第二十五話 安息の日
ナベのフタをコトコト押し上げるたびにこぼれる香りが、簡素な豆腐ハウスの床を流れ、戸口へと出ていく。
台所でアンシェルが夕食の支度を始めてからだいぶたつ。そろそろ食卓を囲う準備が整うようだ。
〈ヴァン平原〉の町の一角。
僕たちは天界ではなく、地上の町で夜を迎えている。
女神様の仮宿――といっても、僕ら四人で建てたシンプルな豆腐ハウス。広さはあるけれど、内部の飾り気はまるでない。せいぜい明かりが多いくらいか。
僕らが地上にいるのは、パスティスを町人たちに馴染ませるためだった。
二日前の祭で、キメラの少女は、外見という最初にして最大の偏見を乗り越えた。けれど、彼女の優しい心根を理解してもらうためには、日々の交流が不可欠。だから地上で僕らとこうして暮らし始めたのだ。
それは悲惨な環境に置かれ続けた彼女の心を癒すと同時に、世界を学ぶための時間でもあった。
パスティスの知識には大きな偏りがある。吸収源が、悪魔および、悪魔が盗ませた書物等に限定されていたからだ。
彼女は町作りを手伝いながら、今、急速に多くのことを身につけている。
それが彼女のこれまでに報いてくれると、僕は信じている。
僕はハウスの出入り口に背中を預け、室内の様子を何となく眺めていた。
リーンフィリア様は、食卓に座って行儀良く夕食を待っている。
パスティスは部屋の隅で膝を抱えてしゃがみ(座っているわけではない)、床に置いた本を、廿_廿みたいな半眼で黙々と読んでいた。
アンシェルが貸してくれた天界の本だ。〈歩くカンペ〉の異名通り、彼女もなかなかの勉強家らしく、ためになる本を何冊も持っているらしい。
時折、尻尾の先で器用にページをめくっている。これが面倒くさがりなのか、それともサベージブラックの普通なのかは、僕にはよくわからない。ちなみに、座っていると尻尾が使いにくいので、しゃがんでいるらしい。
なぜ椅子を使わず床に本を置いているかというと、
「地面に近いところが、落ち着く……から」
とのこと。何の習性だろうか。
立っているときはとても姿勢がいいのに、しゃがむときはやたら小さく丸くなるのも、まあ何かの生物由来の特徴なのだろう。
「はーい。ごはんができましたよー」
簡素な豆腐ハウスのキッチンから、大きなナベを持ったアンシェルが出てきた。
今日のメニューはたっぷりの野菜を煮込んだシチューのようだ。
食卓に置かれた皿に、アンシェルがシチューを盛っていく。
さあ、夕食の時間だ。
「いただきまあす」
リーンフィリア様が嬉しそうにスプーンをシチューに沈み込ませるが、パスティスだけは、困ったような顔で僕の方を見つめていた。
「――騎士様は、食べない、の? いつも、食べてない……から」
『………………』
それを聞いた僕らはしいんと静まり返り……。
にわかに騒ぎだした。
「そういえばあんた、食事とかどうしてるの?」
「わ、わかんない。お腹全然空かないから……!」
「は、初めて会ったときから、ごはん食べてるとこ見たことないです……!」
今さらとか言わないでくれ。本当に気にしなかったんだよ!
「そもそも騎士が寝てるとこも見たことないわ」
「お、置物みたいにぼーっと突っ立ってると、いつの間にか夜が明けてるんだ」
「初めて会ったときからそうでした!」
そしてアンシェルが決定的なことを口にする。
「だいたい……あんたその鎧脱いだことあるの?」
「わたしは見たことないです」
「僕もない」
『………………』
全員沈黙。
「その中、もしかしてすごい不潔なことになってるんじゃないでしょうね……」
「に、においは……しませんけど。鉄のにおいしか」
リーンフィリア様がくんくん嗅いでくる。
「よくわかんないけど、兜くらいは脱いだら? どんな顔してるか見てみたいし」
そう言うと、アンシェルが僕の兜に手をかけて引っ張った。
が……。
「ふっ…………んんんんんんんんん!! なっ、何これ。全然取れないじゃない!」
「えっ……マジで……!? ほ、ホントだ。ぬ、脱げない……!」
「わたしも手伝います!」
「わ、わたしも……」
三人がかりというか、僕も加わって兜を外そうとしたけど、まったくびくともしない。
手甲や鉄靴はどうなのかというと、こちらもまったく外れなかった。
もはや、この鎧が僕そのものであるかのよう。
「はあ、はあ……。何で脱げないの。女神の騎士だからかしら……」
「そうかもしれません。騎士様はすでに地上で一度亡くなっていますから、普通の存在とは違うのかも……」
僕としては何一つ不自由はないんだけどもね。
腹は減らないし、眠くもならない。のども渇かない。排泄の欲求もない。体臭も感じない。便利そのもの。
完全にバトルマシーン化してる?
あっ……!
つーか、何やってんだよ! 僕の素顔、見られない方がいいに決まってるじゃないか!!
リーンフィリア様は先代の顔を知っている可能性がある。女神の騎士になる前の彼を見ているかもしれないのだ。もし今の中身を見られたら、別人だって一発でバレる!
あ、危ねえっ! どうしてすぐ気づかなかった。ウカツすぎてヤバイよ僕! この話はこれ以上掘り下げない方がいい!
「騎士様、鎧、脱げない、の?」
パスティスがなぜか寂しそうに聞いてくる。
「ああ、うん。そうみたいだ。でも、特に困るわけじゃないから、僕は平気だよ」
「…………」
「? どうかしたの?」
「お礼、したかった……から。助けて、くれたこと」
「うん?」
「この本に、書いて、あったの」
表題『女主人と奴隷少女の夜』。
「何て本読ませてんだ天使イイイイイイイ!?」
「えッッッッッ!? ち、違っ……なんで!? 確か道徳の本の方を渡したはず……!」
「思いっきり背徳的なタイトルなんだよなあああああ!? こんな退廃的な本が天界で許されるはずがないよなあああ!!」
「鎧、着てても、いい……よ」
「へっ?」
パスティスの小さなつぶやきに、僕の心臓がどくんと跳ねる。
「ごはん、食べたら……お礼、する……。ご奉仕、するね……」
アンシェルやリーンフィリア様が唖然とする中、少女の目が、どこか妖艶に光った、気がした。
なっ……。
何だこの展開はあああああああああああ!?
※
少女の繊細な指が、僕の体中を這っていった。
ときに強く、時に優しく、絶妙な力の入れ加減は、本だけで得られた知識とは到底思えない。
「あの悪魔に言われて、何度か、したこと、あるから……」
少女は悲しい過去を振り返るように声を落とし、
「でも、騎士様にもしてあげられたから、良かった、のかな……」
ほんの少しだけ、声音に安堵をにじませる。
「終わ、り……」
ずっと身近に感じられたパスティスの体温が離れるのがわかった。
鎧越しに伝わる夜気が、いやにひんやりしていた。
「…………」
「…………」
僕らの前にアンシェルが現れ、薄ら笑いを浮かべてきた。
「終わったの?」
「うん……できること、全部、した……」
パスティスが微熱のこもった息を吐き出す。頬がわずかに赤い。
どこか満足げな表情が、かすかな妖艶さを感じさせた。
アンシェルは、そんな余熱の溶け込んだ空気の中で、僕をまじまじと見つめ、
「ふうん。思ったより汚れてたみたいね」
「布……真っ黒に、なった」
パスティスは、桶に入った水で雑巾を、手慣れた手付きで洗い始めた。
「よい手際でしたね、パスティスは。騎士様、すっかりピカピカになって……」
リーンフィリア様が嬉しそうに僕を見る。
装甲部分は裏側までしっかり磨いてもらい、油を染み込ませた布で丹念に拭いてもらったおかげで、関節部を守るチェーンメイルの動きが一層滑らかになった気がする。
「鎧の掃除、何度かしたこと、ある、から……できた」
パスティスが少しはにかむように言う。
アンシェルが半笑いで僕を見る。
「あんた……奉仕とか聞いて、変なこと考えてたんじゃないでしょうね……」
「ぐっ……あんな本を持っていた君が僕を責めるのか……」
「ぐふっ……あ、あら、歯切れが悪そうねえ。いつもの勢いはどうしたの狂犬さん?」
「がふっ……そう言う天使さんも、脂汗すごいですね。運動でもしてたのかな?」
段ボール製のナイフで天使と傷つけ合いながら、僕の中の邪な心がつぶやく。
これでいいんだ。
これでいいんだけども。
パスティスさん。
これはご奉仕やないねんな……。
メンテナンスやな……。
【このゲームはCERO:Cだ:ノージャッジ】(累計ポイント-52000)
廿_廿
これほどまでに先が見え見えなお色気回もない。
何でもないただの一日。
※
前回投稿文の一部が、規約に引っかかっていたので訂正しました(変態的な意味ではなく)。
教えてくれた方、どうもありがとうございました!




