第十六話 黒川仁の過去 後編
チェーン店の居酒屋で酔った黒川のぼやきが止まらない。
「今年もあのムカつく課長に勝てそうにないよ。俺、やっぱり才能ないのかな。気分悪いわ。あの成績、絶対にインチキしているって。最近、また雑務も押し付けてくるし」
「それ、よく言っているババアでしょ? 話聞く限り完全にサイコパスだから、多分お前じゃ勝てないよ。そんなムカつくなら脅せばいいじゃん」一緒に飲んでいる、森があっけらかんと言う。
「俺はサラリーマンじゃないからわからないけど、3年目で表彰も数回も受けているんだろ? 十分にやってるんじゃないの? というか、お前がリーマン続いているのが奇跡だけどな」黒川の性格を知っている森は素直に驚いているようだ。
「成長したの、鼻っ柱をへし折ってやらないと気がすまないんだよ。彼女もコキ使われて、疲れきっているしさ。それわかっているのに上は何も対策しないから……」黒川はため息をつく。
「ああ、やっぱり美奈子ちゃんが絡んでいるのね。もう付き合って1年経っているっけ? すごく良い子だよな。クズのお前にはもったいないくらいに」冗談めいた森の声。
「うるさいよ。まあ、美奈子のこともあるし、新入社員もキツく言われているから、何とかしないと駄目だな、本当に」黒川が呟いた。
「変に気負いすぎるなよ。時間あるときなら愚痴くらいは聞くから、まあ、俺にとってはお前が爆発したほうが面白いんだけどな」黒川と森の話は深夜まで続いていた。
昨日の寝不足を醒ますためにコーヒーを飲みながら、黒川はメールの処理をしていると、電話が鳴る。新入社員からで今日は体調が悪いから休みたいという連絡だった。翌日も休み、翌々日は出社したが、目に生気がない。伊東が休んだことに対して、学生気分が抜けてないと説教をしている。
昼休みになって、同僚と一緒に食事の誘いをしても仕事があると、断られてしまった。食事のときの話題は新入社員の話で持ちっきりだった。伊東の毒でこのまま辞めてしまうのではないかという話題。
案の定、休みがちとなってしまい、数週間後、自主退職することとなってしまった。伊東のせいだということは明白だったが、彼女には処分は何もない。
このことに最もショックを受けていたのは、黒川の恋人である高村美奈子であった。短期間でも、伊東の業務を一緒にしていたこともあり、自責の念にかられていた。
彼女の部屋で食事をしているとき、美奈子が悲しげな口調で話しかけてきた。
「ねえ、仁くん。伊東課長、酷すぎない? 皆見て見ぬふり、凄いのはわかるよ。でも、人として絶対に間違っていると思う。追い詰めて、追い詰めて……。汚いことも平気でやって、それって正しいのかな? 私は正しいとは思わないな」
相当思うことがあったのかも知れない。顔を見ると目には涙を浮かべている。
「俺も伊東課長と仕事していたときは、毎日息苦しかったし、わかるよ。あの人良心って感情ないからね。でも、会社にとっては伊東課長の方が必要な人材だっただけかな、会社って利益を上げるためにある組織だし」
「そっか、それってとても寂しいことだね。私も必要じゃなくなったら契約打ち切られてクビかな? 更新までもう少しだし」彼女は自嘲気味に笑う。
「大丈夫だって! だって正社員化の話が来ているんでしょ? 美奈子がいなくなったら営業部、仕事出来なくなるよ。頼りないと思うけど、俺が保証するよ」黒川は強めな口調になり、彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「ありがとう、仁くん。色んなことがあったから、ナーバスになっちゃったのかも。少しこのままでいるね、何か疲れちゃった」美奈子はゆっくりと首を傾け、黒川に身体を預けた。
新入社員が退職し少し経ってから、美奈子と伊東との間に軽い口論があったという話を黒川は聞いた。トラブルを避ける傾向のある美奈子らしくない行動で周囲も驚いたようだった。翌日から起きることは誰もが予想出来たことだった。
他の社員に見せつけるように伊東は美奈子に嫌がらせを始めた。伊東の指示通りに作成した資料を指示と違うと目の前で破ったり、無理難題をふっかけて彼女に謝罪させるなどだ。まるで辞めろと言わんばかりの行動だった。
不安を感じた黒川は上司経由で伊東の行動を何とか出来ないか相談したが、回答はいつも通りの曖昧なまま。伊東に直接文句を言っても上の空。必死に彼女のケアをしても日に日に表情が暗くなっていくことを止めることが出来なかった。気晴らしにと食事などに誘ってもいつもと違い彼女は乗って来ない。
エスカレートしていく伊東の行為を止められないことに対し、黒川自身も情けなさを感じ、日々を過ごしていていた。そして、ついに彼女は職場を休むようになってしまった。電話をしても繋がらない、メールを送っても返事がない、部屋に訪ねても反応はない。
社内ではまたかという空気が流れていた。彼女が休み始めて数日後、美奈子から話がしたいという連絡を貰った。久しぶりに会った彼女はメイクもしておらず、髪の毛もボサボサ。あれだけ元気だった彼女の面影はない。ちょうど新入社員が辞めたとき以来の二人きりの重苦しい空間。彼女は諦めにも似た雰囲気で彼に話し始める。
「ごめんね。今までたくさん気をかけてもらったのに、無視しちゃって……。中々気持ちに整理がつかなかった。それにみっともない姿だし」
「俺のことは全然気にしないで大丈夫。それより美奈子のことのほうが心配だよ。あれだけ伊東課長に詰められて、俺こそ守れなくてごめん」
黒川の表情を見て察したのか彼女は一瞬だけ笑ったように見えた。彼女は首を横に振りながら、物悲しい表情なのに覚悟を決めたような目で話を続けた。
「仁くんが色んな人たちに何とか出来ないか動いてくれて本当に嬉しかった。ありがとう。だから、仁くんには隠し事したくなくて、ごめんね。私、伊東課長がどうしてあんなに成績がいいのか、理由を知っているの」黒川は何のことか動揺を隠せなかった。さらに彼女の話は続いていく。
「あの人、空接待、空出張とかして経費を貯めてるんだよ、それを裏金にしているし、この前、辞めた新人に接待でホステスまがいのことをさせていた……。それに正社員の話って伊東課長から持って来た話なんだ。手伝ってくれていれば推薦してくれるって」
美奈子の目からはもう涙が溢れていた。黒川はあまりの衝撃に何も言えなかった。
「私ってずるいよね。餌に釣られて、彼女のことも自分のために助けてあげなかった。間違っているってわかっているのに、不正の手伝いをしていた。伊東課長より最低だよ、私は。こうなったのは自業自得。それで、精一杯反抗したけど、やっぱり無理だった」
最後の方は涙声で言葉になっていなかった。ここまで彼女を追い詰めた伊東。全ての気持ちを出し切り憔悴しきった美奈子に黒川は優しく言う。
「俺にもう少し力があったら、伊東課長のことも止められた。美奈子がこんな苦しむこともなかった。自分が不甲斐ないよ。このことは上に報告しておくから、本当にごめん。」
久しぶりに抱きしめた美奈子の身体はやせ細っていた。どれだけ辛い思いをしていたのか黒川にすぐに伝わった。朝になり、彼女に見送られながら会社に黒川が向かった。
オフィスに到着し、始業のベルが鳴る。ラジオ体操をしていると伊東の姿が見えた。相変わらず、特別待遇ぶり。朝礼も終わると、伊東が香水の匂いを漂わせて席に座る。
「伊東課長、ちょっとお時間頂けませんか? 以前の案件でお客さんから連絡ありまして」
黒川を睨みつけるように伊東が頷いた。空いている会議室に入り、黒川は伊東に単刀直入で言う。
「高村さんから聞きました。不正な経費に新入社員に対してした行為、どういうつもりなんですか?」
自然と語気が強まっている。
伊東は全く表情も変えずに呆れたように言った。
「それで?」
「コンプライアンス違反ですよ、わかっているんですか?」
「それで? お前たち付き合っているんだっけ? 高村、最近ミスばかりで困って男に泣きついたってこと?」伊東の鉄仮面の表情は変わらない。
「仮に不正していたとしても、証拠ある? 勝手に高村がやったって部長も経理も思うと思うけど、無駄な時間取りたくないからもういい?」伊東は立ち上がり部屋を出ようとする。
口頭で伊東に言っても無意味と黒川はわかっていた。伊東の前に空の領収書に美奈子が手書きで記入した領収書のコピーを見せる。伊東が若干目を細める。
「黒川、勘違いしてない? 経理も根回しをしているからこのこと知っているの。馬鹿な高村がやったってことでこの話は終わり。あの女はクビ、あとお前も覚悟しておいて」コピーを黒川に投げつけ、伊東が言い放つ。
伊東に正攻法で挑んでも、敵わない。気がつくと黒川は伊東の胸ぐらを掴んでいた。
「何? 暴力? やれるならやってみれば、出来ないでしょ?」伊東の挑発は続くが、声色は先ほどとは変わり、やや上ずっている。
黒川はそのまま伊東の顔面にめがけて頭突きをしていた。痛みと急な衝撃でやっと人間らしい表情に彼女はなった。そして、あの伊東が恐怖で怯えているように見えた。
「こういうこと起きるって想像してなかったろ? お前みたいなゴミは最初からこうしておけばよかった。」うずくまっている伊東を無視して黒川はデスクに戻った。
不思議なことに伊東から訴えはなかった。ただ、精神的に病んでしまった美奈子は会社との契約を更新が出来ず、退職することとなった。元々、美奈子の正社員化は伊東の意思とは関係なく規程路線だったらしい。しかし、もう後の祭り。
美奈子も中々、よくならず実家に戻って静養するということになった。彼女が実家に戻りしばらくの間は黒川と連絡を取り合っていたが、ある日、彼女の携帯が解約されていた。予兆もなしだった。
結局、黒川は自分の恋人を守れなかった。黒川の怒りの矛先は伊東をほっておいた上層部に向かった。彼らの弱みを握り、伊東と同じ手段を使い、営業部内で黒川はいつの間にか伊東と同じような存在となっていた。
黒川は学んだ。利益を上げるならどんな方法でも容認されること、相手の弱みを握り、相手を操ること、そして、暴力を使えば伊東みたいなサイコパスでも屈服させられること。




