第七十一話 音のない不安
何もない日が続いた。
僕は魔女の元でルーン文字の調整を続けながら、その一方で、悪魔サブナクや霧の中で見かけた“何か”についての情報交換を各里と行っていた。
「お帰りなさい。どうでしたか?」
仮宿になっている小屋に戻ってくると、エプロンと三角巾姿という、とても家庭的なリーンフィリア様が迎えてくれた。
すぐ隣には、大きなシチュー鍋を抱えたアンシェルもいる。食事の準備中だったようだ。
何というか、この二人は神々しい格好より、こうした素朴な服装が似合っていたりする。スコップを持ったリーンフィリア様は、世界再生というより、庭で花壇を作っているような牧歌的な雰囲気を醸しだすのだ。
これは癒されますね。間違いない。
「いつも通りです。これといった変化はありませんでした」
「そっか~。でもまあ平和ってことだよね~」
僕が応じると、ベッドの方から鼻にかかったような声が聞こえてきた。確かめるまでもなくマルネリアだ。もぞもぞと動く葉っぱの掛け布から現れた寝癖だらけの臙脂の髪に、今朝、爆睡しているのを見たときから、彼女がまったく動いていないことを確信する。
アンシェルが雷を落とすのも近いだろうと思いつつ、魔女の発言に同意する。
「確かに平和と言えないこともないかな。どの里も順調に土地を広げてる。敵が近くにいることは間違いないけど、目立った動きはない」
他の里と話し合ってわかったことは、僕が見た“何か”は、エルフの里を襲ったものと同一だということ。
半透明で、こちらからはさわれないのに、あちらからは攻撃できる。そんな反則的な存在。襲われたエルフたちも同じ窮地に陥っており、正体も霧との関連性もわからないままだ。
「ああ、そういえば、今日は一つ気になる話を聞いたよ。あの“何か”は、下の世界からやって来た、みたいな話」
「……!」
マルネリアが布を引っかけたまま上体を起こした。自由奔放にねじれた前髪の隙間から、ブルーの瞳が鈍く光ってこちらを見る。
「下の世界から? ホントなの?」
「“何か”が、下の方から伸びているのを見たエルフが結構いるんだ。逆に、上から襲ってきたって証言がないらしい。そのことから、下の世界と関連してるんじゃないかって。何か心当たりある?」
マルネリアは布をかぶったままあぐらをかいて、形のいいあごを指で撫でた。
「下の世界のことはボクにもわからない。どんな生態系が広がってるかも定かじゃないからね……。ただ、こんな資料は見たことある。木の下は、“光の世界”だっていう」
「光の世界……? 闇の世界の間違いじゃないの?」
口を挟んできたのは、テーブルに鍋を置いたばかりのアンシェルだ。
「巨木の葉と分厚い霧に光を遮られて、昼でも夜のように暗いところだって聞いたわよ」
「うん。それであってるはず。でも、大昔に大がかりな装置を使って、下の世界を見にいったエルフがいたらしいんだ。その彼女が、下は光の世界だったって言い残してる」
「そのエルフは今も生きてるの?」
僕がたずねると、マルネリアは首を横に振った。
「エルフは人間に比べたら長寿だけど、さすがにもう死んじゃってる。それくらい昔」
残念だな。話が聞ければ、ヒントになるかもしれなかったのに。
しかし、真っ暗なはずなのに、光の世界か……。そんなにおかしな場所なら、“何か”みたいなのが潜んでいても不思議はないのかもしれない。
下の世界の秘密とも、いつか出会うときがくるのだろうか。
エルフの里――とりわけ、まな板の里は他の勢力よりも急速に領地を拡大してる。町の範囲だけを考えれば、〈ディープミストの森〉はもう中盤戦を越えているのだ。
恐らくはエリアボスである“何か”に関わるフラグは、すでに立っているのかもしれない……。
「悪魔についてはどうでしたか?」
人数分のお皿を抱えた姿が愛らしいリーンフィリア様が、別の話題を振ってきた。
「サブナクについては、何も動きがありません。ヤツが言ったとおり、本拠地みたいなところで待ちかまえてるのかもしれません」
物理攻撃と魔法攻撃を反射する、この森でも群を抜いて厄介な相手。
すでにお気づきだと思うけど、あの盾は、魔法を得意とする巨乳エルフ、肉弾戦を得意とする貧乳エルフにとって激烈に厄介な装備だ。
そのことを踏まえて、二つの里には協力態勢を持ちかけてるんだけれど、サブナクがどこにも姿を見せていないのと、やっぱり対立の根は深いのとでうまくいってない。
ルーン文字が有効だというのも現段階では一つの可能性にすぎず、方針としては確立していない状態だ。それに、ルーン文字の使い手であるミリオたちは、どちらの里からも微妙な立ち位置にいる。関われば、さらにややこしい問題を引き起こすトリガーになりかねなかった。
問題が先送りにされている感は強い。
ただ、変化もあった。
「そう言えば、また現れたらしいです。サブナクがつれていた悪魔の兵器たち。今度は、メディーナたちのところに出たと」
兜に手足を生やしたような、あの小型の兵器たちは、僕とパスティスが“何か”に遭遇した直後あたりから、森で見かけられるようになったという。
戦いの結果は、巨乳エルフの圧勝だった。攻撃魔法を当てたら簡単に破裂して消滅したらしい。
マギアたち貧乳エルフはもっと前に接触していて、こちらも楽勝という結果が出ていた。
正直、よくわからない。
純粋にエルフたちが強いのか、あの兵器が弱すぎるのか。
サブナクと一緒にエンカウントしたときは、厄介な感じがしたんだけど……。
わからないことだらけのまま、町の発展だけは順調だった。
あまり進展がないようなら、一度天界に戻ってもいいかもしれない。
サブナクの襲撃は怖いけど、イベントがあるなら〈オルター・ボード〉に反応があるはず。むしろ、ダイレクトに降下できる天界にいる方が、対処が早いとも考えられるのだ。
「アンシェル~。今日のシチューの具は何~?」
「ニクギリの肉と、適当な野菜よ。ていうかあんた、シャツのボタン一つくらい留めなさいよ! いつにも増してだらしないわね! 朝から全然起きてこないし、働かざる者食うべからずよ! だいたい、何であんたがリーンフィリア様の家にいるのよ!」
ああ、とうとうアンシェルの雷が落ちた。しかしマルネリアは少しも動じずへらへら笑っている。
こんな感じで、何もない日がさらにすぎていった。
正体の掴めない“何か”。姿を見せない悪魔。弱すぎる兵器。
増えはすれど顕著化しない不安要素は、町の順調な拡大という吉報と絶妙な均衡を保ちつつ、僕らの周囲に居座り続けた。
事態は進行しているのに、こちらの体勢は一切前進していない。それを理解しつつも、時間が打開策を見つけてくれると、日々の安穏に甘んじていた。
しかし、このときすでに、僕らは崖っぷちに向かって歩いていたのだ。
その事実を突きつけられたのは、さしたる覚悟もしていなかった、ある日のことだった。
※
四番目のバトルフィールドの発生は、二つの里からだいぶ遅れつつも、ミリオたちがエリアマップの半分くらいまで町を広げたときに起こった。
開拓地のはずれに、あの兜をかぶった悪魔の兵器が現れたのだ。
エルフたちはすぐに避難してきたけど、建築中の小屋が襲われているらしい。
僕とパスティスはいち早くこの迎撃に出た。
ヤツらの弱さはすでに耳にタコができるくらい聞いていて、勘違いを疑う段階をとっくに超えていた。数が多いことさえのぞけば、楽勝な相手。
この日、地獄への扉が開くなんて、僕はこれっぽっちも考えていなかった。
遊びは終わりだ




