第八十二話 深淵の探求
――迂闊だった。貧乳エルフとの水場争奪戦の後、足場に十分注意しなかったのが運の尽き。腐っていた枝を踏み抜いて、一気に滑落したらしい。
――途中、何かすごい柔らかいものに受け止められて、真っ直ぐ水面に叩きつけられるのだけはまぬがれたみたい。体に粘りけのある液体がべったりついてる。蜘蛛の巣か? 詳細不明……。
僕がそこまで読んだとき、マルネリアが淡泊な声をはさんだ。
「ボクのお母さんは、巨乳の里で、里長の補佐をやってたんだ。ある日、貧乳の里との戦いに出て、それきり戻ってこなかった。数少ない、エルフ同士の戦いで命を落とした人物の一人……だと思っていたけど」
彼女の母親ミルヒリンスは、死んでいなかった。下の世界に到達していたのだ。
しかし、単純に喜ぶわけにもいかない。ここに手帳が残されているということは、つまり、彼女の結末も、ここに記されている可能性がある。それをここでつまびらかにするべきなのか……。
「騎士殿、よかったら続きを読んでくれるかな」
「いいの?」
「大丈夫。過去のことだ。それに、何か有益な情報が書かれているかもしれない」
「わかった」
僕は続きを読んだ。
――幸い荷物は無事だ。長期戦に備えて用意したドライフルーツを運ぶ役目だったのは、日頃の行いがよかったとしか言いようがない。しばらくはもつだろう。しかし、ここが下の世界か。つるぺたどもとケンカしてる場合じゃないな。ものすごい世界だ。まるであの世か、世界の裏側じゃないか。素晴らしいぞ、うひゃひゃ!
「……何だかポジティブな人っぽいね。こんな状況なのに、下の世界の様子が気になるなんて」
「その好奇心は、百パーセント遺伝したと思うよ」
――下の世界に落ちて戻ってきたエルフはいない。わたしが助かる見込みも薄いだろう。しかし、たとえ残された時間がわずかでも、その濃さでいえば、わたしに勝てるヤツはそうはいない。さあ調査だ! この特異な世界を調べ上げてあの世の行けば、ご先祖様に天が落ちる時間まで自慢できるぞ!
「ひょっとして、マルネリアも自慢したがり?」
「褒められて伸びるタイプ」
それから数ページは、ミルヒリンスが出会った様々な怪異について、楽しげに記されていた。
成長しすぎて木々に挟まれ、完全に身動きが取れなくなった超巨大怪魚。その尻尾の一叩きで、はるか上まで飛んでいく稚魚。
同族の尻尾に噛みついて、長大な一つの光となって飛んでいく羽虫。
輝く湖を作り出す、あまりにも巨大な粘菌……。
その生き生きとした筆致は確かに、彼女が人生をこれまでで最高に楽しんでいることを物語っていた。
でも――。
――娘に会いたい。
突然やってきたその一文が、それまでの空気を一変させた。
そのページにはその一文だけがあって、後は真っ白だった。
次のページからは、再び下の世界の事柄が綴られていた。文章は明らかにトーンダウンしていた。食料の残りが少ないことにもふれられていた。
――下の世界、二十日目。ミルヒリンス、記す。今日はとても重要な真実を突き止めた。わたしたちが聖域と呼んでいるものの正体だ。
「――!!」
――〈ミストフォール〉は、上の世界においては巨大な空間にすぎない。肝心なものは、この下の世界にあったのだ。いや、かつてあった、と言うべきか。今はもう失われている。我々が神聖視していたものの正体……それは、比肩するもののないほど巨大な〈バベルの樹〉だ。樹齢は恐らく、数百万年を超える。わたしはこれを〈神祖の樹〉と呼ぶことにする。
「〈神祖の樹〉……。でも、失われたというのはどういうことだろ……」
誰もが聴き入る中、僕はつぶやき、続きを読む。
――〈バベルの樹〉も不死身ではなかった。寿命があったのだ。〈神祖の樹〉は遥か昔に枯れ、やがて根本から折れた。上の世界から何も見えないのはこのためだ。しかしわたしは、この下の世界で、枯死しつつも偉大な姿を残す〈神祖の樹〉を見た。人の身で見るには、あまりにも神聖で静謐な姿だった――
「……!」
僕は続きの文章にはっとなる。
――最後にこの真実に出会えて、本当によかった。
この先を読むのが苦しかった。ミルヒリンスは恐ろしくタフな大人の女性で、そのくせ好奇心はまるで子供のように純粋だった。文章を読むだけで、素敵な人だとわかった。けれどこの先を読めば、それが壊れていくような気がしてならない。
いや、違う……。壊れるんじゃない。これまで見せていなかった心を前に出す。それだけだ。
記された彼女の心を読み上げなければいけない。一人のエルフとしての彼女の最期を。
――最後に食べ物を口にしてからどれくらいたっただろう。もうずっと水しか飲んでいない。樹の根は硬く、樹皮さえ削り取れない。自分の手足を食べられるならそうしたい気分だ。でも、動けなくなった体を生きながらえさせても、面倒が長引くだけだろう。わたしは生きられるだけ生き切った。もう十分だ。心残りがあるとしたら、まだ幼いマルネリアのことだ。
――ここで親としての不出来をじくじくと詫びたところで何にもならない。わたし自身を悲しくさせるだけだ。だから、もしこの手帳を見つける人がいたとしたら、彼女にこう伝えてほしい。
――世界は広いぞマルネリア! ケンカなんかに無駄な時間を使ってないで、楽しいことを探せ! もっとも、わたしの娘なら、すでにそれくらいやっててもらわないと困るけどな! そして、天国で神秘の見せ合いっこしようぜ!
最後の最後まで、ミルヒリンスという女性像は変わらなかった。
きっと彼女のすべてが、この強さでできていたのだろう。
強すぎるよ。涙が出るくらいに。
「……当然、実践中さ。お母さん」
マルネリアの声は笑っていた。少しだけ、寂しそうに。
――やるべきことはすべてやった。手帳のページももうない。ちょうどいい引き際だろう。この記述を最後とする。これを読んでいる後世の誰かへ、偉大なるわたし、ミルヒリンス、書き記す。
最後まで力強く書ききり、そこで記述は終わ……ん?
「待て、マルネリア。この手帳、まだ続きがある」
「え?」
僕は慌ててページをめくって、声に出して読んだ。
――ここの魚、案外うめえ!?
最後のページはそれで終わっていた。
…………。
「ねえ、マルネリア」
「何か用かな?」
「こんなこと軽々しく言うべきじゃないとわかってるんだけどさ」
「うん」
「君のお母さん、まだどこかで生きてるんじゃないかな……」
「奇遇だね。今ボクもそう思ったところだ」
※
〈ミストフォール〉の中心には、〈神祖の樹〉の残骸がある。
エルフ文明史上、最重要と位置づけていいほどの大発見であり、同時に、僕らが目指すものの正体がわかった瞬間でもあった。
これで闇雲に聖域を飛び回らずに済む。目指すは巨大な一本の〈バベルの樹〉だ。
残念ながら、今はミルヒリンスの足跡を探している余裕はない。
僕らはミルヒリンスの小屋から離れ、再び前進を開始する。
下の世界は相変わらず、恐ろしくもあり、そして静謐でもあった。
と。
突如、ドオンという大きな音が前方から響き、大きな波紋が眼下の水面をゆっくりと走ってきた。
音は断続的に繰り返され、波紋はやがて波しぶきへと変わっていく。
「パスティス、上へ!」
僕の合図と共に、アディンたちが急上昇する。
黒い水の中を、巨大な光が突き抜けていくのが見えた。
あの樹上湖にいた怪魚と同じヤツだ!
これまで、比較的のんびりと行動していた光が多かったのに対し、怪魚は明らかに暴れていた。近くの〈バベルの樹〉に体当たりを繰り返しながら、闇の奥へと消えていく。
聖域周辺で起きている、下の世界の住人たちの異変。これがその一端に違いない。
目指す場所は、
決戦は、近い。
さか うま




