第八十話〈ミストフォール〉
エルフたちの聖域〈ミストフォール〉というのは、霧の滝の名前が示すとおり、森が放出する霧が落ちていく場所らしい。
天を支えるかのように林立していた〈バベルの樹〉が一切なく、樹の上で暮らしている者たちからすれば、まさに巨大な地下への穴というわけだ。
エルフたちは、胸のサイズの争いよりもはるか昔からその場所を神聖視してきた。そこを奪還することで、真にこの土地を取り戻すことになるのだという。
「〈ミストフォール〉には本当に何もないの?」
そこに何かがあれば、“あれ”の正体のヒントになるかもしれないと思い、たずねる。その意図を察し、すぐに答えたのはマルネリアだった。
「何もないんだ。少なくとも霧の上には」
「もしかして下の世界に?」
「可能性は高いけど、何とも言えないね。何しろ、直に下の世界へ行けちゃうから、誰も近づかない」
「問題はそれだけではないのだ」
マギアが話を手元に戻した。
「本来の〈ミストフォール〉は、すべての霧が落ちていく場所なため、下の方にしか霧がないのだが、今は上の世界と同じように上空まで真っ白だ。調査隊の話では、あの近辺に大型の雪豹が何体も目撃されたそうだ」
「!」
大型ということは、あの霧を多くまく改良型か。
「調べてみたところ、どうもあの霧は通常の霧とは違うらしい。瘴気みたいなものだろうか。まるで意志があるかのように里の方へと向かってきている。“何か”が現れるのは、あの特殊な霧の中だけだ。討伐隊を編制して雪豹を倒しに行ってみたが、ヤツらは戦わずに霧の中に逃げ込むし、霧の中では猛烈な数の“何か”が襲ってくるしで、近づくことすらできなかった」
「瘴気の霧はもう里の近くにまで迫ってきてるの?」
僕がたずねると、マギアは首を横に振った。
「まだ、慌てるほど近くにきているというわけではない。ただ、楽観視できない理由が、他にある」
ゴゴゴゴ……。
そのとき、遠くから地響きの音が聞こえ、集会場の垂れ幕をわずかに揺らした。
揺れはすぐにおさまる。
リーンフィリア様がぽつりと、
「地震ですか?」
「いえ、地震ではありません。ちょうど今のが、わたくしたちが危惧する一番の問題なのです」
祈るように指を組んだメディーナが、声を重くする。
「〈ミストフォール〉周辺の下の世界で何かが起こっているようなのです」
なに……?
「さっきの地響きは、下の世界の住人たちが起こしているものと思われます。にわかに信じがたいと思いますが……」
「いや。僕は一度、下の世界にヤバいサイズの魚がいるのを見たことがあるよ。もしあれが暴れたら、〈バベルの樹〉だって身震いくらいはすると思う」
そしてそれは、不安定な枝の上で暮らす者たちにとっては死活問題になる。
落ちれば下の世界。あるいは死――。ひどく単純な話だけど、ある意味、接近が見えている瘴気の霧よりも日常生活を脅かす。
でも、状況はだいたい飲み込めた。
瘴気を吐いている雪豹を個別に狩り出すのは難しい。だとしたら、方法は一つ。
「〈ミストフォール〉に直接乗り込んでみるよ。それで、あると考えられる大元を叩く。アディンたちなら空から一気に降下できるはずだ」
「騎士殿。それは、あまり勧められない」
けれど、マギアが渋い顔で僕の言葉を遮った。
「“何か”の密度が本当に濃いんだ。霧に飛び込んだ直後に叩き出される。竜の速度は素晴らしいが……降下中に捕まれば、逃げ場は完全になくなる。一巻の終わりだ」
「む……。そっか……」
サベージブラックは強いし、頼りになる。でも、過信は禁物だ。
怖いもの知らずのアディンたちは、僕が頼めば、死地でも平気で飛び込んでいくだろう。僕を信じて。竜たちの信頼に応えるためにも、迂闊な突撃はできない。
「一つだけ、安全とは言えませんが、可能性のある作戦があります」
メディーナが口を開いた。
「実は、あの瘴気の霧は、さほど下までは届いていないのではないかという説があるのです。実際の霧がそうなので。わたくしたちが住んでいる場所より、少し下くらいまでだと」
「ボクがそういう資料を見つけてきたんだよ。褒めていいよ」
マルネリアの自己主張に、感謝するような目礼をすると、メディーナは目線を僕に固定して告げた。
「よって、下の世界から〈ミストフォール〉に突入する、というルートが考えられます」
「乗った」
僕が即答したので、周囲の人々はさすがにぎょっとしたようだった。
「い、いいんですか、騎士様……? 下は何があるかわからない、謎の世界なんですよ?」
ミリオが恐る恐る聞いてくる。
「だからこそ希望もある。それに、アディンたちは空を飛べるから、どうにもならなければ帰ってくるだけだよ」
それを聞き、エルフたちの顔が和らいだ。ついでに、リーンフィリア様やパスティスも。
僕が遮二無二突っ込むアホだということを危惧されていたかもしれない。
それは違う! 僕は賢い猟犬でもあるんだ。一割くらい利口かもしれないだろ!(遠吠え)
こうして、下世界経由でエルフの聖域〈ミストフォール〉を目指す作戦が採択されたのだった。
※
出撃メンバーは、僕とパスティス。サベージブラック三匹。いつもの顔ぶれだ。
オペレーターはアンシェルと、オブザーバーのマルネリア。下の世界についてはほとんど不明とはいえ、マルネリアが一番博識だ。
「これ、ルーン文字のカンテラ。下の世界はかなり暗いことが予想されるからね。目立つのは危ないかもしれないけど、どのみち下の世界の住人には、こっちのことなんてすぐにばれる。それより、お互いの位置がわからない方がまずい」
僕とパスティスは腰に、竜たちは首にぶら下げる。
潜入は、下世界の活動が活発になっている聖域周辺から少し離れたポイントより行う。
直接現場に向かうには、下の世界は未知でありすぎた。まずは最低限の慣れが必要だった。
「じゃあ、行ってくる!」
アディンに飛び乗り、僕らはついに、禁断の下の世界へと飛び込む。
空の彼方から飛び降りるみたいに、雲に見立てた霧を何層も潜っていく。
瑞々しい森の音が遠ざかり、空気がじっとりと重くなるのを感じた。
《周囲の霧が次第に色を濃くし、暗く、暗く……どんどん暗くなっていく。まるで地の底へ落ちていくような感覚。これがまだ地面の上のことだと、誰が信じられるか……》
主人公のモノローグを聞きながら、視界はついに闇に閉ざされた。
カンテラの光は、周囲を圧する高密度の暗黒に入り込むすべを知らず、その器の中で弱々しい輝きを必死に守るのみ。闇に押し潰されそうだ。
「騎士、そちらはどう?」
羽根飾りからアンシェルの声が聞こえる。
「異常なし。あたりは真っ暗だ。何も見えない。アディンたちがまだ降りようとしてる。地表まではもう少しあるみたい」
「おかしなことがあったら、すぐに上に逃げるよう竜に言いなさい。いいわね」
「了解」
キリキリキリ……。
アディンが一鳴きし、降下速度を緩めだした。
地面が近いのか? ダメだ。やっぱり何も見えない……。
あまりにも暗すぎて、ここを進むのは無理かと思ったとき、僕はその変化に気づいた。
「え……」
思わず息を呑み、数回分の呼吸停止の後、上の世界の仲間たちに呼びかける。
「ア、アンシェル、マルネリア、聞こえる?」
「ええ。どうしたの、何かあった?」
「報告する。マルネリア、あのエルフが言ったことは本当だ」
「騎士殿? どういうこと?」
僕は震える声で言った。
「下は、光の世界だ」
ついに下の世界判明です




