第八十三話“何か”
静寂が破られてからだいぶたつ。
忙しなく飛び交う光。
不気味に泡立つ水面。
悲鳴とも、共鳴ともつかない謎の音が左右を往来し、闇の世界の秩序をこれでもかというほど壊している。
聖域周辺で起こっている怪異、または、上の世界を脅かす震動の正体がこれだ。
《怪物たちは、猛っているようにも、苦しんでいるようにも見える。何が彼らを駆り立てるのか。この先で私を待つのは一体何なのか……》
下の世界に満ちる不気味な喧噪の中、僕とパスティスは竜の翼に運ばれ、奥へ奥へと進む。
不意に闇が和らいだ。
一部の隙もない黒に、わずかに入った灰色。
上を覆う枝葉が減り始めたのだ。
暗黒の濃度は前進するたびにどんどん低下していく。
やがて、周囲を圧していた巨木の気配が一瞬にして消え去ると同時に、上の世界に匹敵する光があたりに満ちた。
何が起こったのか、考えるまでもない。
「聖域〈ミストフォール〉に入った!」
僕は羽根飾りに叫んでいた。
上空には暗雲のような霧が立ちこめている。下は、少し煙っている程度で、視界はさほど悪くない。
「騎士様、下……」
パスティスが何度も指を差している。すぐに目線を落とした。
「これは……」
巨大な木の根がいくつも絡まり合い、水面から顔を出していた。
その規模、範囲は、もうほとんど陸地と言っても過言ではない。
〈ミストフォール〉が森にぽっかりと穴が空いているように見えるのは、この根が大地を埋め尽くして、他の樹が生える隙間がないからというわけか……!
ここにきて最大のスケール。根に巻きついたツタも、木の根に見えるほど太い。
けれど、遠目に見ても、根もツタも朽ちた色をしているのがわかる。
この植物は、すでに死んでいるんだ。
根はどれも同じ方向から伸びていた。おそらくは、すべてが一本の幹へと集束している。タコの足のように広がった根は、マングローブの木を思い起こさせた。
このデタラメな巨大さ。そして朽ちた色。この先にあるのは〈神祖の樹〉以外に、ない!
僕らは根の集まる一点を目指して飛ぶ。
ウウウウウ……。
下の景色ばかりに気を取られていた僕は、アディンが初めて聞かせた、おののくようなうなり声に頭を上げた。
「うわあ……」
思わず声がもれる。
霧の奥に、世界を仕切っているような巨大な壁の影が見えた。
鬼火めいた光に凹凸を縁取られ、その上部は、連峰を思わせる巨大なぎざぎざを描いている。
壁じゃない。
これが〈神祖の樹〉……!
ミルヒリンスが、人の身で見るにはすぎたものと書いていたけれど、同感だ。
自然の神秘というより、そこに具現化した神の姿を重ねずにはいられない。
その〈神祖の樹〉は、斜塔のように、ほんのわずか右に傾いていた。
折れて倒れる際に、根元部分を少し道連れにしたのだろう。
探せば折れた先も見つかるかもしれないけど、それは研究者たちに任せる。
僕の仕事は別だ。
「アディン、よけて!」
パスティスの叫びにアディンが反応し、翼で空気を叩くようにして横へ急加速する。
さっき闇の中で見たリュウグウノツカイのような生物が、やばいくらいの乱杭歯を広げて、僕らのいた空間を削っていった。
背中を走った寒気にかち上げられるように仰向けば、上空は、下の世界の住人たちが暴れるように飛び交う戦場と化していた。何が起きているのかわからないけど、あれに巻き込まれるのはいくらサベージブラックでも危険だ。
「上を飛ぶのはまずい。低空から接近する!」
高度を下げ、〈神祖の樹〉の根が作り出す陸地の上を滑るように飛ぶ。
超高速で流れていく下方の風景が、一気に緊張を高めた。
グウルルルル……!
アディンがうなり、
キーン、キーン……。
唐突に魔法式の詠唱を始めた。
敵を見つけたのだ。下の世界の住人ではない。明らかに、僕の判断を待つまでもなく敵だとわかる相手がいる!
前方の陸地に、小さな影を見る。
アディンはそいつに向かって魔法を放ち――
「いや、待てアディン! はずせ!」
僕の遅すぎた号令をかき消すように、アディンの周囲から発生した光の矢が四本、目的に向かって集束する。
サベージブラックの戦闘才能が撃ち出す魔力は、天使にとっては基礎にすぎない攻撃魔法を、無情無慈悲な天災にまで昇華させる。
狙われた相手は、質量の一片までも完全に消し飛ばされ、この世界の歴史から退場する――はずだった。
標的は盾を使い、それをすべて弾いた。
そして弾かれた暴力的な魔法が、大きな弧を描きながらアディンに跳ね返ってくる!
「アンサラー!」
僕は叫び、アンサラーを射撃する。
四発のうち、三発は迎撃に成功。空中で暴風を伴う花火となって、霧の世界に大穴を空ける。残り一発は――!?
迫り来る魔力矢に対し、アディンは冷静に体を傾け、光条を左肩の上に滑らせるようにしてかわした。紙一重。絶妙な体技だ。すれ違いざまの風圧で体が持っていかれそう!
「落ちてろ!」
反射弾がカーブし、スピードの落ちるタイミングを狙って、僕はアンサラーを撃った。数発のうち一発が当たり、霧の奥で火花になって弾ける。
これで、反射された魔法はすべて落とした。
「サブナク……!」
僕は木の根に立つ大柄の悪魔をにらみつける。
ここにいたか、こいつ……!!
そのとき、異様な叫びが響き渡った。
ィィィィィィ■ギャア■アアアアア■■■■■アアアアア■■■アアアア!
「何だ!?」
もはやこちらの可聴域を超えているのか、その轟音は途切れ途切れになりつつ、聖域全体を震わせた。
同時に、下方に広がる根の隙間から、無数の影が立ち上がる。
「“何か”だと……!?」
そのうっすらとしか見えない輪郭は、しかし、〈神祖の樹〉の根に巻きついたツタにそっくりだった。
これが“何か”の正体なのか?
でも、〈神祖の樹〉はとっくに枯れている。根に巻かれたツタも同じだ。
アアアア■■■アアアアアア■■■アアアアアアァァ■■■■■ァァアアアアア!
再び聖域が揺れたとき、僕は見た。
〈神祖の樹〉の残骸に、壮絶に歪んだ、顔のようなものが現れるのを。
その表情は言語を超越し、僕に理解させる。
怒り、憎しみ、悲しみ、ねたみ、恨み……! まるでこの大樹の……怨念!
まさかっ……!
“何か”は〈神祖の樹〉の怨霊なのか……!?
植物の怨霊なんて聞いたことがない。
木を切ろうとした者が祟られる話なら知ってる。でもそれは木の奥にいる神様の怒りだ。木そのものが生者を呪うなんて……!?
そもそもそんな邪悪なものがあるのなら、ここが聖域とされるはずがない。何か秘密があるはずだ!
僕は、木の根を飛び回る無数の影に気づいた。
瘴気をまく雪豹だ。
ァァッァァアア■■■アアア■■■アアァァァァアアアアアアア!
瘴気の霧が樹を取り巻くたびに、絶叫が激しくなっている。
これは〈神祖の樹〉の叫びなのか?
ヤツらが瘴気を吹き出すたびに、苦しむような叫び声は大きくなっている気がする。
ひょっとして、ヤツらの瘴気が〈神祖の樹〉の残骸に宿る力を怨霊化させている……?
瘴気の中でだけ“何か”が現れるのは、だからなのか?
わからない。こんなの推理でも何でもない。空想、妄想、こじつけに近い。でも、この状態で正しい答えが降ってくるのを待っているわけにはいかない!
試すまでだ!
それには、邪魔な存在が一つ!
「パスティス。アディンたちと協力して、あの雪豹を始末してくれ。ついでに、マルネリアと連絡しながら〈神祖の樹〉について、おかしなところがないか調べてほしい」
僕は、平行して飛ぶパスティスに通信用の羽根飾りを渡しながら、口早に伝える。
「騎士様、は?」
「僕はあの悪魔を押さえる。ヤツがいると、アディンたちが迂闊に攻撃できなくなる」
それを聞いて、パスティスの顔が曇った。
「わ、わたしも一緒に、戦っちゃ、ダメ……?」
彼女は僕があいつにぶっ飛ばされたところを見ている。
心配はもっともだ。でも、
「僕一人で十分だ。それに雪豹を何とかしないと、下の世界まであの瘴気に汚染される。完全に埋め尽くされたら、もう誰にも手出しが出来なくなる。パスティスの役目の方がずっと重要なんだ」
パスティスは形のいい唇を引き結ぶと、こくりとうなずいた。
「わかった……。絶対に、死なないで、ね……」
「そっちもね。竜たちを頼む」
「……うん!」
僕はアディンから飛び降りた。
鎧の上を滑っていく霧の冷たさが、僕の心を研いでいくようだった。
サブナク。おまえも、そして、この森での戦いも、
ここで終わりにしてやる。
騎士様頑張っテ!




