水の精霊士
扉の内側に、仮面をつけた背が高い男の人が立っていた。真鍮色の大きな蝶が顔に止まっているみたいだ。目と口は覆われていないけど、仮面に施された複雑な浮き彫りが視線を奪う。この人がオスカーさんなのか。
「デイジー、君と二人で話をしたいんだけど」
「え……はい」
「中にどうぞ」
「失礼します」
招かれる動作に、私は歩を進める。中に入った途端にオスカーさんによって素早く扉は閉められた。私は中に入ってまで話をしたくなかったんだけど。
「クラウゼ所長、デイジーを連れてきてくれてありがとう。どうぞ仕事に戻って。大地の精霊士なら安全だから」
「あ、ああ……そうか。仲良くやってくれたまえ」
オスカーさんは気軽な口調で扉の向こうの所長に告げた。そういう関係性のようだ。所長は腫れ物に触るような感じで、怒りもしない。でも私はカンパニュラを舐めた発言がちょっと気になった。
「さて……」
とは言え、仮面がこちらに向いて、ちょっと緊張した。目のところは空いているけれど、影になってよく見えない。軽い気持ちで来たのに、彼は私に何の話があるんだろう。
この部屋は薄暗かった。わざと暗くしているのかもしれない。壁一面には薬品棚のようなものがあって、瓶や本、何だかわからない材料が置かれている。カンパニュラが心配そうに大きな雪豹の姿を現した。
「君、何か飲む?水でいいかな?」
オスカーさんは手近なところから空っぽのグラスを持ってきて、私に差し出した。受け取ろうとしたときに、水がグラスの底から湧きあがる。何も言わなくても、彼の水の精霊がやってるんだろう。一心同体という感じがする。私もカンパニュラと二人きりでお部屋にこもり、こうなりたく思った。
「すごいですね」
「でもこれ、あんまりおいしくない水。何でかわかる?」
楽しそうにオスカーさんの口元が笑った。思ったより人嫌いじゃなさそう。
「オスカーさんの水の精霊さんが出してくれた水ですよね?すごくきれいで、おいしそうですけど」
「オスカーでいい。堅苦しいの嫌いなんだ。で、それ純水なんだよ。何も溶けていない完全な水。だからちょっと飲みづらいんだ。井戸水とか湧き水は、きれいに見えても色んな成分が入ってるからおいしいんだよね」
「そうなんですか……」
しかもめちゃくちゃ喋る人だ。私は恐る恐る、一口飲んでみた。無味無臭だ。でもごくごく飲めるかというとそうじゃない気がした。森でカンパニュラが掘ってくれた湧き水はまろやかですごくおいしかったのに。
「あはは、君って正直なんだね」
「す、すみません、顔に出てましたか?」
オスカーに笑われて、私はあわてて顔を取り繕う。まずそうな顔をしたかもしれない。
「いや、いいよ。それより、僕は君に忠告しようと思ってさ」
冷たい指先が掠めて、私の持つグラスを奪い取った。オスカーはそのグラスを机に起き、色々な粉末を小さな匙で投入して混ぜている。
『変なやつだな』
カンパニュラがオスカーの体をすり抜けて、グラスの中身をチェックしだした。精霊士同士でも、はっきりわかるのは自分の精霊だけで、他人の精霊は何となく気配を感じるだけだ。
そして精霊も同じで、カンパニュラはほかの精霊士の精霊と交流は出来ない。
「はい。砂糖と塩とレモン粉末で味付けしたから、今度は飲みやすいと思うよ」
「ありがとうございます……レモンの粉末?」
「レモン果汁から水分を全部取り除くと粉になるんだ」
「そんなことも出来るんですね」
カンパニュラ自由に室内を検分し出している。水を飲んでみると、今度は甘くて、レモン風味が爽やかでおいしかった。
「おいしいです」
オスカーが私を見て低く笑った。
「素朴だね、君って」
「……田舎出身ですから」
「フューゼン村って聞いたけど確かに、そんな雰囲気だ」
「それはどうも」
クラウゼ所長は私の情報を結構話していたらしい。仮面越しにじろじろ見られている。オスカーはみんなと同じ、制服の白衣を着ているけど、背が高くすらっとしているので似合っている。派手な仮面はどうかと思うけど。
髪の毛は私より暗い金髪で、しばらく切っていないのか肩下より長かった。でも癖がなく真っ直ぐなので、ひとつに縛るだけできれいにまとまっている。
「僕のことは全然知らないのかな?」
「ここに来て初めて聞きました」
椅子から山積みの書類を床に下ろし、オスカーが席を勧めてくれたのでとりあえず座る。
「じゃあ、君と君の精霊に忠告。あんまり派手にやったらダメだよ。君の身が危なくなる。研究所の畑への加護を1日で終わらせたんだって?」
『うるさい小僧だな。私はそのくらいわかって調整している』
カンパニュラがくわっと牙をむき出して文句を言った。でもそれはオスカーには聞こえない。
「あと、1日1回だけど、植物を収穫状態まで一瞬で成長させられるんだっけ」
オスカーは座っている私の耳元に顔を近づけて囁いた。
「1回なんて縛り、嘘だって僕にはわかるよ。つまり、国中の畑を一瞬で収穫状態に出来るってことだよね」
「……」
私は困ってカンパニュラの青い瞳を見た。そう言われたら、そうかもしれない。精霊は疲労ということを知らないから。カンパニュラは私と視線を合わせなかった。
「でも、何があっても絶対にそれはやったらダメだよ。苦しんでいる人がいようと、見過ごすしかないんだ。僕は若いときにそれがわからなくて、ブローディアに無理なお願いして、恋人と別れちゃったから」
「えっと……」
私は言葉が見つからなくて黙った。ブローディアとはオスカーの精霊の名前だろう。でも恋愛関係の話は全然わからない。オスカーは自分用の飲み物を調合しながらため息をつく。
「君、恋人はいる?」
「……っ?」
オスカーがいきなり突っ込んだ質問してくるので、私は噎せそうになった。普段人と接しないだけあって距離感がおかしい。