1 一人ぼっちの告別式
リンドウ
『悲しんでいるあなたを愛する』『正義』『誠実』
ヒマワリ
『私はあなただけを見つめる』『愛慕』『崇拝』
クローバー
『私を思って』『幸運』『約束』『復讐』
放課後の教室、告別式。
私の机には教室の隅にあった古い花瓶が乗せられ、黒板は別れの文字で飽和している。
これでもう何度目かも分からないその光景をただ呆然と眺める。
私は2年生の頃からいじめられている。きっかけは何もない。ただ普通の学校生活を送っていただけだった。それがいつしか容姿の醜さや運動音痴なことを笑われるようになって、いつの間にかいじめの標的になっていた。とっくに文理で分けられているのでクラス替えもなく、3年生になった今もこうしていじめられ続けている。
この世は地獄だ。
救いも何もない。
私が頭の中で彼らを殺すのと同じだけ、また彼らも私を殺す。教室で私を血祭りにあげては、罵詈雑言に満ちた告別式の痕跡を残して去っていく。
『春海ちゃんの告別式』。見慣れたフレーズにもう怒りすら湧いてこない。涙さえ出てこない。
がらっ。教室の扉が突然開く。その音に思わず振り向くと、そこにはクラスメイトの女の子がいた。
見られてしまった。今まで誰かに見られたことはなかったのに。
何か言われたらどうしよう。いじめられている事が広まったらどうしよう。
幾多の考えに脳を支配され呻吟している間にも、その子の目は私を捉え、私の机を捉え、黒板の文字を捉えた。
驚きで動けない私を尻目に、その子は横を通り過ぎる。すると、黒板消しを手に取って黒板の文字を消し始めた。まるでその行動が当然だと言わんばかりに。それを見た私は慌てて黒板の方に向かう。
「だっ、大丈夫、私が全部消すから、岸波さんは帰っていいから」
「これ全部消すの一人じゃ大変だよ。手伝わせて。……ていうか、名前知っててくれたんだ」
「え、あ、間違ってたらごめんなさい」
「いや、合ってるよ。岸波無月。あなたは水縹さんだよね」
「う、うん、そうだよ。水縹春海。」
会話が終われば、黒板をこする音だけが響く。文字は案外力強く書かれていてなかなか消えない。どれだけ丁寧に消したとしても、明日の朝まで跡が残ってしまうのは明白だった。岸波さんは隣で黙々とそれを消している。そういえば、まだお礼を言っていなかった。
「……あの、手伝ってくれてありがとう」
「いいのいいの。しかしさぁ、今の時代にまだこんな事する奴らがいるんだね。いつもこうなの?」
「うん……2年の時から、ずっとこうなの」
「ふーん……」
岸波さんの横顔を一瞥する。彼女の右目は眼帯で塞がれていて、表情を読むのは難しかった。
岸波さんは3年生になると同時に転校してきた子だ。いつも右目に眼帯をして、左頬にガーゼを貼り、首と腕と脚に包帯を巻いている。家庭内で虐待されていて、親から離されて転校してきたんじゃないかと噂されているみたいだった。
岸波さんの事を考えながら手を動かす。黒板がまっさらになっていく。二人だと、消えるのこんなに早いんだ。ぼんやりそう思う。
「これでいいね、跡もあまり目立たないかな」
「……あの、本当にありがとう」
「いいんだよ。大丈夫。ほら、黒板消し貸して。きれいにするから」
「え、あ、」
自分でやると言う間も与えずに、私の手から優しく黒板消しを取る。窓から身を乗り出して黒板消しを叩き始めたので、せめてその傍らに寄る。岸波さんはおもむろに口を開いた。
「ねえ、こんな世界、滅んだらいいと思わない?」
突然現実味のない質問をされ呆気にとられる。なんて返せばいいのかわからない。戸惑っている間にも、岸波さんは黒板消しをリズムよく叩いている。後ろ姿。表情が見えない。最適な返答が見つからず黙っていると、岸波さんはこちらを振り返り優しく言った。
「冗談だよ。そんな深く考えないで」
「ごめん……でも、正直に言うと滅んでほしい、かな」
「だよね。誰かが傷ついて泣き続ける世界なんて、滅んじゃえばいい」
そう言って、温かい声色とは裏腹に底意地の悪そうな笑顔を見せる。瞳の奥に居着く彼女のシニカルさが垣間見えたようで、私は急に不安になった。
「じゃあ、私は帰るね。水縹さん、また明日」
「うん、今日はありがとう。じゃあね」
岸波さんはひらひら手を振って教室を後にする。
負の文字列がすっかり消された黒板を眺めて、私は一人傷だらけの彼女の事を考えていた。