第二十三話 小さい竜
僕が近づくと、少女は怯えたように見上げてきた。
こっちの表情は兜の内側。無言のままでは恐れて当然だ。
「ごめんね、ちょっと立ってもらっていいかな」
僕がやんわりと手を差し出すと、少女は戸惑った様子で、けれども言われた通りに手を取って立ち上がる。
僕は彼女の体をまじまじと見る。
一見したときはぎょっとした。でも、明るいところでちゃんと観察すると……?
少女の右手を優しく持ち上げる。
色白で、細くて長い指。先端には長くて鋭い爪がある。
「アンシェル。この右手は何の?」
「ネイルザッパーという猿人の腕ね。爪も腕も細く見えるけど、とても強靱よ。普通の木くらいなら余裕でだるま落としができるわ」
僕は角を指さす。
「これは?」
「それはよくわからないわね。悪魔のものなのか、羊のものなのか。二つともよく似てるから」
脚を指さす。
「こっちは?」
「それはね……って、ちょっとそれ!」
いきなりアンシェルが大声をあげたので、少女がびくっと首をすくめる。天使は気にせず、ワンピースのポケットをごそごそやり始めた。取り出されたものは。
「あ、それは」
僕も知っているものだった。
例の黒いかけら。
「あ、ぁ、ぅ……」
当惑する少女をよそに、アンシェルはそれを彼女の脚へと近づける。
その鱗とぴったり一致した。
「そういうことだったのね……」
アンシェルは一人納得したようにうなずいた。
「つまりどういうこと?」
「この子の左脚と尻尾はサベージブラックのものなのよ」
サベージブラック! あの凶暴な竜のか!
「両親のどちらかが、その要素を持っていたのね。まさか、サベージブラックの体を持つキメラなんて、考えもしなかったわ。だから鱗がこんなに小さかったわけね……」
そうだったのか。
町ができる前から、この鱗は草原中にあった。
きっと、あの悪魔にこき使われていたんだろう。
どれくらい前から、あんなひどい扱いを受けてきたのか、考えるだけで胸が痛い。
それはそれとして。
うん、よし、わかった。彼女のこと、少しだけわかった。
あのボタンの押し間違いは、そういうことだったんだな、僕。
無言のメッセージ、確かに受け取った!
「あ、あの、ごめん、なさい」
僕らにじろじろ見られ、少女がうつむく。
「えっ、な、何で謝るの?」
アンシェルがたじろいだ。素直な世界で生きてきた者には、よくわからない感覚だろう。自分のまわりで世界が激しく動いていると、何か悪いことをしたと思ってつい謝ってしまう。それは反射でもあり、理不尽な世界への自己防衛でもある。
自分を守るために自分を削る行為。それ、知ってるよ。
「驚かせてごめんね。君を悪く言ってるわけじゃない。ただ、君のことを僕らは何も知らないから、今から知ろうとしてるだけなんだ」
僕は言い聞かせるように丁寧に伝え、ふと、目の前で揺らめいた彼女の尻尾を手のひらで受けた。
撫でるように手を滑らせると、ガントレットの手のひら側の、布地になっている部分が、尻尾の鱗の凹凸を伝えてきた。風呂場のタイルみたいに、わりとはっきりした隙間があるらしい、この鱗――。
「んっ、んンっ……!」
「へっ?」
いきなり鼻にからむような声を上げると、少女がぺたんと座り込んだ。
尻尾を守るように抱きしめ、赤らんだ顔を僕へと向けてくる。
えっ、えっ……。なに、なに?
「ちょ、ちょっと。何やらしいことしてんのよ!」
「えっ、僕が?」
アンシェルが眉を逆立てるけど、僕には何のことかさっぱりわからない。
「サベージブラックの尻尾っていうのは、感情器官でもあるの。ほら見て。今は鱗の間隔が狭まって閉じてるでしょ。このときの尻尾はものすごーく強固で、岩も切り裂く武器になるわ。でも、安心してるときやリラックスしてるときは間隔が広がって、開いてる状態になる。そういうときの尻尾は刺激に敏感で、これを通じて仲間同士で細かな感情のやりとりもできるようになるのよ」
「すごいな。物知りなんだね、アンシェルは」
僕が素直に感心すると、
「えっ? え、ええ。そっ、そうね、わたしってば天使仲間からも〈歩くカンニングペーパー〉って呼ばれてるんだから」
何でそんな罪深い名前を背負わされてるんだ、こいつは……。
「と、とにかく、サベージブラック同士でも尻尾の交流は繊細にやるんだから。しかもいきなり、あんなに無造作に撫でるなんて、セクハラよセクハラ!」
「そうとは知らずに、猫の尻尾みたいにさわっちゃってごめん」
僕は少女に頭を下げた。
「えっ……。謝る、の? わたしに?」
う? うん?
「わたし、なんかに、謝る必要なんて、ない、のに……」
これは……。
誰からも優しくしてもらえない、クッソ壮絶に悲惨な人生を歩んできたみたいですね……。可哀想すぎるよ。
「君、名前は? あ、僕は女神の騎士。あちらは女神リーンフィリア様で、こっちのうるさいのがアンシェル――オフッ!?」
無言で蹴ってきたけど、台詞を混ぜないことで話の腰を折らない美しいツッコミだ。
「女神、様……? 騎士、様?」
「はい。女神リーンフィリアです」
「天使のアンシェルよ」
少女は色の違う目をパチクリさせ、顔を紅潮させると、体をかばうようにその場にうずくまった。
「どうしたの?」
驚いた僕が聞くと、
「……恥ずかしい。女神様も天使様もすごく綺麗、なのに、わたしは、醜い、から……」
「大丈夫だよ。君は醜くなんかない。名前を教えてもらえるかな」
「パスティス。名前、ない、から、自分で、つけたの……」
「そうか。いい名前だね。じゃあパスティス、君を縛りつけていた悪魔はいなくなった。君はもう自由だ」
「自由?」
色違いの目をパチクリさせるパスティス。
「君は自分がすることを、自分で考えて、自分で決めていいってこと。少なくとも、もうやりたくもない盗みなんてしなくていい」
「ぁぅ……」
パスティスは目を伏せた。
「わから、ない……」
「え?」
「どうしたらいいか、わからないの。あの悪魔に言われて、ずっと、して、きたから……」
「……いつから、シャックスと?」
「知らない。覚えてない。ずっと、前から……」
悲しそうに言う。
「キメラの子は、色んな生態が混ざって生まれるから、親からちゃんと育てられることなんてまずないわ。でも肉体的には強いから何とか生き延びて、そのどこかでシャックスに拾われたのね」
アンシェルの言葉が胸に刺さった。でも、それだと一つ、腑に落ちないことがある。
「君は、シャックスに逆らって、町人たちの本当に大切なものには手をつけなかった。ヤツに育てられたなら、ヤツの価値観に疑問を持つことなんてないはずだよ。誰かが君にそれを教えたんだ。それは親じゃないのか?」
「本、読んだ……」
「本?」
コクリとうなずくパスティス。
「盗んだ本に、書いてあった。大切なものの、こと。盗んじゃ、いけない……」
「…………!」
ぎゃりっ、と胸がえぐられる思いだった。
彼女は、それを信じたんだ。
(五十億万歩譲って)親代わりだったシャックス。けれどこの子は、あの悪魔の価値観に逆らって、人として正しい方の価値観を信じた。
僕の生きてきた世界には性善説と性悪説というものがある。
はっきり言って、この二つが言ってることはほぼ同じだ。
性善説は、人間は元々善だけど、世の中には悪が蔓延っているので、染まらないようよく教育しなさいってこと。
性悪説は、人間は元々悪の要素を持つ弱い存在だから、教育によってちゃんとした人に育てなさいってこと。
どっちも生まれより教育が大事って話。教育をちゃんとしないとヤバいよって話。人は、生まれた環境や周囲の価値観、出会ったできごとによって作られていくのだ。
それをこの子は、影響力が強く、暴力まで振るう悪魔の言葉より、本で読んだだけの、見知らぬ良心に根ざした価値観を、正しいと感じた。
そう選ぶ何かが、この子には備わっていた。
そして確かに守った。そのための戦いを僕は見ていた。
誰も守ってくれないのに、誰も報いてくれないのに、戦った。
クッソ、涙が出るよバカヤロウ。あっさり折られた僕とは段違いだ。
よく守った。よく戦った。
僕はこの子を尊敬する。この子は救われるべきだ。僕はこの子を救うべきだ。
僕は真っ直ぐに彼女を見つめ、言った。
「パスティス。君と友達になりたい」
※
畑荒らしの真相を町人に伝える必要があった。
パスティスは望んで盗みをしたわけじゃないけど、いや、それどころか、町人の財産を守ろうとしていたけど、それでも、野菜を盗んだことについては清算しなければいけなかった。
面と向かってそれを告白するのは、本人からすればとても怖いこと。
でも、秘密にしたまま心の片隅を腐らせていくより、きっちりケリを着けてしまった方が、今後のためになる。
僕はそれを最大限サポートする。
町人たちに会わせる前に、僕は一度パスティスをつれて〈シャックスの洞窟〉へと戻った。
洞窟は、半分くらいがヤツのコレクションに埋もれて大変だったけど、幸運にも適当なものをサルベージすることができた。
ヤツは品物についた値段よりも、そこに込められた物語を重視していたから、曲がったヘアピンとか、折れた鉛筆とか、取っ手のないスプーンとか(本気で何かわからなかった)、知らない人からすると何の価値もないガラクタが多くて、ホント苦労した……。
よし、これで準備は終わりだ。
町人たちに本当の彼女を伝えてあげられるだろう。
そして、彼女自身にも。
色んな可能性を押しつけられるキメラ娘
次回、多分一番頭のおかしい回




