ベランダのあるワンルーム
私の部屋はそこそこイイマンションの四階にある。ベランダ付きだ。
とはいってもフリーターの稼ぎで借りれる一室にしては豪華というだけで1Kの部屋は家具が少ない。
しかしどこに住んでいようともこの冬にはまだ早い時期に褞袍──丹前とも言うらしい──を羽織って炬燵で暖まる幸福に変わりはないのだ。
夕方のワイドショーを半目で眺めながら買い込んだ麩菓子を貪っているとベランダの窓がノックされる。
「よ、おにーさん」
鍵は開いていると身振り手振りで伝えるとにこやかな表情を浮かべて少女は遠慮なく入ってくる。それでもちゃんと靴は脱ぐあたり粗暴というわけでもなさそうだ。
今一度主張しておくがここは四階だ。
「今日のメシはなーにっかなー?」
麩菓子で口が塞がっていて、咀嚼を中断するのも億劫だったので台所を指差すと少女は軽い足取りで向かう。
彼女は何か、という問いにはほんの二割程度の答えしか持ち合わせていない。
彼女の名前が「サナ」という事。苗字は知らない。それと学生であるという事。小中高のどれに当てはまるのかもわからないが、彼女の身長から推測することぐらいはできる。
私が百七十四センチで、並ぶと彼女の顔が胸のあたりにくるので彼女は百五十ウンセンチといったところだろうか。すると中学生の後半かと思われる。
そんな名前も覚束ない少女と断固フリーターと主張する無職の男がどうやって出会ったのかというと別段怪しい事をしたわけではない。
したわけではない、が。出会い方は怪しい、というよりも不可思議ではなあった。
彼女、サナとの出会いはそう、二月ほど前にこの部屋のベランダだ。
ベランダに傷を負って倒れていた。もうこの時点で怪しいものだがまだ待ってほしい。
前提として知っておいてもらいたいのは住んでいるこの街が繁華街だということだ。眠らない街とまではいかないが基本的に夜も電光で明るく、面倒事を抱えた老若男女が歩き回っている。
考えなしに次々と建設される娯楽施設。そしてその隙間を埋めるように建てられた住居。このマンションもその一つだ。故に冗談みたく陽当たりは悪く、ベランダから見える景色は壁に生えたパイプだけ。洗濯物を干そうものなら換気窓からの特定不可能な匂いが染み着いて取れない。
そんな部屋のベランダに年端も行かぬ少女が倒れていた。盗みを働くためにしても目下は路地裏、再三言うがここは四階。狙うならばもっと下層で十分だ。
残る侵入経路は上からぐらいなのだが、向かいの建物の屋上から跳躍でもしない限りは無理だ。
そこまで考えた時点でも十二分に関わりたくなかった。厄介事を抱えているのは明白だから。
そういうのはもっと、自称平凡で特徴のないとされる少年のもとでお願いしたい。
だがしかし、意識のない負傷した少女を放置するのも人道に反するので室内に運び、一般教養の域を出ない応急措置をしてベッドに寝かせた。幸い夏だったので床で寝ても風邪は引かなかった。体は痛めたが。
話の顛末としてはこれで終わり、オチだ。翌日目を覚ました彼女は助けを求めるわけでも身の上話をするわけでもなく、ただお礼を述べたので一緒に朝食を摂った後、送り出した。
それから入り浸かるようになったのは彼女の意思だ。
「今晩は豪勢だけど良いことでもあったのか?」
どんぶり鉢を机上に置いて炬燵の中に足を滑り込ませてくるサナ。
中で彼女の足と触れたかと思うと爪先で脚を撫で回してくる。
「へへ、サラサラして気持ちいいでしょ!」
彼女は異性に、というか私に対する警戒心が足りない。
彼女くらいの年頃では仕方ないのかもしれないが、もっと野性に溢れる男だったらこう、ガッ、とやってしまいそうな迂闊な行動が多い。やらないが。
『────市では謎の爆発事故が頻発しており、幸い死傷者は出ていないものの──』
テレビからそんな文言が聞こえてくる。
自転車で三十分といった距離のところだ。近所と言ってもいい。よく足を運ぶ場所だ。
だからぽろっとここらは大丈夫だろうか、なんて漏らしたから、
「大丈夫だよ、絶対」
と言い切られてしまった。
そんな神妙な面持ちで断言したら渦中の真っ只中に居ますと宣言しているのと同義だ。
それでも知らん顔してその日は送り出した。
「おー…………やっぱりいいねぇ、この現実と非現実の同居。生活感の描写には脱帽だよ」
今時古くさい四百字詰めの原稿用紙に視線を走らせながら、禿げ上がった頭を掻く。
紅茶の入ったガラスのコップは水滴を纏い、時々テーブルに水溜まりを作る。
右手にできた中指のペンだこを冷ややかなコップにくっ付けても温度と異物感だけで感触は伝わってこない。
私は無職、もといフリーターだ。その傍らでゴーストライターなんてものをしている。
叔父の紹介で、名前は伏せるがそこそこ名の知れた作家の陰で文を築いている。
人様に誇れた仕事ではないので職業欄はいつだってフリーターの文字。それでも収入は印税を半分こしているのでそれなりに稼いでいる。
ちなみに今原稿を読んでいるのが叔父で、その作家の編集者をしているので審美眼は一級品だ。
こんなことをするきっかけはややこしいので割愛する。
「先生の作風に沿って、尚且つ自分の世界を見失わない。毎度毎度すごいなぁ、私の甥っ子……!」
できれば目の前で誉め殺しにするのを止して欲しいが、悪い気はしない。
題材は「目の前に現れた不思議な少女の正体を知るために痕跡を追う」という物だ。
そう、サナをモデルに書いている。
彼女の事は調べない。その代わり夢想する。こういうとまるで変態の様だがもっとファンタジーなものということで処理しておいてほしい。
「あー……もうこんな時間か、悪いねぇ。いつもありがとう、勘定はこっちでやっておくよ」
特別渋る場面でもないのでありがたく申し出を受ける。
カフェから出ると夕暮れが雲を赤く照らしていた。
彼女は、もう居るだろうか。そんな事を考え、叔父に別れを告げて帰路に着く。
頻繁に足を運ぶ彼女には合鍵を渡してあるにも関わらず、少なくとも私がいる時には必ずベランダから入ってくる。私が出掛けている時も訪れるようではあるがその時は玄関からなのかはわからない。
いくらなんでも素性の知れぬ相手に警戒心が無さすぎではないかと思うかもしれない。が、四階のベランダに負傷して転がっている時点で爆弾の塊だ。ジャパニーズトキスデニオソシ。
私が帰ってくると彼女は無防備に寝ていたり、テレビを見ながら菓子を貪っていたりと区々で私を手厚く出迎えてくれるわけでもない。
この前は私が帰ってきたのに気づかずに連れ込んだ小動物と会話をしているところを目撃してしまったが、それについて掘り下げるつもりはない。
彼女は慌てて飼っているペットだと誤魔化したがそんな目に優しくないカラフルなペットがいてたまるか、とツッコミを入れてやりたいところだった。
不意に慌ててベランダから飛び出したりやたら傷心になって帰ってきたり、近隣で爆発事故があったり空飛ぶゴスロリ少女の都市伝説があったり。
もはや疑う余地もないがそれでも彼女の正体について問い詰めることはない。
何故か、と言われても知る必要が無いからだ。
観客が覆面レスラーの素顔を知っても特になにかが変わるわけでもないように、彼女が魔法少女であろうが電波系コスプレイヤーであろうが私には関係ないのだ。
彼女が私をそれに巻き込まれないよう努めているのなら彼女の意向に従ってやるべきだろう。
私にとって彼女は頻繁に我が家を訪れ癒しをもたらす不思議な少女であり、それ以上でも以下でもない。
だからこんな奇妙な生活が暫くは続く、いや。続いてほしい、と思う。
「や、おにーさん。お邪魔してるよ」
────ほら、こうしてドアを開けると誰かいるのは嬉しいものだ。