第六十話 兵器の行進
前方から〈ディープミストの森〉を均し続けるリーンフィリア様の痕跡が消え、原生林の起伏が戻ってくる。
奇教タイラニーの影響下から脱出できた途端に遅くなった靴の先に苦笑いを落とし、僕は周囲を見回した。
ここはもう〈オルター・ボード〉にあったイベント地点だ。
何だかんだと、すでに一ヶ月くらいはこの森で暮らしている。
毎日眺めている巨大樹の風景なのに、見慣れれば見慣れるほど、一つとして同じものがないことに気づいてくるから不思議だ。
アンシェルが用意してくれた〈ヘルメスの翼〉の推力は、ここに到達する少し前に払底した。本来なら、ここで魔女救出に使うべきだった魔法だけど、僕は自分とパスティスを一刻も早く現場に向かわせる方を選んだ。
無いものは他でカバーできるけど、間に合わなかったらその時点でアウトだから。
「言い訳はそれだけ?」
「うん。他はない」
羽根飾りに手を当て一言で返すと、深い深い溜息が返ってきた。
里からここまで、延々と聞かされてきた的確な説教のシメとして十分すぎる長さの吐息の後、アンシェルは言った。
「ともかく魔女ってのを探しなさい。森に慣れてるそいつが助けを求めてくるんだから、十分注意すんのよ。特に転落には注意すること。〈ヘルメスの翼〉があれば、多少の斜面は駆け上がれただろうけど、もうその手は使えないわ」
「わかった。別の手を考える」
霧の深さは相変わらず。見通しは悪い。
そして静かだ。平穏な静けさとは違う。何者かがじっと息を潜めているみたいな重苦しさがある。
「パスティス、何か見える?」
「何もいない、よ……」
パスティスの温度感知にも引っかからない。
僕は息を大きく吸い込み、大音声を放った。
「おおーい、魔女ー! 助けに来たぞー!」
木霊が巨木の隙間を縫うように抜けていく。
こちらの位置を知られることはデメリットがない。
魔女は僕らの所在地を特定して助けを求められるし、追跡者にはそれなりに警戒心が生まれる。動きが鈍ってくれれば御の字。最大戦果は、魔女をほっぽって、こちらの排除に動いてくれること。どうなるだろう。
耳を澄ます。
霧同士が擦れる音すら聞こえそうな静寂。
魔女、追跡者共に反応なし……。
ぐー……。
お腹が鳴った。
僕はパスティスを見る。
「えっ、ち、違う、よ」
パスティスは顔を赤くしながら手を振って否定してきた。
ぐー。
ぐーい……。
また聞こえた。でもパスティスからじゃない。
「何だ……?」
グーイ。グーイ。
鳴き声のようだった。
僕は視線を四方に飛ばす。
「騎士様、あれ」
パスティスが僕の肩を引き寄せ、右前方の枝を指さした。
霧と霧の間に見える細い枝を、何かが行進しているのが見えた。
「…………?」
グーイ。グーイ。
それは一見して、ひどく無害な、むしろ不格好で愛らしい小動物に思えた。
大きさは人間の頭部ほどか?
そう感じたのは、そいつが騎士のような兜をかぶっていたからだ。
手足はその兜から突き出ていて、腕や足は細いが、手足そのものは大きく、べたべたと音を立てて歩いている。何かのマスコットキャラを思わせた。もしくは何でも食ってコピーするピンクのブラックホール。
武器らしきものはないが、グローブのように膨らんだ手の力は強そうだった。
霧の切れ目に見えた彼らは、再び霞の奥へと入っていく。
グーイグーイと鳴き声を上げながら一列に行進していく様は、小学生の遠足のようで、僕の肩からは一時的に力が抜けた。
何だろう。森の動物かな?
ニクギリのような危険生物には見えない。
「騎士様……」
「どうしたのパスティス。可愛かった?」
「あれ……。体温が、ない」
「! アンサラー!」
叫ぶと同時に僕はぶっ放した。
都合七発。薄い霧に見えるヤツらの影と同数。
弾道はドンピシャだ。
霧を円形に穿ったところまでは確認できたけれど、白いヴェールに隠されたその後の展開は理解不能だった。
影の行進は続いていた。
一匹も枝からこぼれ落ちてない。全部外れたのか? まさか……。
僕の射撃精度は、リーンフィリア様の加護によって支えられている。それが切れれば狙撃なんてとてもできない。でも、この戦場について時間はほとんどたってなかった。はずれるようなことはない、はず……。
「パスティス。悪魔の兵器だ。まわりを警戒して」
僕は叫んで、再び引き金を引いた。
霧のカーテンに弾痕が生まれ、その奥で魔法弾の光が鈍く弾ける。
……いなくなった。
直撃して下に落ちた? いいや……。
グーイ。グーイ。
まだ鳴き声がする。少しの焦りもない、楽しげにすら聞こえる声。
またはずれた……? いや、何らかの方法で防がれた……?
あの兜の防御力か? アンサラーの弾丸を防ぐなんて対聖獣の怪物並の強度だぞ。
そんな動揺が、連続する思考に一時大きな空白を作る。まさに、そのとき。
「あー。鬱陶しい魔女を追ってたら、まさか女神の騎士に出くわすなんてな。ひょっとして、助けを呼ばれちまったのかな? これは、いやーな感じだなあ……」
霧の中に溶け込むような軽い声が、すっと入ってきた。
慌てて視線を向ける、僕らのいる道の先。
単なる人影とは違う黒いものが、霧の奥で動く。
布の後ろから染みだしたようなそれは、やがて飄然とした足取りで近づいてくる人影を象った。
現れた、そいつは――。
「おっと……。あー。それ、聖銃アンサラーか。あいつらを撃つなよ。オレの可愛いオモチャだ。可愛いだろ? だから撃つな」
真っ黒だった。
手も、足も、胴体も、首も、潰れた鼻も、裂けた口も、たてがみも。
人に近いけれど、人ではありえない。
「あ、う……」
僕の背後でパスティスが声を失っている。
僕はこいつを知っている。彼女はもっと知っている。
頭部は獅子。
筋肉は異様な盛り上がりを見せ、体毛とは異なる黒色に包まれている。
衣服は、斬撃を滑らせるためと思しきベルトのようないくつかの帯と、粗末な腰巻き、それに強固なブーツのみ。
この特徴。こいつは……悪魔だ!
シャックスに続いて、二匹目の!
不意に風が巻いて、真っ黒なたてがみを雄々しく逆立たせた。
「一応、名乗っておくか。サブナクだ。悪魔サブナク。ま、今朝食ったメシのメニュー程度には覚えといてくれよな……」
サブナクと名乗った獣は億劫そうにたてがみをぼりぼりとかいた。
その様子は、サバンナの木陰であくびをするライオンのように気だるげだったが、それだけに不気味だった。女神の騎士を目の前にして、臨戦しているとは思えない余裕がある。
《サブナク……! こいつが悪魔サブナクか!》
知っているのか主人公!?
《悪魔には珍しく、守りの技術に優れていると聞く。生半可な攻撃は無意味だ》
守りの技術だと……? 詳しく教えてくれ!
《本名、田中文太郎。誕生日は十月二日。趣味はザリガニ釣り》
それは社長のプロフィールだろうが! 知らないなら無理に何か言わなくていいから!
《チョコクロワッサン》
うるせえっつってんだろ!
グーイ。
「――!!」
悪魔サブナクの足下に、さっき見た兜の兵器が現れる。僕は咄嗟にアンサラーの銃口を合わせたけど、その軌道をサブナクの大きな手が塞いだ。
「おい、よせって。撃つな撃つな。可哀想だろ……。ほら、可愛いだろうがこいつ。な?」
「…………?」
サブナクはしゃがみ込むと、人間のそれの二倍はありそうな大きな指で、兜を上から撫でた。
グーイ。グーイ。
兜はフルフェイスで中身はわからない。けれど、両手を振り回し、踊るような足の動きを見せる兜の兵器は、撫でられて喜ぶ犬のように見えた。
……この悪魔、ひょっとしていいヤツなのか? と、僕は不覚にも思ってしまった。
敵意らしきものはなく、生き物ですらない悪魔の兵器にも愛情のようなものを示している。特技は防御。やる気のない口調も含めて、即座に敵対する理由が見つからない。
魔女を追っている理由がわかれば、何か別の解決策が見出せるかも……?
――ハハッ!
鎧の中でせせら笑った直後、僕は引き金を引いていた。
サブナクの眉間と銃口を一直線に結んだ弾道は、最速の決着の直前で着弾点を見失った。
首をひねる一動作で殺傷力をゼロにされた魔力の弾丸が、獅子のたてがみを浅く薙いで奥の霧へと飛び込んでいく。
発砲音の余韻に、悪魔の小さな溜息が混ざり込んだ。
「確かに、オレを撃つなとは言ってねえな」
サブナクは毛先を灼かれたたてがみを指先でつまみ、感触を確かめるように擦り合わせた。ちぎれた毛先がゆらゆらと地面に落ちる。
「さすが女神の騎士、話が早くて助かるぜ。じゃ、始めるかあ……」
すうっと立ち上がった黒獅子は、兵器を愛でていたときより一回り大きく見えた。
とんとんとつま先で軽く跳躍し、首をぐるりと回す。
その間も、覇気のない目が動くことなく僕を見ていた。
獲物を追うチーターが、どんな動きの中でも一切頭を動かさず、標的を見据えているみたいに。
アンサラーを持ち直す。
多くを語る必要はない。
こいつが悪魔で、僕が女神の騎士なら、それがすでに敵対する理由だ。
殺気があって大変よろしい




