第八十一話 深海
サー……というノイズめいた浅い雨音が、常に耳を覆っている。
上の世界から落ちてきた水流は、途中で形を保てなくなり、水滴、そして霧雨へと変化して下の世界に降り注ぐのだ。
森の水分の終着点である地上は、どうやら水没しているようだった。下方に広がる黒々とした地面はのっぺりとした水平で、ときおり波で揺らめいてみせる。
アディンたちは翼を濡らしながら、ゆるやかな速度で水上を飛んだ。
かつて大がかりな装置を用いて下の世界をのぞいたというエルフの話は正しかった。
ここは光の世界だ。
ぼう……とした青白い光が、竜たちの横を抜けていった。
透明度が高いらしい水の奥にも、無数の光が沈んでいる。
木の幹にも、垂直な輪郭をなぞるように、燐光が集まっていた。
光、光、光……。どっちを向いても、この暗黒の世界には光があった。
《魂魄のような不可思議な発光に満ちる世界。冥府か、あるいは、深い海の底ならば、ここに似た景色なのかもしれない。音もなく飛び去っていく光を見ながら、私は、この美しき森の正体を知った》
リュウグウノツカイを思わせる、長い長い光の尾が、大樹の幹をなぞるようにして飛んでいた。こちらに一切興味を示すことなく、林立する大樹の隙間を一つ一つ身をくねらせながらすり抜けていき、やがて見えなくなった。
かと思えば、羽を光らせた蝶のような何かの群れが、アディンたちに近づき、すぐに離れていく。
雨を気にする者はいない。まるで、すべてが幻であるかのように。
幻想的というには、あまりにも不気味すぎる。
これが幽魂の類ではなく、下の世界の住民だとすれば、なおさら……。
「パスティス、あれ見て。上が星空みたいだ」
僕は、頭上に広がる無数の輝きを示した。それは実際、空と見まごうほどに広がっていた。光る何かの群棲地なのだろうか?
が。
グウルルルルル……!
竜たちが突然うなりだし、空に向かって威嚇するように首を振った。
星空がまとめて、ずるり、と動いた。
「えっ……」
絶句する。
星は追いやられるみたいに、空を通って樹の奥へと行ってしまった。
「騎士様。あれ……大きな、蜘蛛、だったよ……」
「えああ!?」
あれが蜘蛛……というより、あれが一匹のサイズなの!?
で、でかすぎる。空と普通に見間違ったぞ!?
つうか……それを威嚇して退けたのかサベージブラック……。どこまで最強なんだおまえたちは。
「ん……何だ? 下の方が急に明るく……」
僕は暗黒の水面へと目をやる。
はっきりと魚とわかる光が、ものすごい速度で僕らを追い抜いていった。
光の水族館。今度こそ、これは純粋に綺麗だと言えるはず……。
「!?」
しかし、魚を追うようにして現れた巨大な光に、僕はまたも言葉を失った。
それははっきりと、人とわかる頭部と、上半身を持っていた。しかし下半身は蛇のように長く、先端は不格好な尾びれがついていた。
巨大な人魚……違う……これは……。
UMAのニンゲンだ……!?
ニンゲンは、僕らのすぐ下にやってくると、急にひっくり返って上を向き、鬼火めいた光で縁取られた表情をニタリと歪ませた。
頭部のサイズだけで、軽く数メートル分はある。その気になれば、僕ら全員を一口にできる大きさだ。
しかし怪物はそのまま、何をするでもなく、暗い水の底へとゆっくり消えていった。
鎧を打つ霧雨の音だけが残る……。
な、何だよおおおお!
完全に、ホラーゲーじゃないかよコレぇ……!!
これがこの森の真実だとするなら、あまりにも恐ろしすぎる。
枝の上のエルフたちは、自分たちの足下にこんな世界が広がっているなんて知るべきではない。夜中一人でトイレに行けなくなること間違いなし。かくいう僕にはすでにその兆候がある!
生物的な恐怖との遭遇は、その後も何度か続いた。
木の幹に大きな×の字が書かれていると思ったら、それは〈バベルの樹〉の幹のサイズに匹敵する超巨大な昆虫が、光る足を広げて張りついているのだった。
一反木綿の群れみたいなのが目の前を横切り、言いしれぬ寒気を覚えた。
底知れない深さの水面を、エリマキトカゲみたいに突っ走ってる謎の光も見かけた。
この暗闇の地表で、こいつらは一体どんな生態を持ち、どんな生存競争を行っているというのだろう。まるで想像できない。
しかし、これだけは言える。
上から落ちてきたヤツが生きられる環境じゃない。
ここの生態は、地上生物がたどり着いた、最凶の進化ルートの一つだ……。
救いなのは、むこうに攻撃の意志がないことだった。
様子見しているだけかもしれないけど、今のところは、あちらがこちらを避けているような素振りさえある。サベージブラックのおかげか。あるいは、カンテラの光が奇妙で近寄りがたいのか……。
《リックルが怖がって逃げてしまった! 待ってくれ! 置いてかないでくれ!》
渋い声による史上稀に見る情けない悲鳴が聞こえた。
ていうか主人公、リックルでここに挑んでるのか……。可哀想に。まあ、シャチでここの水中を行けとかにならないだけまだ温情かもしれない。ニンゲンがいる水中戦とか絶対やりたくないよ僕は。
「んん……?」
高速で流れていく闇の世界に、僕はあり得ないもの見つけた気がして、声をあげた。
「アディン、ちょっと待って。引き返してくれ。何かあった」
僕が下方を指さすと、アディンはすぐに闇の中を左旋回し、降下してくれた。
パスティスたちもついてくる。
近づくにつれて、それははっきりと見えた。
ウソ、だろ……。
「人の家がある……」
オペレーター組も、この報せには驚愕する。
「冗談でしょ。下の世界に住んでるヤツがいるってこと!?」
「騎士殿、調べて! 絶対何かあるよそこ!」
その粗末な小屋は、盛り上がった樹の根によってできた小島の上に建っていた。
下の世界に降りて、初めての陸地を踏む。
カンテラがようやく役に立った。
落ちていた細枝を、何とか組み合わせて作ったような、あばら屋だった。
生物的な光沢を持つ、布なのか羽なのかよくわからないもので屋根の隙間を埋めており、辛うじて雨は防げているふうだ。
空き家であることはすぐにわかった。部屋は一つしかなく、外の隙間から内部はほぼ丸見えだったから。
入ってみると、表面を薄く削って平らにした、机のような丸太が一つあるだけだった。
その上には……。
「手帳がある……」
どうしてだ? 下の世界に文明的なものなんて何一つなかった。
いや、それとも、本当は何か、エルフたちと同じように里のようなものがあるのか?
僕は中学校の図書室で読んだ、『タイムマシン』という海外の小説を思い出した。
地上で暮らす、優しく美しい人々。それを食う、恐ろしい地底人たち……。
その地底人に相当するものが、このエルフの森にも……!?
こ、怖くなってきた。きょ、今日のプレイはここまでにしよう! セーブして終わらせて、続きはまたいつか……気が向いたら……一年後とかにでも!
「騎士殿、読んで!」
はい……。
無慈悲なマルネリアに急かされるまま、僕は手帳を開いた。
湿気でべとべとになってるけど、特殊な紙なのか、崩れてはいない。文字も判別できる。
――日時不明。ミルヒリンス、記す。
「ミルヒリンス……!?」
マルネリアが滅多にないほど驚いた声を上げた。
「知ってる人?」
「…………」
すぐには返事がない。空気が妙だ。
「マルネリア、大丈夫?」
「騎士殿、その人……」
「う、うん」
「ボクのお母さんだ」
ニンゲン/ヒトガタを知らない人は検索してみよう。コワイ!




