3 優しければ優しいほど
それは放課後、トイレに行った時の事だった。
用足しを終えて個室を出ようとした瞬間、バケツをひっくり返したような雨に降られた。一瞬理解ができなかったが、すぐに本当に水の入ったバケツをひっくり返されたのだと気づいた。
キャハハハハと悪意のある笑い声がこだまする。扉越しに口汚い言葉が展開される。まるでこれが現実ではないような感覚がして、涙が出ない。受け入れられない。これが私の現実だなんて。
何も言えず泣くこともできずただ呆然としていれば、あの人たちは飽きたのか笑いながらトイレから出ていく。遠くなっていく笑い声。あたりが静寂に包まれてやっと、私は泣き出す。自分の嗚咽と、床に雫の落ちる音だけが虚しく響く。
濡れた制服が重い。お母さんになんて言おう。びしょ濡れにしてしまった言い訳を考えなきゃいけない。なのに、悔しくて涙が止まらなくて、今は何も考えられそうになかった。
ただ悲しみに暮れていると、キィと扉の開いた音がした。誰か来た。泣くのをやめなきゃと思っても、しゃくりあげる声を止められない。そのうちに個室の戸をノックされる。
「春海ちゃん?春海ちゃんだよね?どうしたの?大丈夫?」
無月ちゃんの声だ。答えようにもしゃくりあげてしまって上手く声が出ない。依然として泣いていれば、無月ちゃんはまた優しく声をかけてきた。
「喋れないならそれでいいよ。でも心配だから、とりあえず鍵開けて」
こんな惨めな所を見られてしまうのは屈辱的だけれど、無月ちゃんがいなくなる気配もないので観念して鍵を開ける。戸が開いて、濡れそぼった私を見た無月ちゃんは目を丸くしていた。間を置いて、彼女は口を開く。
「……保健室に行こう」
無月ちゃんは私の右手を引いて歩き出した。嗚咽の止められない私の様子を注意深く見ながら、保健室に連れていってくれた。けれど今の私にはそんな無月ちゃんすら恨めしい。ごめんね。私は最低な人間だ。
保健室の扉には退室中の札がかかっていた。鍵は開いていたので、とにかく私が人目に晒されないようにと中に入る。私をソファに座らせると、無月ちゃんはジャージのサイズを私に聞いて、タンスから同じサイズのジャージを持ってきた。
「先生いないけどこれ借りちゃおうか。後から言えば大丈夫だよ」
ジャージを私に差し出す。泣くばかりで受け取れない私を見て、傍らにそっとそれを置いた。優しい。でも無月ちゃんはきっと私を哀れんでる。私に同情している。自分も親から虐待されているから、いじめられている私に自己投影しているだけなんだ。悔しい。一人憎悪の炎を燃やしていれば、無月ちゃんはいつの間にか私にティッシュを差し出していた。その時、何かがぷつっと切れる音がした。
「……いで」
「ん?」
「私に優しくしないで!同情なんでしょ!?哀れみなんでしょ!?そんな気持ちで助けられるの、一番迷惑だよ!」
「違う、違うよ。私は春海ちゃんの事好きだから、それで」
「そんなんじゃないでしょ!?こんな短期間じゃ、好きになる理由がないもの!……無月ちゃん、親から虐待されてるんでしょ」
「えっ」
「だから私の事助けて救われた気になってるんでしょ。そんな悦に浸るための道具にしないで。……もう、お願いだから出てって」
「……」
無月ちゃんは何も言わず、保健室から出ていった。
ああ、私何やってるんだろう。自分から敵を一人作ってしまった。悔恨の念にまた涙が溢れてくる。
私の事を想ってくれていたかもしれない人に、ひどい言葉をぶつけてしまった。こんなんじゃ、私もあの人たちと一緒だ……。
無月ちゃんが探して置いていってくれたジャージに袖を通せないまま、私はしばらく西日に照らされ泣いていた。