最終話 これが僕らの愛した世界
完・全・撃・破!!
決着の瞬間、地上にいた人々は、空の色が七たび変わり、八度目に何もかも消え去ったと語った。
その後現れたのは、かつて見たこともないほど澄み切って高い蒼穹。
見下ろすたくさんの眼はどこにもなく、オゾマは世界の頭上から完全に消え去ったのだった。
まさに世界が一丸となって戦い、勝ち取った勝利。
誰もが喜び、快哉を叫び、祝福した。生き残り、成し遂げられたことを、地上のすべての命が胸に誇った。
この偉大な勝利を祝い、その翌日から現在に至るまで、世界中で盛大なお祭りが開かれている。
中には一年続けると豪語している地域もあるとか。
苦言を呈す野暮天もいない。この世界は、それだけのことをしたのだ。
大結界都市グレッサリア。
忘れ去られた暗黒地帯から一転、人種のるつぼにして時代の最先端に躍り出たこの街でも、その熱狂は変わらない。
食糧庫から惜しみなく料理が振る舞われ、誰もが酒に酔い、歌い、踊る。
誰もが当事者であり、誰もが英雄である。それでも民衆は誰かを崇めたくなるものらしく、その筆頭としてリーンフィリア様がいて、オゾマとの死闘を制した僕の名も乾杯のたびに幾度も叫ばれることになった。
天使オメガさえも陶酔するこの達成感。人々の酔いはさめる気配を見せない。
しかしその席上、僕の胸には、一抹の寂寥が隙間風となって吹いている。
僕たちは確かに生き残った。
作戦立案から決着の瞬間まで、すべてが奇跡のような、夢のようなできごとの連続。常に糸の上の綱渡り状態でありながら、振り返ってみれば、最初から勝利は決まっていたのではないかと思うほど上出来のこと運びだった。
しかし、犠牲となったものもある。
最後の最後。
決着の突撃を援護するために。
オゾマからの流星を防ぐために。
僕らは、大きな代償を払ったのだ。
「おー、ツジクローではないか、飲んでおるかあ!? 今日の酒はここ十年で一番のできじゃぞ!? カンパーイ、のじゃ!!」
「…………」
「ったく、やれやれ。契約の。おまえまた酔ってるのか。この前から素面に戻ったこと一度もねえんじゃねえのか? まあ、いいけどよ」
「のじゃっのじゃっ」
「んんwww料理の無償降臨を許してしまいましたなwwwもっと料理人に負荷をかけなければwwwハムッ、ハフハフ、ハフッwww」
「のじゃっのじゃっ」
「横からかすめ取った他人のワインほど上手い酒はないのデース!」
「のじゃ~!」
くっ……!
失われていたんだよ実は!
僕とスケアクロウの突撃の裏で、大量のシリアス成分があ!!
生きてんじゃねえかよ悪魔アアアアアアッッッ!!!
そう生きてたんだよ。全員ッ!
あの時の光景は、今思い出そうとしても…………セルフでモザイクがかかるレベルだ。
戦いを終えて地上に降りたところで、僕らはその現実と直面した。
オゾマとの戦いの余波で大地に穿たれた数々のクレーター。
その最底で、大地神たちは頭から地面に突き刺さり、足だけを上に生やしていたのだ。
そう、犬神家状態だったのだ!
何でだよ!
なに、字は似てる? 知るかバカ!
この状態ですでに怪しかったのだが、掘り起こしてみたら、あんのじょう、全員アフロで生きてやがった!
なぜ生きている! そして何でアフロになる必要があるんですか!?
「なんじゃあ、ツジクロー。もしかしてえ、まーだわしらが死んだと思ってたことを気にしとるのかあ? ヒック」
ビキニアーマーのディノソフィアが赤ら顔で、僕の膝の上に猫みたいに這い上がりながら絡んで来る。猛烈に酒臭い。
「じゃから何度も言ってるじゃろー。わしらも、あれは死んだと思ったわい。月が切られてるんじゃぞ。月が。いくら何でも耐えられるわけがないわ。じゃがな。あの時、我らの王がほんの少し力を分けてくれたんじゃよ。オゾマとの戦いに集中すべきものを、全員にほんの少しずつな」
「我らが命のすべてを防御に回したからこそ、オゾマの攻撃をそらしつつ、生き残るための力がほんの少しだけ残ったのですなwwwもし我が身可愛さで少しでも余力を残そうとしていたら、完全にチリになっていたのですなwww役割に徹底したからこそ運命力が味方についたのですぞwwwんんwwwやはりwww」
バッタ野郎も絡んで来る。言いたいことはわかるが。わかるが。
いや、そこは死んどけよ、とは言わないよ。生きてるからこそできるツッコミだ。
僕は嬉しいよ。みんなが生き残ってくれて。
明らかにギャグの状態で地面に刺さっていたことには見なかったことにしてさ。
タイラニック・ジオが生き生きとオゾマをぶん殴った瞬間から、こうなることは決まっていたのかもしれない。
だから、僕が寂しいのは、
「でも、結局お別れじゃないか」
そう伝え、祝いの席を見回す。
たむろう人々の背後には、またも半壊したグレッサリアの町並みが見えた。
オゾマとの戦いの影響でだ。いかにシールドを張っても、被害を完全に抑えることはできなかった。
しかし、会場を巡る声に、時折寂しげなものが混じるのは、そのためじゃない。
すべての力を使い果たした大地神たちは、消える。
長い長い眠りにつく。
いつ目覚めるのかは、わからない。目覚めるかどうかすらわからないという眠りに。
少なくとも、現代の人々とは今生の別れになりそうだという。
誰よりも力を出し尽くした白亜王は、もうとっくに眠りについている。
〈コキュートス〉に耳を傾けると、それはそれは満足げないびきが聞こえてくるとの噂。
「贅沢を言うでない。ちゃんとした別れが言えるだけ、もうけものじゃぞ」
ディノソフィアは僕を背もたれ代わりに膝に座ると、後ろ手に首のあたりを撫でてきた。
「死が別離より苦しいのは、突然訪れることと、もう二度と会えぬという哀しみゆえじゃ。死別した相手ともう一度だけ話せる機会があったとしたら、生者の心はたちどころに癒えるじゃろうて。今がそれじゃよ。力も執念も、何もかも果たした。もうわしらに未練など――」
「いやだ! わたしはここに残る! むさ苦しい連中などと一緒に眠りにつきたくなどない! 可愛い少年たちと地上で生きる!」
「肯定! 肯定! せめてバルバトス様が同衾するショタの神を見つけてからでも遅くはない!」
「なりませぬぞバルバトス様! カルツェも煽るのをやめんか!」
ぎゃーぎゃー。わーわー。
……………………。
「あちらの一家はああ言ってますが」
「……ま、まあ、そういう連中もおるじゃろうが、眠気には勝てんよ」
ディノソフィアは目をそらしながら言った。
「おまえはどうなんだ」
「わしか?」
ディノソフィアは本当に猫のように、僕に鼻先をすりつけて――
「ゲエエエエエップ」
「おいィィィィ!?」
「うははは! 寂しくないわけがなかろう! じゃがそれは、それだけ良き巡り会いであったということじゃ! 別れを惜しむな。遡って出会いを悲しむな。思い出に感謝し、おのが足で刻んだ運命に乾杯せよツジクロー!」
無理矢理乾杯させられ、ワインを飲まされた。
苦くて、甘くて、たまらなく美味かった。
頭が少しぼうっとして、別れの悲しみをやわらげてくれる気がする。
だから、みんな飲むのだろうか。
出会いの喜びが、別れの悲しみに勝てるように、飲むのだろうか。
ふと、むこうから大きな人だかりがやってきた。
あの人気、あの歓声、掲げられたいくつものスコップ。
リーンフィリア様たちだ。
僕らが一緒にいると、とにかくものすごく人が集まって来てしまうので、挨拶回りを兼ねて別行動を取っていたんだ。
ようやくある程度落ち着いて、戻ってきたらしい。
じゃあ、僕も合流して――
<〇><〇> <〇><●> <◎><◎> <〇><〇> ザッザッザッ……。
えええええ!? みんなして何でその顔!?
「のじゃ~り」
「こいつだよ!」
僕はディノソフィアをひっぺがすと、急いで隣の席に置いた。
が、時すでに時間切れ。四方を囲まれた僕らに、逃げ場はなかった。
『…………』
「なんじゃ、なんじゃ。みんな揃って酔ったわしの艶姿を視姦かのう? マニアックじゃなー」
ディノソフィアが緩んで顔を妖しく笑い、片膝を抱えるように座って太ももの裏側を見せつけている。
この悪魔一足先に死にたいの?
しかし、どこからもパンチは飛んでこず、かわりに軽いため息が悪魔の小さな体に落ちてきた。
「ディノソフィア。おまえもこのお祝いの主賓の一人なのですから、みなに挨拶をしないでどうするのです」
リーンフィリア様が、困ったお姫様を嗜める躾係のような声で言った。
「のじゃ~? いいじゃろ別に、わしなんか」
「ダメです。ちゃんとみんなと挨拶してください」
「やじゃ! わしはツジクローのとこにおる!」
「何ですか子供みたいに! そんなに言うならツジクロー様んちの子になりなさい!」
「のじゃ!」
いやそれは墓穴です。
「じゃあ、ツジクロー様にもついてきてもらいます。それならいいでしょう?」
「のじゃー。うー」
「…………これは、大地神との別れを偲ぶ祭りでもあるんですから……」
リーンフィリア様の言葉に、ディノソフィアは子供じみた態度をやめ、
「しかたないのう。ツジクロー、ちゃんとついて来るんじゃぞ」
渋々椅子から立ち上がる彼女に、僕はうなずいた。
全員でぞろぞろと移動する。歩くたびにみんなが振り向き、深々と頭を下げたり、手を振ってきたりするのは、もうどうにもならないことだ。
最初に向かったのは、人間たちの集まり。アルフレッドとディタのところ。
オゾマの気象攻撃を防いだNS粒子の活躍は、彼らなしにはあり得なかった。生物の体内に住まうミトコンドリアと共に、永遠に語り継がれるであろう。
二人は僕らを、そしてディノソフィアを歓迎した。
「はじめ、あなたがキメラを造ったと聞いた時、ぼくはあなたを怖いと、そして、憎いと思いました。でも、今は感謝してます。あなたが彼女たちの運命を弾いてくれなかったら、ディタが僕と出会うこともなかった。ありがとうございます」
「つらいこともあったけど、わたしはキメラだったから、アルフレッドに出会うまで生きられたんだと思う。だから、ありがとう。さようなら、リーンソフィア様」
別れを惜しむ二人に、ディノソフィアは「のじゃ……」と照れ臭そうに笑った。
次はエルフたち。
彼女たちの魔法技術は、オゾマの行動観測からダメージコントロールまで、縦横無尽に活躍した。まさに勝利の土台を作り上げる偉業。この伝説もまた、朽ちることなく続いていくだろう。
メディーナ、マギア、ミリオ。
「知り合えて、一年と少し。もうお別れしなければいけないなんて、とても寂しく思います。ディノソフィア様」
「悪魔には苦い思い出もあるが、わたしたちはそれを乗り越えて結束できた。これは古い神からの試練だったと思う。わたしはこのことをずっと忘れない。大地神の教えとして、子々孫々語り継ぐ。さようなら、幼少期の母よ」
「……で、最終的に騎士様とはどこまで行ったんです……?」
「ん? そうじゃなあ、熱く肌を重ね合わせるくらいはもう日常じゃな」
「おいィ!?」
「ほう……」
「ほむ……」
「ほむり……」
ああっと! 他のエルフたちも集まってきてしまった!
カカッとバックステッポで退却!
次はドワーフたち。
タイラニック・ジオの実質的な開発者であり、オーディナルサーキットの改造、アバランチシステムの実装など、戦士にして技術者たる種族の面目躍如という大活躍。
決戦時は一族および超兵器総出で、タイラニック・ジオのリアルタイムメンテナンスに奔走していた。遠い未来、彼らの発明はすべてオーパーツとして、研究家たちを悩ませるのかもしれない。
「あ、ディノソフィア! 探したよー! 来て来てー!」
アシャリスががしゃがしゃ手を振る場所には、ドワーフたちの人だかりができていた。
何か余興でもやっているらしい。と思って近づいてみると、そこにはドワーフたちと向かい合うようにして、濃黒の人影が立っている。
スケアクロウ。
この戦い、最大の功労者の一人。
親方のドルドが、布で丁寧に巻かれた何かを持って、彼に歩み寄った。
スケアクロウの前で紐解かれたそれは、一振りの大きな剣だった。
「これは……アンサラーか」
彼の声にわずかに驚きがこもる。
「あんたの剣は、最後の戦いで折れちまったそうだからな。大急ぎで造ったよ。もちろん、変形機構もある」
ドルドはすぐには渡さず、自らアンサラーを手に取った。
「以前一度だけ、剣を見せてもらったことがあったな。かなり使い込まれてたが、それでもガタが来てない、いい剣だった。ありゃ、ドワーフの仕事だな? 誰のかは知らんが。癖といい、技量といい、妙に俺によく似てやがった」
それはそうだろう。スケアクロウは話していないだろうけど、あの剣を造ったのは、異なる世界のドルドだ。腕前に差がないのも道理。
「だが、ちと遊び心がたりねえな」
「なに?」
ドルドの意外な一言に、スケアクロウが反応した。
「アンサラー、“ブレッツ”」
ドルドの手の中でアンサラーが複雑に変形し、撃ち出される魔法弾の輝きを持った剣が現れた。
「第三の形態。魔法剣だ。剣でも魔法弾でもねえ半端な存在で、用途に関しちゃあ……まあこれといって、特に思いつくものはねえ」
おいィ?
「でもよ、カッコイイだろ」
頑固一徹、無駄を省きまくったシンプルイズベストのドルドから出た言葉に、僕は思わず吹き出しそうになる。
「そうだな。かっこいい。大事なことだ」
受け取ったスケアクロウの声にも、笑いがあった。歓声が上がり、温かい拍手が場を包み込む。
「俺たちからの精いっぱいの餞別だ。達者でな、英雄」
「ありがとう。大切に使わせてもらう。砂漠の戦士たち」
そこで彼らもこちらに気づき、ディノソフィアに目をとめた。
ドルドは、
「ストームウォーカー、いや、戦神ボルフォーレから始まって、〈オルトロス〉、他の兵器群……古い神々には本当に世話になった。いずれも厳しい試練だったが、おかげで俺たちは大きく成長することができた。戦士を代表して、心から礼を言う。どうか安らかな眠りを」
と目礼し、アシャリスは、
「最後まで〈オルトロス〉には勝てなかったけど、みんなと一緒に強くなれたのはディノソフィアのおかげだよ。ありがとう。寂しいな。ずっといてくれればいいのに」
悲しみを隠さない彼女に対し、ディノソフィアは微笑む。
「みなと一緒に強くなる。それがおまえの成長じゃったな。見せてもらったよ、確かに。長生きせよアシャリス。機械のおまえとなら、また会えるかもしれん」
そう言って、柔らかく抱き合った。
人々との別れを終えて、僕たちは元の場所へ戻ってくる。
「ちゃんとみんな、ディノソフィアとの別れを惜しんでくれただろ?」
僕が言うと、ディノソフィアはむっと唇を尖らせ、
「な、なんのことじゃ」
「寂しがってもらえないかも、とか思ってたんじゃないのか?」
悪戯好きで社交的なこいつが、挨拶回りを頑なに拒んだ理由。
「のじゃ~……。乙女心を言い当てる男は嫌いじゃ!」
ディノソフィアはそっぽを向いたが、剥き出しの肩に漂う空気がほころんでいるのは一目瞭然だった。そんな彼女を見て、みなが口々に言う。
「色々、体のことについて……教えてくれて、ありがとう。ディノソフィア。このキメラの体、わたし、すごく、好き、だよ」
「一年くらいじゃ全然ものたりなかったなあ。もっとたくさん話がしたかった。魔法のことだけじゃなくて、猥談とかね。ディノソフィアとは話が合うはずなんだけどな~」
「わたしだって、まだまだ学びたいことは山ほどある。い、いや、断じて、やらしい話ではないぞ。真面目な話だ! もう、十分、教えてもらったが……それでも、聞きたいんだ。話を聞いてもらえると、何だか安心するから」
「の……のじゃあ……」
ディノソフィアは後ろ姿からでもわかるくらい赤面し、うなだれてしまった。
「おまえとは、奇妙な関係だったと思う」
最後に口を開いたのは、スケアクロウだった。
「意図があるような、戯言の一つのような、求めるものはまったく別のところにある手慰みのような……そんな繋がりだったような気がする。しかしおまえと繋がっていたからこそ、俺はここにたどり着けた。おまえの一つ一つに、今は深く感謝している」
「スッ、スケアクロウ、おまえまで余計なことを……! もう知らん!」
そっぽを向いた状態からさらに拗ねたので、褐色ロリは何だか変な体勢になった。
「スケアクロウ、どうしても行くのですか」
リーンフィリア様が聞いた。みんなの眼もそちらに向く。
「ああ。俺の目的は果たされた。もう、ここにいる意味はない」
スケアクロウもまた、この世界から立ち去ることを言明していた。
「ちゃんと、帰れる、の? 遠いところ、なんでしょ?」
パスティスが心配そうに言う。確かに、彼はここまで、時間を忘れるほどに長い旅をしてきた。
「元来た世界を、一つずつ辿っていくつもりだ。時間はかかるが、いつかは帰りつけるだろう」
彼の世界には、もう愛するリーンフィリア様はいない。それどころか、ここにいる仲間たちも誰一人として残っていないだろう。それくらいの時間がすぎてしまったはずだった。
戻ったところで何がある。それより、ここなら彼を迎えられる。この世界なら、彼は英雄でいられる。
それでも。
「何があろうと、リーンフィリアとの思い出が残っているのはあの世界だけだ。故郷という以上に、帰られなければいけない場所なんだ。何をするかは考えていないが……それでも生きていこうと思っている」
「そうか……」
寂しくなるけど、引き留めるのもこちらの身勝手な理由だ。
彼には彼の、生きる世界がある。
「スケアクロウ、実は、僕たちからも餞別があるんだ」
「なに?」
ちょうどいいタイミングで、「おーい」という声が、ごろごろと台車を引いてやってきた。
アンシェルと、それとオメガだ。
「これは……」
台車に満載されているものを見て、スケアクロウから、アンサラーの時以上の驚き声がもれる。
「いちごジャム!」
その瓶。それが百本近くある。
「すべて、わたしが作りました」
リーンフィリア様が胸を張って言う。
「お土産に持っていってください」
スケアクロウにとっては命の数が増えるくらい嬉しい贈り物だろう。しかし、
「ありがたいが……これだけの数は持っていけないな」
「そこは、オメガが保管庫の魔法を教えるので大丈夫です」
アンシェルと協力して台車を引いていたオメガが言う。
「四六時中このジャムのことを忘れない集中力があれば使いこなせるでしょう」
「それならば大丈夫だな」
スケアクロウは声をほころばせ、ジャムの瓶を見つめた。そんな彼を、女神様の優しい言葉が撫でる。
「たくさんありますから、必ず全部食べてくださいね」
「……ああ」
スケアクロウはかつて、女神様との別れに際して渡されたジャムの瓶を開けられなかった。一つしかない思い出。最後の思い出だったから。でも、これだけあれば、遠慮なく食べられる。思い出の大事な味を、何度でも鮮明に呼び戻せる。
「大切に食べる。ありがとう、この世界のリーンフィリア」
日が傾き、グレッサリアの空が茜色に染まりだした。
〈ダークグラウンド〉の上空に、すでにあの分厚い雪雲はない。
まるですべての怨讐は晴れたように、あるいは、もうグレッサリアを天から隠す必要がないかのように、晴れ渡っていた。
変わらず賑わう祭りの喧騒の中、大地神たちは、ふと、誰からともなく席を立って、街の外へと向かって歩き始める。
まわりの人々は一瞬戸惑った表情を見せたが、何も言わずに同じく席を立ち、彼らに続いて歩き出す。
そこから旅路が始まるかのように。
僕らもそれを追う。
歩く一人の大地神が、ふっと消えた。
隣を歩いていた人は目を見開き、唇を噛んで、肩を震わせながら、それでも歩き続けた。
消える。また一人消える。眠りについていく……。
誰もが口を閉ざし、歩き続けた。
この世界のため、共に戦った神々が去ろうとしている。その悲しみに、寂しさに、途方に暮れるように、唇をかみしめる僕たちには言葉がない。
別れは済ませた。にぎやかな別れができた。なのに。なんで、こんなに胸が詰まる。
吐き出したい。でも、今の心をすべて表せる言葉が見当たらない。
何か。何かできることはないのか。
その時、ふと、空から降る音があった。
A・Ah――Ah――Ra――RARARA・Ah――……。
僕が、誰もが、足を止めて空を見上げた。
三匹のケルビムが、円を描いて飛び、歌っていた。
優しくて、寂しくて、慈しむような歌声。
誰からともなく、人々はそれを口ずさみ始めた。
胸があったかくなって、目から熱がこぼれ落ちていく。
それは大きな響きになって、再び進む足取りを包み込んだ。
良い出会いだった。だから、ちゃんと見送ろう。
感謝している、だからちゃんと悲しもう。
街の外――雪原。
祭りの喧騒とは別世界の、静かな大地。
神々が守った世界。
僕たちと、去りゆく者たちは、街の入り口で穏やかに向かい合っていた。
最後に残ったのは、ディノソフィアとスケアクロウ。
スケアクロウは言った。
「おまえたちに会えて、本当によかった。俺はこの世界でのことを一生忘れない。誇りに思うよ。おまえと同じ女神の騎士であることを。さようならだ、ツジクロー。みんな。心から感謝する。ありがとう」
「ああ、さよならスケアクロウ。必ず、元の世界に戻れよ」
「さようなら」
「元気で」
みんなからの言葉が流れる中、僕とスケアクロウは最後にがっちりと握手をして。
大きく手を持ち上げて、見送る人々に応えると、彼はまるで雪に溶けていくように、この世界から旅立っていった。
「リーンフィリア」
最後まで残ったディノソフィアが、ひどく優しい声で話しかける。
「おまえはこれから、唯一の神として世界を見守らなければならない。つらいことや、悲しいこともあるだろう。それでも……」
リーンフィリア様は正面から向き合い、はっきりと言う。
「心配はいりません。わたしはもう弱虫でも泣き虫でもないし、何より多くの仲間たちがいます。つらくても悲しくても、決してふさぎ込まず、それに立ち向かっていけるでしょう」
ディノソフィアはどこかほっとした顔で笑った。
「そうか……。立派な女神に育ったな。リーンフィリア。姉として嬉しいよ」
それを聞いたリーンフィリア様は、体ごと横を向いてしまった。
「わたしは……おまえを姉や……家族などと、認めるつもりはありません」
「うん……。そうじゃな。何もしてやれなかったものな」
ディノソフィアが少し寂し気に言うと、
「今は、まだ」
女神様の気丈な声が、釘を刺すようにそれを遮る。
「え?」
「もし、もう一度会えたら……その時の世界を見て、わたしが大地神として立派にやっていると認めてくれたなら……あなたを姉と呼ぶことを、考えてあげてもいいです」
ディノソフィアはぱっと笑みを散らした。
「ははっ……! そうか。そうじゃな。これからがおまえの真価じゃ。目が覚めた時、ここがどんな世界になっているか……。それを楽しみに、眠らせてもらうとしよう」
「さあ、もう休みなさい。わたしのことはいいですから」
リーンフィリア様はそっぽを向いたまま促す。
「うむ。その様子ならこの先も大丈夫そうじゃな。ツジクロー、パスティス、マルネリア、アルルカ、他のみなも、ありがとう! この世界を守ってくれて、この世界を好きになってくれて、本当にありがとう! さらばじゃ!」
そうして、笑顔で手を振り、ディノソフィアは消えていった。
誰もが涙し、歌声を詰まらせながら、それを送った。
大地神たちがすべて眠りにつき、落日が雪原を蒼い闇に沈めた時、一人、背を向けていたリーンフィリア様から声がした。
「大地神たちは、みな行きましたか……?」
僕は答えた。
「ええ……。みな、安心して眠りにつきました」
「そうですか……」
彼女の肩が小さく震えだす。
「リーンフィリア様。よく頑張りましたね」
僕が彼女の肩に手を置くと、リーンフィリア様はそれを弱々しく掴み返し、雪の中に震える両膝を落とした。
「うう、うううっ……」
「もう大丈夫です。もう。我慢しなくて」
胸が苦しい。
「あああ、うわああ、あああああああああああ…………!!」
リーンフィリア様は両手で顔を覆って、泣いた。
大地神たちが――家族が、無事に眠りにつけるよう、こらえていたものすべてを吐き出して、泣いた。
アディンたちは歌い続け、人々も歌い続ける。
リーンフィリア様の悲しい悲しい泣き声を、優しく包み込むように。彼女は決して孤独ではなく、この世界のすべてが、あなたと共にあると、伝えるかのように。
たくさん泣いて、泣いて……。
リーンフィリア様が泣き止んで、歌もやんだ時。
彼女は振り返り、みんなと向き合った。
「見ての通り、わたしは未熟な女神です」
リーンフィリア様はまだ少し寂しそうに、けれどよく響く力強い声で言った。
僕たちはそんな彼女を恭しく見つめる。
悲しみは悲しみとしてそのまま受け止める。けれど、それに押し潰されることなく立ち上がる。折れ曲がった新芽が、再び真っ直ぐ伸びていくように。
そんな神様だから、僕たちは彼女の元に集い続ける。
「けれど、時は流れています。今、一つの歴史が終わり、新たな歴史が始まりました。世界はオゾマとの戦いで傷ついています。海や山にも、たくさんの傷跡が残されてしまいました。わたしたちの最初の仕事は、まずこの傷を塞ぎ、世界を元の姿に戻すことです」
民衆は笑顔でうなずく。
今日まで本当に色々なことがあった。そして、これからも色々なことがあるだろう。
僕の人生を振り返ると、これは実に不思議なことなんだけど、逃げるたびに傷つき、戦うたびに再生していったような気がする。
普通は逆のような気がするけど、そうだったんだ。
「これから先は、悪魔もオゾマもいない、かつてない世界です。そこではどんな困難が待っているのか。どんな敵が待っているのか。それとも、敵などいなくとも、苦難が巻き起こるのか。今はまだわかりません」
この『リジェネシス』の世界に来てわかったことは、僕たちはぶつかっていかなければいけないということだ。
衝突は痛い。誰かとぶつかるのは怖い。その結果自分が傷つくのはいやだ。でも、命がひしめき合うこの世界では、衝突から逃げることはできない。
自分の意見を言い、他人の意見も認める。それが平和の形だと、人は言う。
他人の“好き”を尊重できるのはよいことだ、色んな“好き”があっていいじゃないかと、人は言う。
だが、本当にそうだろうか?
本当に好きなら、愛しているのなら、戦うしかないんじゃないだろうか。
自分の好きこそが一番だと、叫ばずにはいられないんじゃないだろうか。
「けれど、今の、今日までの気持ちを決して忘れないでください。愛する人がいる。愛する世界がある。その想いを言葉にし、行動にして、たくさんの人々と巡り合えたことを。大事なものを救った自分たちがいることを。その気持ちがある限り、わたしたちは次の困難にも、その次の困難にもきっと打ち克つことができる」
「キライ」と「キライ」がぶつかるのは凄惨なことだと思う。
でも「スキ」と「スキ」がぶつかるのは、正しいことなんじゃないだろうか。
僕たちは全力で出していかなければいけない。見せていかなければいけない。
何が好きで、何が嫌いなのか。
何がコレで、何がコレジャナイのか。
そしてぶつかって弾かれた先で、人は本物の誰かに出会う。
剥き出しの自分と噛み合う誰か。
そこで傷は治り、僕らは再生されていく。
「わたしはもっと強い神になります。必ずなります。だからみんな、わたしについて来てください」
好きなものを好きと言える人生で、本当に良かった。
僕はみんなが好きだ。
リーンフィリア様が好きだ。アンシェルが好きだ。パスティスが好きだ。マルネリアが好きだ。アルルカが好きだ。アディンが、ディバが、トリアが、アシャリスが、今まで出会ったすべての人たちが好きだ。
「世界は平らにできています。命はすべて、等しい平地の上に並んでいます。わたしたちはその上で、共に笑い合い、助け合い、時にぶつかりあって、生きていくでしょう」
最後に必要な判定をしておこう。
コレ。
これが、僕の愛した世界。これが、みんなが愛した世界。
これがいいんだ。これこそが、いいんだ。
「さあ、始めましょう! これからずっと続く、わたしたちが大好きな世界の一番最初を! まどろむ神々すら微笑む未来への第一歩を! 今、この時より! わたしたち全員で!」
『タイラニー!!!!!!!』
大地を優しい風が吹き抜けていく。
空はどこまでも高く、広く。
僕らの再世記は続いていく。
エンディングは別だと言ったな。
あれは本当だ。




