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第二十話 4月30日の出来事 ①

ハーパー工業のオフィスで女の苛立った声が響き渡る。

「ちょっと、この資料おかしいところだらけじゃない? 私が頼んだ内容と全然違う。ちゃんとメールで送った内容見た? 説明して」声の主は斉藤久美だった。


温和で入社以来、声を荒げたことすらない彼女の姿を見て、部内の同僚は一同に驚きを隠せていない。資料を作成した社員も彼女の予想外の反応にどうしていいのかオロオロとしている。さらに彼女は矢継ぎ早に叱責を続けていく。


「私に見せる前にあなたは中身を確認した? こんなの新人だってミスしないわよ。時間ないんだから、とっとやり直して」皮肉がこもった口調で彼女が話を切り上げようすると、その社員が恐る恐る説明をし直す。


「すいません、メールの指示通りに作成したのですが、どの点に不備があったのでしょうか? 各部署ごとの勤怠状況の比較の件ですよね?」メールの中身と資料を比較しながら、彼は説明をし始めた。説明を聞いているとすぐに彼女が別の社員に指示した案件と勘違いしていたことが判明した。


「ごめんなさい。声も荒げてしまって……。私の完全な勘違いだったみたい。資料は何も問題ないわ。改めてごめんなさい」頭を下げて申し訳なさそうに彼女は謝っている。普段の行いもあってかその社員も温かい言葉をかけ、気にすることなく去っていった。


そんな失態もあってか斉藤久美の様子は落ち着きもなく、目の焦点もどこかおぼろげであり、業務にも全く集中は出来ていないだろうという状態であった。彼女の異常な様子を見て、部内では普段とは違った不穏な空気が流れている。


 昼休みになり、同僚から彼女にランチの誘いがあった。社員食堂で会話を交わす。

「顔色悪いみたいですけど、大丈夫ですか? もし体調悪いなら早退したほうがいいと思いますよ。宮田さんの仕事ならカバーしておきますから、普段、お世話になっているので」


「心配かけてごめんね。連休で休んだつもりだったんだけど、全然疲れが取れなくて、お言葉に甘えようかな。タスクリストだけ作って渡しておくね。本当にありがとう」


 上司に事情を話し、早退の許可を得ると、彼女は残務を終え帰りの支度をし、帰路に着く。その最中に吐き気をもよおし、昼食を全てぶちまける。連休の終わりくらいから些細なことに苛立ち、食欲も減り、食べたと思えば全て戻してしまう。


傍から見れば、風邪か精神的なストレスにしか思えないだろう。ただ、トイレの中で彼女は全く別のことを考えていた。黒川と一夜を共にした後は罪悪感だけしかなかったが、今は別の感情が心を動かしている。


愛している夫に抱かれてもあのときの快楽には勝てなかった。仕事でミスをするほど、あのときのことばかり考えている。そして、それが原因なのかわからないが、肉体的にも精神的にも変調をきたしている。彼女は決意し、スマホを取り出すと、黒川にメッセージを送る。


「お久しぶりです。今日、時間はいつでもいいので会ってくれませんか? 場所は黒川さんの好きな場所で構いません。いきなりのお願いで申し訳ないですが、よろしくお願いします」

彼女の口から艶っぽいため息が漏れる。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 栗山学園1年C組の生徒、阿部愛理は授業が終わるとすぐに教科書などを鞄にしまい、そそくさと教室を出ようとしていた。そんなタイミングで元気な声色の友人に愛理は話しかけられる。


「愛理、放課後空いている? よかったら皆でカラオケ行くからどう?」愛理は軽く謝るように頭を下げながら言う。


「ごめん、今日は園芸部の部活動行かないと駄目なの。せっかく誘ってくれたのに」友人は納得したようにおしゃべりを続ける。


「そっか、高校に入ってから、珍しく愛理は部活に熱心だよね。中学のときなんて帰宅部だったのに……」おどけた態度を友人は見せている。


愛理が入学している栗山学園は中高一貫の女子校。高校に上がったからといって、環境が特に変わるわけでもない。高校からの入学者は少ないので、友人もいつも通り、今話している彼女も中学からの友人。


苦笑いをしながら愛理は言った。「意外と土いじりが楽しくて、心が落ち着くんだよ。信じられないかもしれないけど、ちょっと付き合い悪くなっちゃってごめんね」


愛理に嫌味のように聞こえたのかも知れないと友人は思い、慌てて否定するように手を振るジェスチャーをする。


「そんな意味じゃないよ。愛理は本当に考え過ぎなところあるんだから、今度は行こうね」

そう言いながら待っているグループの方へ向かって行った。


 彼女たちに教室を出る手前で帰りの挨拶をして、愛理は園芸部の部室へと向かった。園芸部とは言っても規模としては同好会かそれ以下だ。部員は数人ですることは校庭の隅にある家庭菜園を少し大きくした場所で野菜や花の栽培をするだけ。


そこへ向かっている愛理の顔はほのかにニヤけている。彼女の園芸部での楽しみは友人に話したように土いじりではなく、本当のところは園芸部の顧問である吉岡に会うこと

であった。


 菜園の近くにある10畳程度の倉庫兼部室の扉を開け入ると、鍵が閉まっており、いつものようにまだ誰も来ていない。荷物を部室に置き、草木に適当に水をやっていると顧問の吉岡の姿が見え、愛理の顔が少しだけ赤らむ。


吉岡は現国の教師であった、クラスの担任でもなく授業以外では愛理との接点はほとんどない。年齢は愛理より一回り以上離れているアラサー、見た目は実年齢と変わらなく中肉中背で少し長めの黒髪をまとめて黒縁メガネをかけている。


他の教師に比べ、比較的愛理たち女子高生とも年齢が近いが、授業がつまらなく、事務的な態度と冴えないルックスのせいで生徒からの評判は可もなく不可もなくといった教師。それでも愛理は初めて授業で会ったときから興味があった。愛理を一番刺激したのは……


「阿部さん、いつも早くに来てくれてありがとう。水やりもしてくれて助かります。今日はもうほとんどやることはないですね。日誌を書きましょうか」


この少し高めの優しい声が愛理を虜にした。好きでもない部に入り、出来るだけ一緒にいる時間を増やした。たった数週間の時間だったが、愛理は吉岡にどんどん夢中になり気がついたら好きになっていた。


 部室に戻り、植えた植物の成長記録をふたりで書いている。記録を書き終えると時刻も17時過ぎになっていて、窓ガラスから夕日が差し込んでいる。


「いい時間になってしまいましたね。そろそろ出ましょうか。先生はまだやることがあるので残りますけど、阿部さんは寄り道しないで帰って下さいね」


相変わらずの事務的な口調で吉岡が耳にかかった髪の毛をかき上げながら、話した。愛理はそのときにる吉岡がいつもいるピアスとは違うモノを付けていることに気がつくとこれはチャンスとばかりに声を出した。


「先生、そのピアス可愛いですね! すごい似合っています」誰も気がついてくれなかったことに吉岡も気分がよくなったのか口調が少しだけ柔らかくなる。


「気づいてくれたの? ありがとう。デザインがとてもよくて衝動買いしてしまったの。でも、可愛すぎて子供っぽくないかしら?」


「そんなことないです。先生にぴったり似合ってますよ。先生、綺麗なんですから、そういうギャップいいと思います」


吉岡は優しい笑顔を見せ、ふたりのファッション談義をしながら、しばしの甘い時間を過ごしていった。


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