第二百四十八話 みんながいる世界
「幾度も同じ時間を繰り返し、おまえを救うすべを探した」
ついさっき、ようやく人間らしい赤みを差した顔が、再び石色に戻っていく。
「戦いを急ぐことも、反対にわざと時間を遅らせることもした。しかし、街の形が異なることはあっても、おまえに訪れる結末は変わらなかった。おまえは必ずこの土地を訪れ、最後には白亜飢貌ノ王にたどり着く」
知らず握りしめられていた拳が、乾いた音を立てる。
「おまえは自分についていくらか知っていることもあったし、ほとんど何も知らずにいることもあった。だが、いつも……この場に至ると、おまえは微笑んで、俺の前から消える」
もう何も求めていないような声。何度も何度も希望にすがるうち、その形自体を自らの手ですり潰してしまった男の疲弊が、スケアクロウの鈍い表情に滲み出ていた。
空気がのどの奥に詰まる感触がした。
まるで運命。どんなやり方をしようと、リーンフィリア様の命はそこで途絶えることが確定されているみたいだった。
「……ディノソフィア。白亜飢貌ノ王が、地上を消し飛ばしてしまうというのは本当なのですか」
押し潰すような沈黙の空気の中で、リーンフィリア様の生真面目な声が動く。
「うむ……。わしも完全に把握しているわけではないが、もし肉体を破壊されれば、王の内側にある負のエネルギーが大量に放出されるのは確かじゃろうな。それが地上にとって何一つ良いものではいことは、想像に難くない」
「やり過ごす方法はないのですか」
「天界の中心地ならばそれなりに防御はできよう。あるいは深海の底か。どちらにせよ、被害から逃れられる場所も、者も、ごく少数に限られる。つまり、スケアクロウの言うことは現実になる」
「そうですか……」
噛みしめるような小さな声だった。
時の先に恐るべき厄災が待ち構えていて、それを何とかできるのが自分一人であると自覚してしまったような悲壮な覚悟が、唇の端にあった。
命はすべて平らな場所に立っている。
リーンフィリア様の内側にある鋼のような信念。身近な者だけを救って、それが精いっぱいだったと自分を納得させられるような人じゃない。
ならばリーンフィリア様は。
自分の命と引き換えに、地上の生き物たちを救うことを厭わないだろう。
人も、動物も、虫も、木々も。
スケアクロウは多くの可能性を試したようだ。その時のリーンフィリア様は勇敢な性格に成長していたのだろうか。それとも臆病なままだったろうか。
関係ない。あらゆる場面において、彼女は同じ選択をしたんだ。
自分の命を差し出し、世界を救う。
単純明快にして究極の自己犠牲。彼女の名が示す「強い友愛」にふさわしい、尊い行いだ。
スケアクロウは阻止しようとしただろう。実力行使も辞さなかったんじゃないだろうか。
それでもリーンフィリア様は彼を抜き去り、決行してしまった。
止められないんだ。誰にも。女神の騎士にも。夫となった男にも。彼女の意志は。
「わたしは……」
リーンフィリア様が意を決したように口を開く。
僕は痛いくらいに彼女を見つめる。
胸が冷たく鼓動し、ある日のスケアクロウの言葉を蘇らせた。
――リーンフィリアを裏切れ。
彼女の意志を、裏切れ。
そういうことなのか。犠牲になろうとするリーンフィリア様の意志を拒み、あらゆる手段でそれを阻止しろということなのか。もう何度も試し、失敗したであろうやり方でも、もはやそれしか彼女の消滅を止める方法がないって言いたいのか。
「わたしは非力な神でした。心も弱く、勇気も持っていなかった。つらいこととは向き合えず、自分の殻に閉じこもることも何度もありました」
彼女は僕を見て、そして仲間たちの顔を見渡した。
「でも今、わたしには小さいけれど強い心があります。ほんの少しなら勇気もあります。多くの仲間が、そしてわたしを支えてくれる人たちが、わたしを強くしてくれました」
腰に提げている小さなスコップに指を這わせる。
多くの人々があのスコップに救われた。けれど女神様にとって、それは平坦な道じゃなかった。
掘れないものを掘るために手を血まみれにして。
危険な砂塵の舞う砂漠に、独り立ち尽くし続けたこともあった。
「みんなと一緒なら、わたしはどんなにつらく、恐ろしいこととも向き合える」
やってきた。乗り越えてきた。支えられつつ、自らの足で進んできた。
誰にも否定などできない。誰の心にもその姿が焼き付いている。
「わたしは、みなが好きです。みなが笑顔で生きていけるこの世界が好きです。みなが安らかに死んでいけるこの世界が好きです。それを守るために、わたしは神としてここに生まれたのだと思います。だから……だからわたしは――」
そうして彼女は、言った。
「――消えたくありません」
!!!!!!
「わたしはワガママな神です。みんなともっと一緒にいたい。みんなを近くで見ていたい! だからわたしは消えたくない! この先もずっと、みんなと共にありたいのです!」
…………。…………。
「そ、そういう、のは……だ、ダメ、です、かね……?」
断言した後で、ちょっと弱気に聞いてくる。
は……。
はは……。
「ははははははははははっ……!!!!」
僕は腹の底から笑っていた。
そうだよ。リーンフィリア様は優しい。誰かのために自分を犠牲にできるくらい。でもそれ以上に、超絶寂しがりやなんだ。僕らやタイラニー教徒の連中と会えなくなるなんて、我慢できるわけない!
それに、知ってるかスケアクロウ。彼女のもう一つの顔である裏リーンフィリア様は、すっげーわがままなんだぜ。二人は別の人格なんかじゃない。ただ光が当たる場所が違うだけの同一人物なんだ。つまり普通のリーンフィリア様だってわがままなんだよ!
ガシャッ、と大きな音を立てて、スケアクロウが両膝を地面に落とした。
彼の言うとおりにはならなかった。
ここにいるのは、彼が知るリーンフィリア様じゃない。僕らが知るリーンフィリア様だ。
「どうしたスケアクロウ! これがうちのリーンフィリア様だ。驚いて腰が抜け――……」
思わずからかうように顔を振り向けて、僕は声を失った。
ひざまずいたスケアクロウは、手で顔を覆っていた。
強張り、皮膚に突き立つような指の隙間から、雫がいくつも落ちていくのが見えた。
涙。
「ス、スケアクロウ……?」
誰もが愕然と、くずおれ涙する騎士を見つめた。
化石が鎧をまとったようだった男が、今、はっきりと生きた背中を丸め、食いしばった歯の隙間から、くぐもった嗚咽をもらし続けている。
まったく、予想しなかった光景。
「ずっと」
彼の歪み切った震える声が言う。
「ずっとそう言ってほしかった」
それは、あまりにも遠く響く言葉。ずっと。
感情が擦り減り、一人の男が石と同質になるまで削られ続けた時間。何度リーンフィリア様を見送り、失意と絶望に打ちのめされてきたか。怒りの面当てで、どんな顔を隠し続けてきたのか。
今を生きるだけの僕たちに、わかるはずがない。
「何だっていい。生きてくれ。リーンフィリア」
そう言った彼はついに言葉を忘れ、獣が咆えるように、泣き続けた……。
タイラ神は諦めが悪い




