第二百四十話 天使が眠るとき
追いついた。オメガは冷静さを失い、地上付近の空を飛び回っていた。
空高く飛べば、あの樹木の突き上げから逃げ切れるかもしれないのに、それすらできずにいる。
彼女がここまで慌てているのはなぜだ。そんな疑問を胸の奥に押し返し、僕はカルバリアスを逆手に一気に迫る。
「…………!!」
完全に頭上を取っていたにもかかわらず、オメガはさっきの勘の良さのまま、僕の接近を察して振り仰いでくる。
「ありえない……はずでした」
そのつぶやきを耳に引っ掛けたまま、僕はすり抜けざまにオメガに剣を叩きつける。彼女の曲刀が火花を散らし、こちらの飛行路をわずかに追った。
「オメガが猶予を与えた時、今ここにある何もかもが到底存在しえませんでした」
僕の攻撃とタイミングを合わせるように、大樹がオメガの軌道を塞いで立ちはだかる。オメガはそれでも防御する。
「人も、道具も、力も、この呪われた土地に集まるはずがなかった」
再び接近。オメガは述懐を続けながら、また僕を弾く。
「人間はあそこまで強靭ではなかった。エルフはあそこまで協力的ではなかった。ドワーフはあそこまで柔軟でなかった。それらを統合した技術が生まれ、地の底の影に気づけるはずがなかった。――そしてリーンフィリア様が……御業を使えるようになるはずもなかった……!」
オメガの軌道がふらつく。突き上がった枝の一部をかわしきれずに衝突し、打ち割った破片の中で、彼女の僕をにらむ目が光った。
「狂わせた者がいる。流れを掻き乱し、一つに結び付けた者が。――おまえです。おまえが、全部悪い。おまえはイレギュラーです」
あれらの自由っぷりを全部僕のせいにされても困る。
だが、あえて言う。
「それほどでもない」
「リーンフィリア様は!」
オメガが整った顔を険しく歪め、攻撃に転じてきた。曲刀を受けたカルバリアスから、大岩がぶち当たったような衝撃が伝わってくる。
でも、甘い。動揺か。疲労のせいか。彼女の剣はすでに単なる暴力の枠に押しとどめられている。刃を合わせたまま都市上空を飛翔し、彼女がうなった。
「あの方は揺りかごで揺られ続ければいい……! そうあるべきだ……!」
「揺りかご?」
曲刀が半分隠す彼女の顔に、僕は言い返さずにはいられなかった。
「揺りかごだと? 天界のことを言っているのか? リーンフィリア様のことを虐げるあの場所がか!」
「何も知る必要はない。知らなければまだ、いい。よかったのです」
オメガが力で僕を弾き飛ばす。が、すぐに空を蹴って切り込み返した。
「思えるかそんなこと! 彼女がどんだけへこんでたかわかってるのか。どんだけ傷つき、奪われてきたか。そしてそこから今まで、どれだけものを積み上げてきたか! 僕は女神様の騎士だぞ! 全部見てきた。全部だ!」
「ならばなおのこと、あの人の目を塞いでいるべきでした。踏み出させるべきではなかった!」
「イヤだね! 一緒に歩くさ、どこまでも!」
言葉を刃に載せて叩きつける。
この時になって気づいた。
“獣躙モード”が解けてる。とっくに、解けていた。解けたまま、オメガと打ち合っていた。
スケアクロウとの戦いの後がふと思い浮かぶ。
ルーンバーストの反動で、彫像のように動かなくなった手足。降り積もる粉雪すら重く感じられる脱力感。
しかし今。
僕は、何一つ譲る気もなく剣を握りしめていた。
疲弊はしているんだろう。体も重いんだろう。それでも。道を空けるつもりは微塵もなかった。
そして、舞い散った火の粉の向こうで、ひどく疲れた様子のオメガは――
笑ったように見えた。
「どうにも……どこまでも身の程知らずですね、あなたは。それはあの方が一番持っていないものです」
僕を妙に柔らかい力で押しやった直後。
オメガは、下方から立ち上がった巨木に背中から激突した。
十人が手を繋いでも囲いきれない幹を、正面衝突で完全に粉砕した彼女は、大量の木片と共に瓦礫の街へと落ちていく。
「〈驟雨〉!!」
その機をずっと待っていたような力強い声は、頭上から降ってきた。見上げた空には、十を超えるアンサラーの輝き。
「ミニマムファイヤ!」
聖銃が撃ち出した流れ星は、落ちた天使の光を追って地上の一角へと降り注いだ。
――轟爆。
※
「ホントに撃ちましたね、辺境警備分隊長」
廃墟どころか、アリジゴクが整えた巣のように綺麗に抉れたすり鉢状の穴の底で、オメガは恨み言を言ってきた。
一見して外傷らしい外傷もない彼女は、大の字に寝ころんでいる。あの銃撃を防いだらしいけど、そこまでが限界だったのか、起き上がってはこない。切れ長の目には、重たげなまぶたがかかりかけていた。
「〈驟雨〉とはいえ最小火力程度でどうにかなる相手ではないだろ?辺境警備隊長」
ニヤリと笑って答えたのは、突撃隊の実質的なボス。軍曹だ。形式上の隊長たちなんか、きっとどこかで縮こまってる。
何かの階級で呼び合う彼女たちは、どうやら突撃隊以前からの付き合いがあるようだったけれど、それを詮索する必要は今の僕にはなかった。
今、オメガのそばに多くの人々が集まっている。
リーンフィリア様、アンシェル、突撃隊、そして僕。
自分を見下ろすいくつもの目線の中から、オメガは一人のものを選んで見つめた。
「どうにも……育て方を間違えたようです」
リーンフィリア様へ。
彼女は穏やかに笑いかける。
「まさか、このようなお転婆になってしまうとは」
「オメガ……。ごめんなさい。わたしは、あなたとアンシェルの約束を……」
傍らにしゃがみ込んだリーンフィリア様に、オメガは小さく首を横に振った。
「いいえ。約束は反故にされていません。奪ったところを奪い返された。それだけのことです」
「オメガ……。悪いわね」
アンシェルがうつむいたまま、それだけ言った。短い言葉の中に込められた感情は多すぎて、僕には読み解ききれなかった。
「さっきの力は、誰かから教わりましたか?」
オメガが女神様に問いかける。あの大樹のことだろう。
驚くべきことに、あれだけ林立した木々は、まるで時を巻き戻したように縮んでいき、今では新芽のような小さな姿になっていた。
「いいえ。ついさっきまで、知りもしない力でした。騎士様の力になりたいと思った時、自然と体が動いたのです」
「そうですか……。誰からも教わらなければ扱えるはずがないのですが、あの騎士が絡んでいるのなら、そういう厄介ごとも起こるかもしれません」
謙虚にもそれほどでもないと、また言っておく。
「オメガ、わたしのあの力は一体何なのですか?」
「あれは……」
わずかに逡巡のような表情を見せたオメガは、すぐに、沈黙しても詮無いことと諦めるように微笑した。
「あれは大地神の力です。あなたの一族が扱う、神の御業です」
「……!」
リーンフィリア様が神の力を使えるのは当たり前だ。けれど、彼女は困惑したように目を見開く。
「どうして、わたしはそれを知らずにいたのですか?」
その言葉を聞いて僕ははっとなった。そうだ。あの大樹が何なのかより、今彼女が口にした疑問の方が重大。なぜ、自分の力のことすら知らない?
オメガはまぶたの閉じかかった目に、奇妙な優しさを光らせて答えた。
「それは、オメガたちがあなたの目と耳を塞いできたからです」
その場にいる天使たちの肩が小さく揺れる。
「あなたに何一つ知ってほしくなかった。どんな力も得てほしくなかった。ということです。それで、どれほどつらい思いをしようとも」
「何か、わけがあるのですね。ひょっとして、騎士様が見つけたという、巨大な人影とも繋がる……」
落ち着いた女神様の声が、オメガを微笑ませた。
「ここにいる者はみな、それを知っています。アンシェルに聞くといいでしょう。オメガは、少し疲れました……」
とろとろとまぶたが落ちかけている。彼女にも限界が来た。
天使の眠りはどれほどの長さなのだろう。オメガは四百五十年無休で働き続けている。もしかすると……もう僕たちと出会うことがないくらい、長い休みになるかもしれない。
言うべきことがあるなら、今言わなければ。
僕は口を開いた。
「オメガ。何が起きても、僕はリーンフィリア様と一緒にいる。それは絶対だ」
オメガのまぶたと口角がほんの一瞬だけ持ち上がり、それからすぐに静かな寝息が聞こえてきた。
戦いと呼ぶにはあまりにも長閑な結末。
土台、命の取り合いをしていたわけでもなく、結果だけ見ればふさわしい穏当さなのかもしれなかったけど、楽観視するにはオメガはあまりにも強すぎた。
おやすみ、最強の天使。
次に起きた時は、もう少し休暇を取ろうね。
しんみりと、僕が声なき声を彼女の寝顔に落とした時。
「縛り上げろーーーッッ!!」
軍曹が鬼の形相で叫んでいた。
えっっっっっ!!?
突撃隊の面々が巣をつつかれた蜂のように慌ただしく動き始める。
「オメガは何年連勤だ!?」
「四百五十年ほどかと!」
「こいつにしちゃ短い! 急げ!」
「縄だ! 縄はどこだ! なわわ!!」
「うわあああ、そんなちょうどいいもん持ってねえよお!」
慌てふためく天使たちに軍曹の恐るべき声が飛ぶ。
「早くしろ! こいつはオメガだ。十五分もあれば気分爽快に起きてくるぞ!」
「ヘアッ!?」
十五分だと!? 四百五十年連勤してたった十五分で全快してくるのかこのワーカーホリック!?
ちょ、ちょっと待って。
じゃあ何? 十五分後、フルリフレッシュで元気百倍のオメガが僕たちにリベンジを仕掛けてくる可能性もあるってこと? さっきは疲弊した状態でどうにか押し切ったっていうのに?
じょ、冗談じゃねえよお!
「縛るもの、オメガを縛るもの……!」
この危機に気づいた僕と女神様も一緒になって周囲を見回すけど、ここは突撃隊が〈驟雨〉で抉ったクレーターの中央であり、瓦礫すら砂粒ほどに分解されている。何もありはしないし、単なるロープごときでこの天使を拘束できるとも思えなかった。
焦る。そして焦れば焦るほど、時間は早くすぎていくものだ!
「あ!」
ここで僕に天啓めいた閃きが走った。
ディノソフィアだ。あいつの手甲には、なんかやたら硬い金属製の紐が仕込んであったはず。あれを使うんだ!
僕は砂地と化したクレーターから這い出し、悪魔コンビの姿を探す。
「ディノソフィア! 生きてるだろ!? どこだ!」
「のじゃあー」
瓦礫の山のむこうから、間延びした返事があった。駆けつけてみると、巨大な石くれに座って反省会でもしているような格好のディノソフィアとスケアクロウがいる。
僕はディノソフィアに事情を話し、例の束縛紐を借り受けた。天界組が総力を挙げても脱出できなかった拘束具だ。これなら!
僕は急いでオメガのところに戻り、紐を手放した。
紐は最初から標的がわかっていたかのように、蛇の素早さで天使に巻きつき、胸元から足首近くまでを完全にぐるぐる巻きにした。
ちょっとやりすぎのような気もするけど、とりあえずこれくらい縛られてれば、いくらオメガでも動けないだろ……。
僕らがそろって安堵の息を吐いた、そのすぐ後だった。
まるでバネでも仕込まれているような勢いで、オメガのまぶたが開く。
ヒエッ!?
「……?」
目を開けたオメガは、まず身じろぎ一つできない自分の異変に気づいたようだった。あごを引いて、体に巻きつく拘束具を一瞥した後、彼女の唇が小さく息を吸う音が聞こえ、そして。
バギャ、と悲鳴じみた音が響き渡り、拘束紐は引き千切られた!
「ノオオオオ!」
世紀末救世主が気合を入れただけで革の上着が千切れ飛ぶのと同じ現象だった。
オメガは手足を曲げることなく、真っ直ぐに背筋を伸ばした体勢で、糸に引っ張られるようにグインと起き上がる。
破片の一つ一つを子蛇のようにのたうらせる拘束具を踏みつけ、冴え冴えとした瞳で、僕らを見据えた。
「おはようございます。リーンフィリア様」
「お、おはよう、オ、オメガ……」
リーンフィリア様は完全に腰が引けた状態で、しかし、それでも最強の天使が何かの用件を切り出すよりも早く、次の言葉を口にしていた。
「ゆ、有休を、消費しなさい。オメガ……」
オメガはほんのかすかに眉をひそめる。それは、不満を表したようだった。
「……では、一日だけ」
「も、もっとです」
「二日」
「あるだけ使ってください」
「三日。これ以上は死んでしまいます」
休めば死ぬって、どういう構造してんだよこいつ……。
リーンフィリア様は、立ち向かったさっきの勇気はもう品切れという、びくびくした態度を見せながら、
「わかりました。じゃ、じゃあ、三日間休んでください」
「時に、リーンフィリア様」
「はっ、はい」
「休暇は、何をすればいいのですか?」
ヒェ……。
無趣味ってレベルじゃなかった。
ひとまず、空からではなく地上からグレッサリアを見て回ってはどうかと助言し、僕らはオメガを一旦遠ざけることに成功した。
新旧の文化が入り混じる大都市だ。たとえオメガが仕事狂でも、何か一つくらい興味を引くものがあるだろう。西南北の三都市は広さもあるから、最低でも時間は稼げる。
腕の振り一つで、突き立った武具のすべてを非物質倉庫に回収した小さな背中が立ち去るのを見送ってから、僕は砂の中にひっくり返った。
最後はちょっとアレだったけど、これで一応完全決着。
ええと……この戦いの中でコレとかコレジャナイとかがいくつあったっけ……。ダメだ、緊張が途切れて意識が朦朧とする。
でも、まだなんだよな。
天使たちに聞きたいことが山ほどある。そして今度こそ、全部話してもらう。
今が、何かが始まるための前座にすぎないことを、僕はうっすらと感じていた。
次回、ようやく色んな回答編。
シリアスさん「ど、どうすれば」
ギャグさん「まったく、見てられねーな」
シリアスさん「えっ、おまえは!?」
シリアルちゃん「おまえ一人にイイカッコはさせられないですう」
シリアスさん「偽俺!? どうしてここに!」
ニーソマン「世話のかかるやつだぜ」
シリアスさん「誰だこいつ!?」
ギャグさん「馬鹿野郎。おまえのピンチと聞いて、みんな駆けつけたんだぜ」
シリアスさん「お、おまえたち……くっ」
ギャグさん「さあ行くぜ! 俺たちの力を見せてやれ!」
DLC&アンシェル&ディノソフィア&シリアル&ニーソマン『おうっ!!!!!』
シリアスさん「全員敵かよおオオオオオ!!!!!!!」
シリアスさんの苦労はこれからもだ! END




