第二百五十一話 いちごジャムを食べよう
「やってやろうぜ」
戦いから一夜明けて、早朝。
オゾマの眼を隠すグレッサリアの曇天の下、金属同士がぶつかり合う音が、冷えた空気を震わせていた。
「手段なんかこれからいくらでも考えられる。リーンフィリア様を助けるためなら、どんな手でも使うさ」
僕の繰り出す斬撃を、スケアクロウの剣型アンサラーが弾き、火花が粉雪を舞い散らす。
「そうだな。俺もできる限りのことをする」
スケアクロウの斬撃を、僕が逆手に持ったカルバリアスの刃に滑らせ、いなす。
何合かの打ち合いの後に、ふわりと位置を入れ替える。
僕が大きく息をつくと、スケアクロウの全身に静かに根を張っていた圧力も和らいだ。
一拍置き、再び剣闘の間合いへ。
僕とスケアクロウは、神殿跡地からだいぶ離れたところにある広場――というより瓦礫の隙間っぽい場所――で、早朝訓練を行っていた。
申し出たのは僕だ。
スケアクロウは強い。少しでもその強さに近づきたかった。
ディノソフィア曰く、僕は弱いからこそ、スケアクロウの戦いを越えられた。スケアクロウも、僕に強さを求めてはいないふうだった。
――力は、みんなが貸してくれる。
すでにこの戦いは、僕個人のレベルがどう上下したところで何の影響もない局面に入っている。
神や悪魔といった超常の存在の領域だ。今から僕が何をしたところで、そこに追いつけるとは思えない。
それでも。昨日の自分より強い、という自信――いや、安心感が僕には必要だったんだ。
いざという時、弱さを自覚して動けないより、無謀に前に出られるために。足を突き動かすために必要な、今日より強い力が。
スケアクロウの唐竹割りを、右手のカルバリアスで受け、半身の構えから背中に意識を向ける。
「アンサラー!」
ビハインドブリッド!
左手を引き金にかけた瞬間、スケアクロウの鈍重なシルエットが霞となって消える。結露する水滴のように現れた彼の左手が僕の頭を鷲掴んで、地面に真っ逆さまに叩きつけた。
「遅いぞ」
「勝ったと思うなよ……」
勢いで持ち上がった足をばったりと地面に落とし、僕はうめいた。
一瞬で反応された。タイミングは悪くなかったのに、ちょとこれsYレにならんしょ……。
スケアクロウが手を差し伸べ、僕を立ち上がらせた。
「なあ、スケアクロウ。そのアンサラーも、ドルドに改造してもらったのか?」
「そうだ。以前使っていた刀剣類は、天界が保管しているからな」
一方的に没収されたんだよ。
「でも、カルバリアスならいつでも新しいのが造れただろ?」
「カルバリアスはすでに天界に回収されている。禁止されたものをわざわざもう一度造る必要があるのか?」
「…………」
言い分が正しすぎる。こいつ、絶対頑固だろ……。
「アンシェルやオメガとは気が合いそうだ」
「天使たちとの仲は良好だった」
こいつもブラック上司を過労死させる、ネオブラック社員の気配がする。
「……DLC天使とも?」
「ディーとエルか? 取り引きの関係以上の感情はない」
有料DLCを利用したらしい。にもかかわらず、無課金で押し通った僕より関係がドライっぽいのが謎。まあ、スケアクロウが不真面目極まりないあれらと仲良くしてる図も思い浮かばないけど。
「あとさ、そっちのリーンフィリア様だけど……」
「…………何だ」
あまり茶化せる内容じゃないのはわかってる。彼にとって、すべての始まりであり、すべての終わりにいる女性だ。
それでも、ちょっとだけ話がしたい。多分、この世で僕と『Ⅱ』について話せる唯一の相手なんだから。
「以前と今回の戦いの間に、だいぶイメージ変わってなかった?」
コンクリート級のオブラート(オブラートの定義壊れる)に包んで言ったものの、直訳すると、「ケバくなってなかった?」だ。
「…………」
スケアクロウは黙った。
……あっ(察し)
「どんな外見であろうと、俺の感情に変わりはない」
「僕は直してもらったけどね。あれ、アンシェルが勝手にやらせてただけだし」
「…………本当か?」
深い悲しみに包まれたような声で聞いてくる。
「だが……俺のリーンフィリアは、あんな平地に対して異常な執念を燃やすような奇矯な性格ではなかった。好みの差異は大きいようだ」
「ぐっ……」
た、確かに、平等博愛はいいとして、整地厨なのはちょっと特殊なケースっぽいけど……。
この前なんか、こっそり人前から姿を消して、街はずれでアブない顔して整地してるのを目撃されたりしてたけど……! やはりあれは、〈ヴァン平原〉でのクリエイト中に事故的に芽生えた志向だったのか? しかし!
「そういうところも含めて愛らしいんだろ、女神様は」
「淑やかで落ち着いた彼女が愛らしくないとでも?」
こいつ……! 張り合う気か!?
メラッと僕とスケアクロウの兜の間で、小さな熱量が発生する。
「少しお話しようか、スケアクロウ」
「いいだろう」
第一回、並行世界一女神様愛好武道会が開かれ――
「ちょっと騎士! あんたどこ行ってるのよ!」
「フオオ!?」
猛烈なノイズ混じりの声に、僕は思わず首をすくめていた。
「ア、アンシェル?」
「やっと返事したわね。この野良犬!」
突然のひどい言われようだった。それにしても、やけに雑音がひどい。短い語句を聞き取るので精一杯だ。昨日の戦いで故障したのかもしれない。
「いや、野良犬だって餌の時間には駆けつけるわね。つまり野良犬以下。あんたは“ ”ね」
無を取得するのはやめてもらいたい。バグってエンディングに直行してしまったらどうする。まだ何も解決してないぞ。
「ごめん。羽飾りが不調みたいなんだよ。すごく聞き取りづらい。何か用?」
「朝食よ、ちょ、う、しょ、く! もっとも、もうみんな食べ終わっちゃってるからね。あんたら二人の分だけ残ってて片付かないから、さっさと済ませなさい」
カーチャンかな?
「わかった、すぐに帰るよ」
思った以上に訓練に熱中してしまっていたらしい。僕はスケアクロウに付き合ってくれた礼を言い、神殿に戻ることにした。
途中、彼は言う。
「昨日のようには言っても、その時が来れば彼女は封印を決行するだろう。ここのリーンフィリアは死を恐れているわけではない。最前線で脅威とにらみ合いを続けるタフさがあるだけだ」
「わかってる。その勇気を無駄にはしない。ところで……こっちのリーンフィリア様はそっちのリーンフィリア様と違うんだから、様をつけろよ」
僕が唇を尖らせると、スケアクロウは素っ気なく……。いや、得意げに――?
「ダメだ。俺は彼女から絶対に“様”をつけるなと言われている」
「だからそれは別のリーンフィリア様だろ。別世界で歴史も違うなら、まったくの別人と言ってもいいくらいだ」
「約束は約束だ」
少しのろけめいて聞こえて、僕の寿命がストレスでマッハなんだが……。
※
用意されていた朝食は、厨房が完全破壊されたこともあって質素だった。
が。
《……!!》
僕の中で、僕とは違う何者かに電流が走るのが伝わった。
いちごジャム。
スライスされた食パンの隣に置かれた小瓶に、僕とスケアクロウの目は吸いつけられていた。
向かい合うように椅子に座り、どちらからともなく、食器に手を伸ばす。
豆のスープはさすがに冷めてしまっていたけど、おいしかった。この味はパスティスのだろう。
少しの間、食器と皿が立てる音だけが、昨日建てた掘っ立て小屋に響く響く。話すことは決まっているはずなのに、なぜかスケアクロウの周囲の空気が重く見えた。
彼はパンに一切手をつけていない。
「ほら、ジャム。好きだろ」
こんな不自然な食事を続けるわけにもいかず、僕はスケアクロウの前にジャムの瓶を置いた。
「ああ」
スケアクロウは瓶に手を伸ばし……その指先が、まるで壊れ物にさわるみたいに、寸前で一瞬だけ止まったのを、僕は見逃さなかった。
「そっちのリーンフィリア様は、ジャム作るの上手かった?」
「世界一の名人だった」
スケアクロウが瓶のふたを回し、中にスプーンを差し入れる。
体の芯がほぐされるような芳醇な甘さが、室内に薫った。
まだまだ残る重硬い顔とは裏腹に、パンにジャムを塗る彼の動作はひどく穏やかで、何かを気遣うようにすら感じられる。
「毎日食べても飽きなかった。彼女にしか作れない味だ」
「わかる」
すぐ隣でパスティスが同じふうに作ろうとしても、同じ味にはならなかった。
ひょっとしたら食材自体が、リーンフィリア様に対して、本当の味を引き出させようとしているのかもしれない。リーンフィリア様は大地神。そして実りは、大地からもたらされる。
スケアクロウはパンを見つめた。
意を決したように、一口かじる。世界屈指の力を持つ男とは思えない、小さな一口だった。
「…………うまい」
彼のつぶやきには、想いがこもっていた。
「ああ。うまい」
僕は相槌を打つ。
「そうだった。こういう味だった。変わらないんだな。ここでも」
スケアクロウは再びパンを見つめた。
口元が少し和らいでいる。
「食べてなかったのか? 色んな世界でも、リーンフィリア様はジャムを作ってくれただろ?」
「……女神の騎士に食事は必要ない」
またしても味気ないことを言ってくるスケアクロウだったが、それはこれまでの鉄則重視の不愛想とは趣を異にするものだった。
「……食べられなかった。怖くて」
怖い……? って、おいィ? 今、スケアクロウから出てきそうもない単語を聞いた気がするんだが?
スケアクロウは鎧の背後に手をやり、何かをテーブルに置いた。
小さなガラスの破片のようだった。
「なにそれ?」
「リーンフィリアがあの朝残してくれた、ジャムの瓶の欠片だ」
あの朝――。それを言うスケアクロウの声の重みが、僕に電撃的にその意味を察させた。
リーンフィリア様が、消えた日だ。
「ある朝起きると……手紙が残されていた」
スケアクロウの声が、静かに室内に染み入る。
「内容は、謝罪だった。世界を救うには、やはりこうするしかないこと。ちゃんとした別れができなくて、申し訳ないこと。幸せに何も返してあげられなくて、すまないこと。そして……最後にジャムをたくさん作っていこうとしたが、材料が少なくて、一瓶しか作れなかったこと……」
スケアクロウはガラス片を指で摘まんだ。
「俺はその瓶を開けられなかった」
そう……だろうさ……。
朝起きたら最愛の人がいなくて。
別れを告げる置手紙と、その人が最後に残してくれたジャムの瓶だけがあって。
もうその人は世界のどこにもいなくて。
ジャムももう、それしかないのなら。
誰が。開けられるか。
「世界を渡り、長く戦いを続けるうちジャムは傷んで、やがて乾いて黒ずんだ汚れが底に残るだけになった。そのうち瓶にもひびが入り、割れて、今残っているのはこの欠片だけになった。もう持っていても、何の意味もないものだ」
スケアクロウはきっと、彼女のいちごジャムの味を忘れたくなかったんだろう。
だから別の並行世界でも口にしなかった。
同じ味に、彼女の思い出が塗り替えられてしまうことが怖くて。
しかし。
スケアクロウはもう一口、パンをかじった。
今は。この世界でだけは。今までと違う、ここでだけは。
彼の顔が歪み、閉じたまぶたから涙の筋がいくつも伝った。
「うまい」
「ああ……」
彼は幸せだった。すごくすごく、幸せだったんだ。
不愛想で、融通がきかなくて、まわりをよく見てなくて、愚直で、真面目で、頑固な男だけど……。
心からリーンフィリア様を愛して、幸せにしようとしていたんだ。
もし僕の目の前でも同じことが起こったら。僕に再起する力は残されるだろうか。
あまりにも悲しすぎて、その場から一歩も動けなくなるんじゃないだろうか。
遺された瓶一つにすがりついて、ずっとうずくまり続けるんじゃないだろうか。
気づけば、僕の目からも涙がこぼれていた。
僕とスケアクロウは別人で、あちらのリーンフィリア様とこちらのリーンフィリア様も別人で、それなのに。
涙が止まらない。そんな悲しいお別れがあってほしくない。
ジャムにふれているところだけが、甘かった。
と。
「な、何泣いてんのよ、あんたら……!?」
ぎょっとした声が上がって振り返れば、アンシェルが切ったばかりの果物を皿に載せて立っていた。
「いや、ジャムがね……」
「確かに、リーンフィリア様のジャムのおいしさに感動して泣くのはわかるわ。でもだからって、大の男が二人してパンくわえたままシクシク泣いてるなんて、ものすごく気味が悪いわよ」
見たままなんだろうけど、言いたい放題だ。
「ほらこれ。エルフたちからの差し入れよ。さっさと食べて仕事に出なさい。今夜も物置みたいな部屋にリーンフィリア様を寝かせたら承知しないからね」
テーブルに皿を置くと、アンシェルは忙しない足取りで部屋を出ていった。
僕とスケアクロウは顔を見合わせ、少し笑った。
この世界は、まだ悲しくない。
大切な人がちゃんといて、次の食事にもいちごジャムが並ぶ。
そして、できることがある。
それはとても嬉しいことなんだ。
「急ごう。今日もすることがいっぱいある」
「ああ」
さあ、いちごジャムを食べよう。
これは、とても幸せな味がする。
同じ名前の少し違う人を好きになった、同じ役目のまったく違う二人の男のお話。




