第二百四十九話 異世界巡り
「落ち着きましたか」
リーンフィリア様が差し出したハンカチに、スケアクロウは「すまない」の一言と共に手を伸ばした。
まるでこれまで溜め込んでいた涙をすべて出し尽くすような号泣から少し。石の彫刻と大差なかった目に人間らしい厚ぼったさを残しつつも、彼は元の冷静さを取り戻していた。
さっきまで猛犬のごとく吠え猛っていた少女たちも、これほどの男が流した涙の重みに毒気を抜かれたか、今は大人しく事態の推移を見守っている。
「…………」
スケアクロウはハンカチの端に指先を触れさせたまま、リーンフィリア様をじっと見つめた。
妻だ、と言われたことに何の実感が伴わなくとも、人間味が削ぎ落ちるほどの戦いを続けてきたこの強大な騎士が、涙ながらにこぼした言葉に嘘偽りがあるとは思えなかったのだろう。リーンフィリア様は少し困ったように微笑み、視線をそらした。
「ちょっと。変なこと考えてるんじゃないでしょうね」
アンシェルが爪の先ほどの石粒をスケアクロウの鎧に向かって投げる。彼はそちらには顔も向けず、大人しくハンカチを受け取ると、それをじっと見つめながら目を細めた。
「心配せずとも、俺が愛したのはあの時間のリーンフィリアただ一人だ」
「他の時間では、結婚しなかったのか」
僕が何気なくたずねると、
「時の流れを大きく変える必要があった。リーンフィリアが助かればそれでいい。俺が何かを得る必要は、もうない」
律儀というか、一途なヤツだ。誰もが彼を評したに違いない、穏やかな空気が瓦礫の山を包んだ時だった。
「ふっ……。くくくっ……」
悪戯っぽい笑い声が不意に持ち上がった。
ディノソフィアだった。
「何がおかしいんですか」
リーンフィリア様がむっとしたように言う。スケアクロウの愚直さを笑われた、と思ったんだろう。でも。
「おまえたち、すっかりこの男が未来から来たことを信じているようだが……本当にそんなことがあると思っているのか?」
え……?
突然混ぜ返す言葉に、僕らは互いの顔を向け合った。
「この人が嘘をついているようには見えません」
リーンフィリア様がきっぱりと言う。僕も同意だった。スケアクロウは真実を話している。こいつの語る言葉には、演技やごまかしを超越した重さがあった。
「時を戻す能力など、神にもない。そんな力は存在せんよ」
僕は無言のままディノソフィアに歩み寄ると、無造作に尻尾を引っ張った。
「のじゃんっ!? これ、引っ張るなと言ってるじゃろう」
「実際時を駆けてるだろうが。今更余計なことを言って話をこじらすな」
苦情を言う僕の手から尻尾を取り返し、ディノソフィアは心外といった顔を見せる。
「まあ待て。これは重要な話じゃぞ? なぜスケアクロウにそんな力があると思うのか、冷静に考えてもみろ。時を戻せばすべてがなかったことにされる。神の行いすら、じゃぞ」
含みのある声に、僕はうなった。
ゲームの主人公だから、という理由は口にできるようなものじゃない。彼の話をすんなり受け入れられたのは、僕がそういう創作物のストーリーに慣れ親しんでいるからにすぎない。
「思い出すがいい。スケアクロウとは何者か? 女神の騎士じゃ。神から力を授かっておきながら、なぜ神の行動を覆すほど強い力を持っている?」
『……!』
みんなはっとなった。
そう。スケアクロウは、ある時間軸のリーンフィリア様の騎士だ。純粋な戦闘能力で上回るのはいいとしても、神様を超える特殊な能力を持っているのはおかしい。
……おいおい……。まさかここに来て、全部なかったことになるんじゃないだろうな?
「スケアクロウも思い違いをしておる。話してはやったが、そいつの石頭はドワーフの頭蓋骨並みじゃからな。まあ、どうだろうと知ったことではないと思っただけかもしれんが」
「何か知ってるのかよ」
聞くと、ディノソフィアはうなずいた。
「一応、“叡智”を名乗っているくらいなのでな」
「聞いてあげます。一体何だと言うんですか」
焦れたようなリーンフィリア様の物言いに、悪魔はニヤリと笑って返した。
「そやつが越えているのは、時間ではない。世界じゃよ」
『……?』
よりわかりにくくなった話に、互いの顔を見合わせる仲間たち。
でも。仮にも地球出身でそういう話に慣れ親しんでいる僕には思い当たる節があった。
「並行世界……」
「そういえば、オメガから教わったことがあります」
僕に続いてリーンフィリア様もつぶやく。
「この世界にそっくりな世界がいくつもあり、それらの世界は誰かの行動一つでどんどん増えていく……たとえば、誰かが昼に食べたものがシチューだったかスープだったかでも、世界は枝分かれしていくと」
それを聞いてディノソフィアは満足げにうなずいた。
「天使たちも、ほどほどの教育はしておったようじゃな」
時間移動ではなく、並行世界の移動。ややこしくなった気はするけど、世界の境界を越えて移動できるという点に関して言えば、僕はひどく納得できた。
女神の騎士は、どういうわけか異世界へと渡ることができる。
なぜそう言えるのか?
僕の世界に来た先代がそうだったからだ。
すでに見せつけられたものを疑う意味は薄い。
「けれど、別の世界には別の自分がいるはずです。同じ人物が二人もいたら、周囲は不審がるでしょう」
リーンフィリア様が指摘する。
そのとおりだ。
スケアクロウは何度か時間遡行――世界転移を実行している。『Ⅰ』や『Ⅱ』の開始地点に戻ったこともあるはずだ。その時の女神の騎士はスケアクロウ本人だったはず。
彼らはどうなった?
「スケアクロウが喰った」
「え……」
はっきり告げられた答えに、僕もリーンフィリア様も鼻白む。
それは……並行世界から渡ってきたときに、本人の人格を乗っ取ってるってことか?
「ククッ、騎士よ。おまえ、スケアクロウに強い苛立ちや怒りを覚えたことがないか?」
思わずうめいた。
ある。出会った時からそうだ。ここ最近では、おかしな幻覚のようなものまで見た気がする。
「それはな、おまえという存在が、スケアクロウに喰われて同化されるのを激しく嫌悪しておるからじゃよ。おまえはスケアクロウではないが、女神の騎士という立場は同じじゃ。案外、別世界の同じ境遇の者から、何かしら警告でも受け取ったのかもしれんぞ」
ま……さか!
別世界の同じ境遇の者って……しゅ、鎧……!?
時折挿入される主人公の一人語りは、この世界で彼が本来語るはずだった声だと思っていた。でも、実は並行世界からのエコーだったのか……?
いや……こればっかりは、確かめようがない。
あの苛立ちがどこからやってくるのかについても、何となくでしか理解していない。幻を見た感覚はおぼろげで、すぐに記憶のどこかに潜っていってしまう。
でも、あの時……。そうだ。あの雪原で殴り合った時、僕は強い感情を抱いた。
僕とこいつは、違うって。
そして――あの時。僕と鎧の声は重なったんだ。
思えば、主人公がスケアクロウに対して何かを言ったのはあれが初めてだったかもしれない。それまで不思議なくらい無言を貫いていた。まるでスケアクロウがそこにいないみたいに。
いや“いなかった”んだろう実際。
いるはずがないんだ。もう一人の自分なんて。だから感想なんて出てくるはずもない。
だから声じゃなく、感情で、僕に示していたんだ。スケアクロウが憎い。異世界から割り込んできて、自分を食べて乗っ取ってしまったこいつが嫌いだと。
そりゃ、いくら相手が自分でもいやだよな……。
と。そこまで空想を繋げて、僕ははた、となる。
「なあ……でもこの話、おかしくないか?」
「のじゃ?」
「もしスケアクロウが世界と世界を渡ってるとしたら、過去の出来事には触れない。並行世界は分岐して生まれるんだから、移動先は常に、分岐点より後の時間のはずだ。今、世界を飛び越えても、昨日にだって戻れない。やっぱり時間をさかのぼる力が一緒にないと説明がつかない」
「ほーお。なかなか頭が柔らかいな。騎士」
ディノソフィアは感心したように笑った。
「確かに、並行世界はすべて同じ速さで時を刻んでおる。何時何分何曜日、星が何回巡った日かはどの世界でも一緒じゃ。しかしな……歴史が同じ速さで進むとは限らん」
「なに……?」
歴史?
「ある天才とある研究者が出会わないことで、ある発明品の登場が十年遅れるかもしれん。ある革命にある英雄が参加しなかったことで、そこで生まれるはずの思想が、もっと後にならんと生まれないかもしれん。そうした積み重ねで、歴史の動きは大きくずれていく。歴史を動かしているのは時間の流れではない。人じゃからな」
「じゃあ、スケアクロウは……」
「歴史の流れが後ろにずれた世界を渡り歩いておる、ということじゃ」
そういうことか……。
「世界のできごとがあらかじめ決まっておるわけではない。運命という言葉には別の意味がある。しかしな、ヒトの歴史にさほどバリエーションはない。ディテールは違えど、同じことの繰り返し。生まれて、栄え、殺し、殺されて、滅んで、また生まれる。リーンフィリアは神じゃ。長い寿命の中で地上を見つめておれば、文明が軒並み壊滅するような危機には必ず遭遇する」
「じゃあ、リーンフィリア様が僕らとはまったく違うメンバーと一緒に戦ってる世界もあるってこと?」
僕がたずねると、ディノソフィアはくつくつ笑い、
「まったく違うとは言いかねるな。ひととひとの巡り合わせというのは、偶然ではない。互いの意志が持つ引力に影響される。女神が求める騎士は、生前強く勇敢だった者じゃ。ある世界でそうだった者は、違う世界でもやはり強く勇敢な戦士であることが多かろう。その者が何者であるかは、根源的な意志の方向性で決まるものだからじゃ。であれば、同じ人物が女神の騎士に選ばれる可能性は高い」
確かに、たった一つの選択が人生をがらっと変えた、なんて話をよく聞くけど、実際はそれだけじゃない。そこから続くたくさんの選択の中で、その人の人生は変わった――いや、変えたんだ。
「富める国が現れれば世は乱れる。そこには望まぬ姿で生まれた者もいよう、故郷を飛び出す研究者もいよう、新たな武具を求める者もいよう。そやつらは大抵、何かしら瑕疵を持っているだろうし、欠落も感じておる。そこで助けてほしいと互いに手を伸ばしていれば、触れ合う確率が高まるのはごく自然なこと。たとえ名が違い、性別が異なっていたとしても、それがここにいるおまえたちと無関係だと、どうして言い切れる? ひとは、単独でその世界に生まれ来るのではない。環境、因縁、たくさんの過去の集約として生まれてくる。そして、巡り会うのじゃ」
曖昧な物言いだ。実態が掴めず、頭の中でぼんやりと理解するような空想事。ただ、僕たちは偶然出会ったのではなく、歴史の必然でもなく、互いに探していたからこそ出会ったという部分だけは好感が持てた。
時計を動かしているのは、無数の小さな歯車だ。
時計が小さな歯車を動かしているわけじゃない。
「わかりづらい話です。雲をつかむような話だという点で同じなら、時を移動して来たという方がまだ理解できます。どちらでもいいのではないですか」
リーンフィリア様が眉間にしわを寄せて言うと、ディノソフィアは肩をすくめ、
「バカ者。全然よくはないぞ。おまえも神なら知っておけ。よその世界からやってきたからこそ、スケアクロウの望みがかなうことは決してない」
「!?」
僕とリーンフィリア様は揃って息を呑む。
「初めて会った時に、わしはおまえにそう忠告したはず。なあスケアクロウ?」
瑞々しい緋色の瞳が動き、黙して話を聞いているスケアクロウの姿を反射させた。
彼の険しい眉が、わずかにその度合いを強めたように見えた。
「そして、それはおまえも同様じゃよ、ツジクロー」
「え……?」
鋭さを増した声に刺され、僕の背中にひやりとしたものが流れる。
「おまえたちは、望む場所へ、決してたどり着けない」
やけに、響いた。
ディノソフィアが話し出すと長くなる法則




