第三十一話 撃凛
竜の咆哮で地が震え、共鳴した岩山が、さらなる地鳴りを呼ぶ。
町が女神の結界を張るなら、ここは黒竜の結界の中だった。
「騎士、様。あれ……!」
パスティスが指さす。
血溜まり。
血袋を岩場に叩きつけたような、壮絶な痕跡がある。
まだ新しい。僕は恐る恐る近づく。
血の中に、持ち主の痕跡を示すものなし。
クソッ……だから何なんだよ、これはっ……!
奥に行かないわけにはいかない。せめて、この血が誰のものなのか突き止めるまでは帰るに帰れない。
「パスティス。もしサベージブラックと鉢合わせたら、そのときは一目散に逃げるよ」
「わか、った……」
そのやりとりを聞いて、アンシェルも安堵したように息を吐いたのが聞こえた。
以前、絶対に戦うなと、迫真の釘を刺されたからね。
慎重に進む。
岩場には竜でも通れるような大きな道がある他、人間くらいしか通れない細い小道もいくつもある。
万が一のときはここに飛び込んでやりすごすか……。
逃走経路をチェックしながら、うなり声の元へと進む。
ウウウウウウウグウウウアアアアアアアアアア……。
【苛立ちの咆哮がこの身を貫く。ヤツの機嫌は相当悪いようだ……】
警告しても立ち去らない僕らへの怒りか。それとも、今まさに苛立たせる何かが、竜の前に立ちはだかっているのか。……それが子供たちなら、急ぐべきだ。
うねった道を進み、一際大きな岩山がすぐ近くに見えた。
その根本――。
い、た……!!
家屋ほどの体躯。
頭部と一体化した角。
野太い手足に、皮膜の翼。
長い尻尾。
すべてを覆う、黒く艶のある鱗。
神を咬む竜、サベージブラック!
「…………」
僕は兜の口部分に指を当て、静かにするようパスティスに促す。何度もうなずく彼女。
岩陰から観察する。
サベージブラックは、抉った岩場に身を潜らせるようにして丸まっていた。
「…………?」
奇妙なことに気づく。
巣は血だらけだった。
おびただしい量の血痕が、あちこちに飛び散っている。
これは……子供たちの血なんてレベルじゃないぞ!?
何だ? サベージブラックは何かとここで戦ったのか?
……ウウウウウウウウウウウウ……。
ゴパッ。
濡れた気泡の音がして、サベージブラックが何かを吐き出した。
生暖かい錆の匂いが巣に充満する。
サベージブラックは血を吐いていた。
ここまでの血痕は、ヤツのものだったのか……!
「あのひと、病気、みたいだよ……」
パスティスが囁いた。
「病気……」
言われてみれば、うなり声は苦しそうで、さっきからほとんど身動きもしていない。
【ヤツは弱っているのか? だとしたら、これは千載一遇の好機なのかもしれない……】
現状では決して倒せないはずの敵。それを攻略するチャンスが今?
ヤツがもし回復したら、いずれ必ず町を攻撃してくるだろう。そして、その機会を与えてしまったのは僕ということになる。
ヤツはほぼ死にかけているように見える。仕掛けてみるか――?
「騎士様、あれ……」
パスティスが何かを見つけ、指をさした。
サベージブラックの巻いた尻尾の中央にある、あれは。
「卵……!」
黒い竜が守る場所に、はっとするほど白い卵が三つ。
驚くほどに小さい。まるで鶏の卵だ。
「騎士、騎士、どうなってるの? 何があったのか教えて……」
アンシェルが小声で聞いてきた。
僕は岩へ身を潜めたまま、現状を手短に説明する。
「……病で瀕死のサベージブラック。それに、卵、ね……」
「子供たちは恐らくここにはいない。血痕もすべて、ヤツが吐いたものだよ」
「わかったわ。すぐに引き返して。手負いの竜は危険よ。特に卵を守ってるヤツはね。病に殺されかけていても、サベージブラックなら、他の竜を噛み殺すくらい平気でするわ」
なるほど。今の状態の方がかえって危険か。
事前に相談できてよかった。ここはアンシェルの知恵に敬意を払い、撤収すべきだろう。
「わかった。すぐに離れる――」
「待っ、て……」
割り込んできたのはパスティスだった。彼女は悲しそうな顔で、
「卵は、どう、なるの? 竜の、赤ちゃん、は……?」
「母竜が死ねば、卵も冷えて死ぬわ。でもそれは仕方のないことよ。間違っても、奪おうなんて思わないこと。誰だろうと、近づけば簡単に食い殺されるわよ」
「でも……可哀想、だよ……」
「憐れみで近づいて食べられるあんたの方が可哀想。騎士、いいからパスティスさらって帰ってきて」
アンシェルは呆れたようにそう言うけれど――。
「アンシェル。竜の卵は、母親が温めて孵すの?」
「な、何よこんなときに。ええ、そうよ。尻尾で巻いてね。鱗を開いてる状態だと、尻尾は温かいから。って、こんなときに豆知識得てる場合じゃないでしょ。早くパスティスを担いで――」
「パスティス。君は、あの竜の卵を助けてあげたい?」
「ちょおおっ――」
「うん」
羽根飾りから雑音が聞こえるけど、パスティスははっきりと答え、うなずいた。
他の誰でもダメだ。でも、彼女なら。
サベージブラックの尻尾を持つ、パスティスなら。
「パスティス。君なら、尻尾を通じてあの竜と会話ができるかもしれない」
「えっ……」
「僕の勘だ。信頼性はゼロ。君の尻尾は、実はサベージブラックのものとは違うことも考えられる。そのときは、近づいただけで襲われる」
「…………」
「卵を奪うことはできない。でも、引き継ぐことならできる。あの竜も、子供たちには生きてほしいはずだから」
パスティスは僕をちらりとうかがうように見て、一言。
「やって、いい?」
「もちろん。全面的にバックアップする」
「このアホ騎士、があっ……」
アンシェルの呪うような声を無視し、僕らは行動に移った。
まともな計画なんてない。パスティスが出ていき、サベージブラックと話をする。
僕は岩陰から様子を見つつ、竜に変な動きがあれば、それが勘違いであったとしてもアンサラーを撃つ。
これだけだ。
パスティスは、ためらうことなく、岩陰から出た。
サベージブラックの横たわっていた頭がぴくりと動く。
「大丈夫。敵じゃない、から……」
サベージブラックは訝っているように見えた。
自分と同じ鱗と、尻尾を持つ、奇妙な存在に。
パスティスが竜の頭の方へと近づく。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウオオオオ……!
サベージブラックがうなり、巨大な口を開いた。
咄嗟に身構えた僕へ、パスティスが素早く手を向ける。
下顎からトロトロと血を流したまま、サベージブラックは威嚇の体勢で止まった。
パスティスの尻尾が、黒竜の下顎にふれていた。
「聞いて、お母さん、竜。あなたは病気で、もうじき、死ん、じゃう……。そうしたら、子供たちも、死んで、しまう」
彼女の横から、ゆらりと黒い尻尾が伸びてきた。
パスティスは、自分とそっくりの、しかし比較できないほど巨大なそれと、開いた鱗を重ねる。
「そう……。守って、きたんだね。ずっと、ひとりで。助からないと、わかっ、てて。偉かった、ね。もう、大丈夫、だよ。赤ちゃんは、わたしが、守る。立派な竜に、するから。もう、いいよ。もう休んで……いいよ」
尻尾を、黒竜の尾の上でゆっくりと揺らしながら、パスティスは竜のしたあごを優しく撫でる。
ウウウウウウウ…………ウウウウゥゥゥ…………。
竜は頭を地に横たえ、うなり声を次第に小さくしていった。
「お母さんのこと、赤ちゃんに伝えるから。あなたたちを守ってくれた立派な竜がいたって、ちゃんと教えるから。安心して、天国から見ていてね。おやすみ……おやすみ、お母さん……。おやすみ……」
彼女が口にする言葉以上のことを、サベージブラックは尻尾を通じて伝えられたのだろう。まるで子守歌のようなパスティスの声を聞きながら、母竜は最後に、
キークルルルルル…………。
と小鳥のように鳴き、そして静かになった。
……誰か、兜の上から使えるハンカチかティッシュ持ってないか。
このサベージブラックに思い入れなんてない。
むしろいつか倒すつもりの敵だった。
でも、最後まで卵を守って――そしてそれを託せる相手を見つけて、静かに息を引き取った。
それがとても嬉しくて、とても悲しい。
理屈じゃないんだよ。
僕らはみんな母親から生まれた。今、そのひとが死んだ。
だから泣くんだ。理由なんてそれだけだ。
ありがとう。なぜかその言葉が出てきて、止まらない。
ありがとう。溢れ出る感謝の理由がわからない。
「どう……なったの?」
アンシェルが恐る恐る聞いてくる。
「うまく……いったよ。卵はパスティスが引き継いだ。竜は眠ったよ……」
「そう……。よかっ……ん!? ちょ、ちょっと待って!? あんたそのサベージブラックの卵をどうするつもり!?」
「え? 天界で育てるつもりだけど……」
「そ、育てっ!? か、神咬みの竜を、うちで、うち、うひ――――ケピッ」
「? アンシェル、今の変な音何? アンシェル? 返事をしろアンシェール!?」
「始まったな・・・」
「ああ、すべてはこれからだ」




