かを堪えてるヨハナさんに私は、それしか言えなかった。ヨハナさんの腕に軽く触れて、顔から手を離してもらう。彼女はクラウゼ所長の秘書官だけあって、華奢に見えてしっかり筋肉がついていた。
「デイジーさん。私はマリアンネみたいに親しみやすくないですし、冗談も下手だし、堅苦しいとは思いますが、デイジーさんのお世話を任されています。遠慮しないで何でも言って下さい……」
「ヨハナさんはすごく良くしてくれてますよ! まだ考えがまとまってないだけです!」
思い詰めたように眉を寄せ、真剣なヨハナさんに私はなるべく軽い口調で返す。ヨハナさんは重いタイプだったんだなあ。
それからヨハナさんに付き添われて温室へ行った。でもヨハナさんは温室には相変わらず入らない。
「デイジー、おはよう。何だかその……疲れてるみたいね?」
マリアンネも私を見るなり、心配そうな表情をする。今日のマリアンネは水色のオーガンジーみたいなブラウスで、胸元は紺色のリボンでレースアップされててかわいい。いつも白衣を羽織ってるのが残念なくらいだ。
「おはようございます。大丈夫です、私が疲れていてもカンパニュラは疲れていませんから」
そんなにひどい顔なのかと仮面でもつけたい気分になった。明け方まで起きてただけなんだけど。
「でも、デイジーは大丈夫なの?」
「大丈夫です」
「そう? 無理しないでね。これ昨日言っていた、仕立て屋の地図よ。もし良かったら今日の仕事終わりに一緒に行く?」
「ありがとうございます!……でも行けるかどうかは、オスカー次第ですね。今日はいつ終わるかわかりません」
羽織っている白衣のポケットからマリアンネは小さめの封筒を取り出して、渡してくれた。
「あの子、ずっとひとりで居たくせにそんなにデイジーに懐いちゃったの? 私昨日はつい、二人がどうなるかしらみたいなお気楽なこと言っちゃったけど、ごめんなさいね」
「オスカーは、まあ一時的に興奮してよく喋ってるだけですよ。そのうち慣れて落ち着くかと」
「そ、そんな感じ?」
マリアンネは苦笑した。
「デイジーって本当に、不思議な子ね。若いのに達観してるわ。でも、本当は私が助手にしたかったのにオスカーに取られて残念よ」
「そうだったんですか?」
意外な告白に私は驚く。
「ええ、デイジーの手が空くのを待ってたらするっとオスカーに取られたのよ……オスカーなんて、頭脳も水の精霊も、何でも持ってるくせに。デイジーまで取られて悔しい」
いつも優しいマリアンネが初めて怒りを滲ませ、ぎゅっと拳を握っている。オスカーってこんな感じで世の中の人から恨まれやすい生まれなのかもしれない。引きこもってる方が安全かも。
「あら、ごめんなさい、私としたことが、変なこと言っちゃったわね。でもオスカーが嫌になったらいつでも私のところに来て」
私が何も言えないでいるとマリアンネは、自分で自分を取り戻した。大人な人だ。
「ありがとうございます。マリアンネは理想の上司です」
「やだもう、私を褒めても地図くらいしか出ないわよ。次はどこの地図が欲しいの?靴屋かしら?」
「あ、そうですね、靴屋も紹介して欲しいですが……」
地図、と言われて私は思い出す。
「ユーゲンベルク周辺の詳細な地図はどこで見られますか?出来れば高低差もわかるものだといいんですが」
『デイジー、まだダムを諦めてないのか?』
呆れたカンパニュラの声が耳元でしたけど反応しないでおく。ダムを作れそうな場所があるかどうかくらいは知っておきたい。
「高低差のわかる詳細な地図? ああ……大地の精霊士ですものね! そういうの、気になるわよね」
うんうんとマリアンネは頷き、視線を斜め上に向けた。
「この研究所にはないわね……図書館に行けばあるのかしら……いえ、軍部で持ってるものが一番正確かも……うん。軍の知り合いに頼んでみるわ」
「何だか大変なことを頼んでしまって、すみません」
思ったより難しいみたいだった。地図がある場所さえ教えてもらえれば良いと思ってたんだけど。
「いいのよ。ついでにぱあっと旧交でも温めちゃおうかしら。昔付き合ってた人と連絡を取るいい口実だから」
「えっ、そ、そうですか」
マリアンネに急に色っぽく微笑まれて私は動揺した。大人の世界すぎてわからない。
陽光降り注ぐ温室を出て、薄暗い地下室へ向かう。
「おはようございます、デイジーです」
「どうぞ」
硬い黒檀の扉をノックして、聞こえてきた返事で私は今日のオスカーの機嫌を悟った。すごく機嫌がいい。
「おはよう。見てこれ。コーヒー豆買ってきてもらった。君、コーヒー飲めるよね?」
すっかり仮面をやめたオスカーは、夢の王子様みたいな顔で笑う。鼻歌混じりにコーヒーを淹れていた。
「飲めますけど……実験器具でコーヒーを淹れてるんですか?」
ここで覚えた器具、丸型フラスコみたいなものをアルコールランプで熱していて驚いた。
「やだなあ、これは見た目は似てるけど実験器具じゃなくて、専用のコーヒーサイフォンだよ。でも知ってる? このサイフォンの何十倍も大きいものが、このユーゲンベルクの水を運んでるんだ」
「そうなんですか」
「これは下部を熱して、蒸気圧で水を移動させてる。下から上に水が上がってるよね」
「はい」
お湯が沸くと泡が上がってくるのはよく見るけど、そういう感じなんだろうか。私はサイフォンに近づいて観察してみた。
「フラスコにお湯がいっぱいじゃないのに上に移動するんですね」
「まあ空気と水が膨張して、圧力で押されてるんだよね。大型サイフォンの連通管も空気圧で押されて、水が動くってことさ。詳しく言うと……」
「それって、低いところから高いところも可能ってことですか?地下とか」
どこか人目のつかない地下に巨大ダムを掘れたら、私もオスカーも自由になれるんじゃないかと思いついて質問した。
「いや、こんな風に熱を加えるとか、ポンプを動かし続けるかしないと地下みたいに低いところから高いところは無理。だって井戸から水を汲み上げるようなものだよ」
「そうですよね……」
15万人分の水を貯めたダムを下から熱するなんて無理な話だ。やっぱり付近の山を掘るしかない。
「意外と興味あるみたいだね」
上がったコーヒーの抽出液を今度はフラスコに落とし、カップに注ぎながらオスカーは微笑んだ。私が何に悩んでいるかも知らず無邪気だと思う。
「ええまあ、何でも勉強していかないと」
「結構な態度だね。それで、昨日のレポートは書けた?」
「書いたから寝不足なんです」
「そっか、一晩中僕のこと考えてくれたんだね。嬉しいなあ」
「……」
無邪気なオスカーを蹴りたくなってきたけど、私は堪えた。