第二百三十話 虚無
始まりは静けさの中で起こった。
その日。僕は蒼く鈍った空の色と共に目覚め、今日もまた変わらない一日のスタートだという気持ちを、さしたる根拠もなくのどかなあくびと一緒に噛み潰した。
忘れていたわけじゃない。今が天使に定められた猶予期間でしかないことを。
でも、こちらにできることは限られていたし、時間の蓄積でしか解決できないことをのぞけば、僕らは積極的にその猶予を活用できていた……つもりだった。
〈雪原の王〉の捜索よりも街の発展に注力した結果、新住民たちの協力もあって北部都市の情勢はド安定化。
うまく都市資源を分配すれば、未解放の東部都市の住人を、グレッサリアの各都市で迎え入れられるだけの環境も整ってきている。
もうあと一歩のところでの足踏みは、ラストダンジョンのみを残したRPGの空気に似ていた。
さわらぬボスに祟りなし、というか、オメガの刻限は〈雪原の王〉を発見するまで訪れないのではないかと、ここまでの順調な流れに錯覚させられてしまっていた。
けれども。
止まる時などない。
今日が、運命の日だった。
※
濁った川底を這うような声が僕の羽飾りから聞こえてきたのは、朝食を終えてティーブレイクまでの間のできごとだった。
今日は何となく鐘が早めに鳴りそうだと、肌が察知する感覚の正誤を頭の片隅でもてあそんでいた僕には、最初、それが誰の声なのかわからないほどだった。
「騎士殿……できれば今すぐに、内壁の上に来てくれないかな……」
普段の飄々とした態度をすべて削り落とされ、ただただ無感情に内容を伝えるだけの声がマルネリアのものだと理解したのは、僕がすでに、〈コキュートス〉に向かって駆け出しているさなかのことだった。
マルネリアたちエルフの研究者たちは、〈ダークグラウンド〉に定住してから、様々な魔法的研究に着手していた。
これまで頭打ちになりかけていた研究のあれこれが、異大陸での発見でいくつもブレイクスルーを起こしていると聞いたのは、わりと最近のことだ。
今日はその成果の一つが試される――と聞かされてはいたけど、さっきの声を聞くに、首尾よくいかなかったのだろうか。
でも、ある程度失敗の可能性を予期していたからこそ、僕たちは呼ばれずに、まずは身内のエルフたちだけでの実験ということだっただろうに……?
このタイミングで首を傾げる余裕があった僕は、もうすでに始まっていた今日という一日の特別さをまったく感知できていなかったマヌケといえる。
しかし、その最初のステップは、もう目の前。
攻城櫓にも似た簡易階段を駆け上がり、城郭めいた内壁の頂上部に出ると、そこには異様な光景が広がっていた。
今回の実験に参加したエルフたちが、身を寄せ合うようにして、そこここに座り込んでいたのだ。
「な、何があった?」
実験の大失敗をいかに前向きに捉えて励ますかに頭のリソースを使い切っていた僕は、目の前の異質な空気にほとんど思考停止に陥りながら、マルネリアとミルヒリンスの母娘を探した。
彼女たちはすぐに見つかった。
一番大きいエルフの集団――それでも十人には満たないが――の中に、互いを支えるようにもたれかかる母娘の姿があった。
「マルネリア!」
「やあ、騎士殿。ホントに急いで来てくれたんだ……」
呼びかけに顔を上げた彼女の目は、ぼんやりとした普段の面差しとは似て非なるものだった。まるでこの世ならざるものを目撃し、放心しているかのような焦点の消失。無理に作られた笑顔には、硬直した表情筋を針で釣り上げたような痛ましさすら見て取れた。
「一体何があったんだ? みんな大丈夫なの?」
マルネリアは生気のない薄笑いでうなずくと、〈コキュートス〉の方を指さした。
「あれを見てもらえるかな。話はそれから……」
そこには、大掛かりな望遠鏡らしきものが設置されていた。
対物レンズは下に向けられており、天体観測のためのものでないことは一目で知れる。
〈コキュートス〉の深淵をのぞき込んでいるのだった。
半透明の皮膚を持つコキュータルを吐き出し続ける謎の大穴。
かつて女神の騎士と契約の悪魔の戦いにおいても、荒野に存在した亀裂と役割を酷似させる暗黒の淵。
既存生物と同じ形状を持つことも判明したコキュータルが果たして何者なのか、未だ多くが不明な現状において、今回エルフたちはその解明に挑んだということか。
僕はごくりと生唾を飲んだ。
研究用にしては洒落っ気な装飾を施された望遠鏡が、グレッサリアの冷気さえ凍えさせる寒気を、この場に広げている。
……エルフたちは、観測に失敗したんじゃ、ない。
何の成果も得られずに気落ちしているんじゃ断じてない。
見たんだ。
何かを。
その何かの予想は……僕の中でも決してゼロじゃない。
僕もマルネリア母娘も、〈コキュートス〉の底に潜む者に関して、かなりあてずっぽうではあるけれど、ある程度の覚悟を持って予想していた。
鉄靴の底を地面に凍りつかせたのも一瞬、僕は怖気をごまかすような強い足取りで望遠鏡に取りついた。
接眼レンズを兜越しにのぞき込む。
………………!!?
眼球から伝わる血流が、心臓に至るまでのあらゆる器官を委縮させていくのがわかった。
「それは……魔力の探知レンズなんだ……」
鎧を今の形で溶接されてしまったように動けない僕の横から、マルネリアの引きずるような声が聞こえた。
レンズをのぞく僕の視界は、感知対象の濃度の高さを示すような赤と橙の色彩で埋められていた。
〈コキュートス〉の内部は、奥底に向かって伸びる内壁のすべてを暖色で染め上げ、まるで巨大な火口の様相を呈している。ちょうど今這い出てくるところのコキュータルもその色に染まりきり、魔力濃度が低いと思われる青色の穴の縁にたどり着いて、ようやくはっきりした輪郭が見えるという状態だった。
〈コキュートス〉が巨大な魔力井戸であることは、前々から予想がついていた。これはその証明となるもの。つまり、この計測器を試しに来たマルネリアたちは、やはり実験の成功を勝ち取っていたことになる。
だが、これは何だ……?
太陽を溶かして塗りつけたような〈コキュートス〉の全景の最奥にして中心。
いる。
いや…………いる、のだろうか?
それは、片膝を立てて座り込む人型のように見えた。
人型の、闇だった。
太陽にできた黒点のように――いやそれ以上に周囲と明確な色差をつけて、赤々と燃える世界を切り取っていた。
距離感が狂い、軽いめまいを覚えた。
この大穴は、相当の深さがあるはずだった。
一度、かなり大きなコキュータルが穴に戻っていくところを目撃したことがあるけど、その燃える心臓が豆粒のようになって最後には消えてしまうほどの深さは確実にある。
なのに、僕にはこれが、はっきりと人型だとわかってしまう。
どれだけのサイズだ? これは巨人、なのか……?
そして、この反応色もおかしい。一部レンズ内に映り込んでいる穴の縁は、青色。説明なしにも、それが魔力の薄さを表しているというのは予想できるものの、この巨人の示す黒は何だ?
「……生体エネルギー反応に切り替えるよ」
マルネリアの沈んだ声がして、レンズから見える光景に横から何かのフィルターが通されたのがわかった。
まばゆくすらあった光景は、今度は青く暗い姿へと転じる。
夜空のように真っ青になった画面の中を、コキュータルのまぶしい橙色が這っていた。
生物ならば暖色で、そうでなければ寒色で示される世界。
穴の内壁にびっしりと並んだコキュータルの姿に、集合体恐怖症のけがなくとも背筋が泡立つ思いがしたけど、問題は――やはりその人型。
闇のままだった。
しかも、無機質に対してすら濃紺色の色彩がつけられるというのに、そこだけ人型の穴が空いているかのように、その巨影は黒のままだった。
観測されてない……のか?
何かとてつもなく不吉なものが、背筋を這っているのを感じた。
これ以上見るべきではないという警告を本能がささやくも、統制を失った僕の目は、凍りついたようにその物体を見続けた。
それから短時間のうちに、様々なフィルターが僕の視界を横切った。
緑、紫、灰、茶、そのどれもが、エルフたちが用意した観測フィルターだったのだろう。
しかしいずれも、あの人型を映し出すものはなかった。
「生きてない、どころか、存在、してない」
最後のフィルターを通し終えた後、マルネリアは凍えるような結論に声を震わせた。
あまりにも“無い”からこそ、そこにある――いる、とわかってしまった虚ろな存在。
「あんなの、悪魔ですらないよ……」
キリキリと何かのツマミを操作するような音が聞こえ、僕の目はその暗黒へとぐっと近づけさせられる。
目を背けることも、顔を背けることもできないまま、やめてくれと思わず口走りそうになる直前、僕は本当の意味で凍りついた。
魔力もなく、生命力も放っていない、それが。
こちらを、見上げた。
目が、合う。
「…………!!!」
体が、細胞レベルで縮こまったのを感じた。
悲鳴を上げて後ろに倒れ込まなかったのは、僕の腹が据わっているからじゃない。あまりの戦慄に、絶叫は体の内側に放たれ、四肢を動かす神経がしびれ上がってしまったからだった。
すでに全身これ以上なく黒だというのに、その人型が振り向けた顔には、はっきりと目があった。体よりもさらに黒い――黒よりもさらに深い黒さをたたえた、二つの目が。
見ている。
こっちを。遠く離れた穴の上にいる、僕を……。
突然、腕にのしかかった重みに、僕は声を上げそうになった。
とてつもなく離れているとわかっているのに、この黒い何かに、腕を掴まれたと思ってしまったのだ。
だが、それはもちろん勘違いだった。か細い声が、その人物の名を知らせる。
「あれは、何なの……?」
マルネリア。
それは探究者として答えを求める問いかけではなかった。
探究や興味をはるかに下向きに超越した、あんなものがいていいはずがない、という拒絶と恐怖。ただの計測器の異常反応からは決して感じることのない、こちらの根源を鷲掴みにしてくる絶望感。
これまで色んな驚異を目の当たりにしてきたけれど、この巨人はその感覚のどれとも違っている。
僕たちが、見て、知ってすらいけないものが、この穴の深みにいた。
グレッサの民は、このことを知っているのか……?
「一体、何なんだよう……」
泣き言のようにつぶやくマルネリアは、少なくとも今朝の段階では、もっと別のものが見つかると思っていたに違いない。
――悪魔の王、白亜飢貌ノ王だと。
けれど、その見立ては違った。潜んでいたのは、彼女の想像をはるかに超える不可解な存在だった。今日ここに来たことに後悔すら感じさせるマルネリアの言葉に、僕が体に張った氷の内側でもう一度身震いしようとした時――
「騎士」
――――ッ!?
亀裂が入りかけたガラスのように、僕はその声に揺さぶられた。
「あんた、今どこにいるの? すぐに神殿に戻ってきなさい」
アンシェル――か。
知った相手の声に、凍りついていた血管が押し開かれ、わずかな血流を得たことを感じる。
しかし、緩和できた緊張はわずか。彼女の声は何か、嫌に、落ち着いている、というか、冷たい……?
果たして、彼女はその明瞭にして強烈すぎる一言を僕に告げた。
「オメガが来るわ」
目の奥で何かが弾ける感触。
「!! オメガ……が……! 近づいてきてるのか!?」
「…………何言ってるの、あんた」
突き放したようなアンシェルの声に、僕は息を呑む。
「地の底でものぞき込んでたわけ? 上を見なさいよ」
弾かれるように、天を仰いだ。
静かな粉雪だけを毎日毎日飽きることなく舞い降らす、〈ダークグラウンド〉の曇天。
その中央に、暗鬱をこじ開けるような巨大な四つの翼が、光り輝いていた。
予定通り復帰できたので再開していきましょう。
先手、シリアスさん。右上スミ小目。




