ケンカと初仕事
「そんなにこれが欲しい?」
私はトランクを投げつけた。驚いて受け取ろうした男の隙をつき、ナイフを持っている手首に肘を当てる。簡単に取り落とすので、それは蹴って後方に飛ばした。
「くそっ、ずらかるぞ!」
男はトランクを大事に抱えて方向を反転させ、走り出す。背中を見せて馬鹿なのかもしれない。私はすぐに追いつき、膝裏を蹴った。
「うあっ!!」
「えっうわっ!!」
男は、目の前のもうひとりの男を巻き込んで盛大に転ぶ。残るひとりは巻き込まれなかったけど、滑りながら足を止めた。
そうして私に向かって、錆びた機械のようにゆっくり振り返る。目が血走っていた。人を化け物みたいに見ないで欲しい。先に手を出してきたのはそっちなんだから。
「お前、ただの人間じゃないな?」
それには答えず、私は倒れたままのトランクを抱えている男の脇腹を爪先で蹴る。
「ぐっ………!!」
「人を襲うってことは、やり返される覚悟は当然あるんでしょ?」
痛みにもがく男をもう一度蹴って体をひっくり返した。正直、私は上品な育ちはしていない。田舎出身を舐めないでもらいたい。
もう誰も手出ししてこないので、落ちている私のトランクを拾った。
「私、髪の毛引っ張られるの大っ嫌いなの。今度やったらこんなものじゃ済まさないから」
なぜか私が捨て台詞を吐いて、裏路地を出た。もう裏路地には入らない。それから宝石店に出入りした後は気をつけないといけない。
『すまない、デイジー。あそこで地割れを起こす訳にも行かず……』
耳元でカンパニュラが申し訳なさそうな声がした。私の髪を引っ張ったくらいで地割れはちょっと笑ってしまう。
「ううん、宝石店のおじさんの忠告聞かなかった私が悪いし、あんなの私の蹴りで十分よ。カンパニュラは少しも悪くないよ、お金手に入ったし。ベッドの注文したら帰るね」
もうトムのことも絶対考えないと決意した。考えるだけで災厄が起きる。
人通りの多い道だけを選んで通り、無事大型ベッドと寝具を注文したあとはさっさと帰った。
翌朝、早い時間にクラウゼ所長秘書のヨハナさんは私の部屋を訪れた。
「朝早くにすみません」
「いえ」
「服はまだ仕上がってないんですが、デイジーさんのサイズに近いものを用意したので……」
ヨハナさんは、白衣2枚と、おとなしいデザインの普段用と思われる衣服を2揃い渡してくれた。それからベール付きの帽子もあった。
「デイジーさんが大地の精霊士と特定されないように、良くあるデザインのドレスです。研究所の仕事で外に出るときはそちらを着て欲しいんです。今着てください」
「はい……」
この製薬研究所が秘密主義なのか、大地の精霊士がそんなに大変なものなのか、結構面倒なんだなと思った。
それでも、フューゼン村から着てきた服はちょっとほつれて来ていたので助かった。私はそれらを着て、初仕事をするべく部屋を出た。
「なかなかかわいいですよ。白衣も似合ってます」
ドアの外で待っていたヨハナさんが私の姿を見て微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」
部屋の鏡で確認した限りでは、文字通り借りてきた衣裳って感じにしか私は見えなかった。でもそのうち見慣れると思うことにする。
ヨハナさんに案内されて、私はマリアンネの待つ温室に行った。温室と言っても、ちょっとした家くらいの大きさがある。絶対に手が届かない遥かな高さの三角屋根にまでガラスが嵌め込まれ、そこから日が射して朝からとても暖かい場所だ。暑いくらい。
「早速デイジーに頼みたいのは、この辺りの植物よ。痛み止め薬の即効性を高めたいんだけど、この材料はもうなくなってしばらくなの。収穫できるまで成長させてくれるかしら」
マリアンネは期待と不安、半分ずつくらいの表情で私を見ている。
示された一角には見たことのない珍しい植物が植えられていた。霜がついたみたいに白い産毛に覆われた葉や、黒紫の草、垂れ下がる麦の穂のような植物とすごそうなものばかり。
「あの、デイジーの1日に1回の成長促進ってどのくらいの面積なのかしら?」
「この1角くらいなら全然大丈夫ですよ。ね! カンパニュラ」
私はカンパニュラが何か言う前にそう言った。人助けにもなるんだし、ケチり過ぎるのは良くないと思う。
『まあいいだろう』
カンパニュラの声が聞こえたあと、植物は突然意思を持ったかのように、ゆらゆら動きながら成長を始めた。何回見てもすごいなあと眺めている間に成長促進は終わった。
「す、すごい……これなんて10年に一度しか実をつけないのに、こんな一瞬で……。この実が0.1モーニあるだけで全然違うのに……私、これから毎日これで実験できるの?私の研究者人生始まったわ……」
マリアンネは声を震わせ、私の両手を取った。マリアンネの頬にすうっと涙が流れる。
「ありがとう……ここに来てくれて。デイジー、あなたは私のかわいい天使よ」
「人間です」
「いいの、私のデイジー」
両手をぶんぶん振られて、どうしたらいいかわからない。
「デイジーはとてもいい子ね。話も通じるし……精霊士って変な子ばかりかと思ってたわ」
「私はいい子じゃないですよ」
昨日人を蹴ったばかりだし、昔からいい子なんて言われたことがない。でもマリアンネは私の頭まで撫でて微笑んだ。妹か弟でもいるのか、お姉さん力を感じる。
「そういえば、ここに水の精霊士がいるって聞いたんですけど」
精霊士は変な子ばかりというマリアンネの言説が気になった。
「ええ。いるけど、ほとんど自分の研究室に閉じこもって出てこないの。薬については天才なんだけど会話は基本的にドア越し。たまに所内を歩くときは仮面をつけてるのよ」
「すごい人ですね」
私は、精霊の趣味って変わってるかもという思いを新たにした。
「でも同じ精霊士なら、気が会うかもしれないわね。一度会いに行ってみたら?」
「そうですね……ただこの後は遠方の農場に行かないといけませんから」
そう温室の外で待つヨハナさんに言われている。大地の精霊士として、畑に加護を与えに行く予定だ。
「あら、そうよね。じゃあ、また明日お願いね」
「はい」
そうして温室を出た。ヨハナさんと一緒に研究所前に待機していた、3頭立ての大きな馬車に乗り込む。馬車の中には軍服を着た人が2人いた。
「何だか、物々しいですね」
「それだけデイジーさんが貴重な人材ということです。畑に加護を与えるのは、デイジーさんにしか出来ないとても立派なお仕事です。もっと胸を張って下さい」
ヨハナさんは澄ましてそう言った。私が向かいの席に座っている軍人に萎縮してるからだと思う。彼らは口を引き結び、一言も喋らない。
狭い空間で黙ってるのも気まずくて、私は隣に座るヨハナさんに話しかけた。
「大地の精霊士って珍しいとは言いますけど……たまには居ますよね?」
「いいえ。ほんっとうに偽者、詐欺師ばかりです」
ヨハナさんはものすごく力を込めて強調してきた。
「どうしても畑に与えた効果がはっきりするまで時間がかかりますから。大地の精霊士が最弱という噂を悪用して、精霊の加護がなくて基本的な腕力すらないのに、精霊士だと言い張る人もいますよ。それで困窮してる農民から、加護を与えたふりをしてお金だけ取って逃げるんです」
「そんな人たちがいるなんて……許せないです」
私は胸がむかむかした。
「私もそう思います。でも、それだけ個人で動けばお金儲けが出来るということです。なのにデイジーさんは当研究所に入ってくれた。心が清くて志が高くて、すごいなって思ってます」
「い、いえ」
私はそんなの思いつきもしなかったというだけなんだけど。ヨハナさんはちょっと上目遣いになって私を見た。柔らかなヘーゼル色の瞳がキラキラしていた。