ザシャの決意
※ザシャ視点です
デイジーの姿が小さくなり、鬱蒼とした暗い木立に呑まれ、完全に見えなくなるまでザシャは手を振っていた。
奇跡のような少女がどうか安全にユーゲンベルクに着くように、それだけを祈る。
ザシャ自身がついていく選択もあったが、ただ足手まといになるだけなので遠慮した。魔獣の弔いと、食材を運んでくれる人が明日到着予定であったのもある。行き違いになっては申し訳ない。
それに彼女には、信じられない程強い精霊がついている。彼女の身に危険など起こりようもない。
ただ、再び会いやすいように多少の嘘をついてザシャが関係している製薬研究所を紹介した。そこなら、デイジーの能力に群がるうるさい蝿に集られることもないだろうと思ったのだ。
精霊士については多少詳しいザシャは、デイジーが安寧に暮らせるように手を尽くすつもりだ。その為の手紙も渡した。恐らく彼女の精霊も察して手を貸してくれるだろう。姿こそ見えないものの、手紙を書いているときに気配を感じた。
「はあ…………」
力か抜けて、ふらつくザシャを愛犬ドーリスが心配そうに見上げた。黒い毛並みに、茶色の瞳が愛くるしい。
「だ、大丈夫だよ、ドーリス。ちょっと胸がいっぱいなだけ」
ザシャはしゃがんでドーリスを撫でた。この孤独を強いられた3年を支えてくれた相棒だ。
「一緒に帰ろうな」
わかっているのかドーリスは激しく尻尾を振った。ユーゲンベルクにはザシャの家族がいる。再び会えるという希望が伝わっているらしい。
再びデイジーが消えた木立に視線を送る。
『また』とデイジーは笑顔で立ち去った。彼女は約束を守る人だ。その希望溢れる言葉をザシャは何度も何度も噛み締める。
この森に入ってからというもの、そんな人物はいなかった。事情を知っていて無言で立ち去るものか、魔獣に呪われていると知って恐怖に駆られて逃げていくものばかりだった。
魔獣の存在を知って、逃げずに戦うと言ってくれただけでどれ程ありがたかったか。あの瞬間に完全に心を奪われた。だからこそ失いたくないと思ったのだが、驚くべきことに、デイジーは宣言通りやり遂げてしまった。それも今まで誰も知らない方法で魔獣を消滅させた。
その場の思いつきとしてはあまりに的確で、大いなる存在を思わずにはいられない。
「デイジーこそ精霊に愛されるべき人だ……理知的で、他者への深い配慮があって、勇気もある。素晴らしい人だ。きっとあんな子だからすごい精霊に愛されるんだ。もしかして、神に選ばれた天の使いかもしれない」
そもそも、最初にデイジーを見たときには、幻かと思ったのだった。寂しさのあまり、とうとう都合の良い幻を見るようになったのかと、自分の正気の終わりを予感した。
こんなところにひとりで現れるはずのない、かわいらしい少女だったからだ。明るい金髪に花のような香りをまとって、非現実的な清らかさがあった。
しばらく果物だけ食べていると語っていたがそのせいもあったかもしれない。
ただ、故郷の村を出て旅をしている理由について彼女に尋ねたときに、明らかに表情が曇ったことを思い出す。
あれほど強大な力を持つ彼女の笑顔を曇らせるものについて、ザシャは何一つ理由が思いあたらなかった。人には言えない、大きな宿命を背負っているとしか思えない。
魔獣に引き寄せられるように突然現れた、強力な精霊士。彼女が目指しているというザシャの生まれ育ったユーゲンベルク。
「これから何か起こるのかもしれない……」
あの細い両肩にのしかかる運命を思うとザシャは胸が苦しくなった。
せめて、デイジーに降り注ぐ人間の悪意から彼女を守ろう。彼女のためなら何でもする。地を這い泥水を啜ろうとも、今までの日々からしたら軽いものだ。そうザシャは決意を固めた。
確かな判断材料などない、ただの思い込みであってもザシャの決意は固かった。自身をはげますように、拳を握ってデイジーの顔を思い浮かべる。
汚してはいけない存在に思うが、それでも話をしていると人間的な魅力に惹かれてしまう。制御出来ずに自身の外側に漏れ出た好意に、デイジーは居心地悪そうにしていた。
「迷惑がられてたな……」
ふっとザシャは笑った。近寄ろうとすると逃げる野生動物のようで、かえってかわいらしかった。
「友人として支援するくらいは、許してくれるだろ?」
失った人たちの幻が、森の奥に見えた気がした。