第二百十八話 フェーデ
どういうことだ?
自分の中にあった強固な認識を大きく揺らがされた気分で、僕は呆然とその威容を見つめる。
二又の角は一層ごつごつとしていかめしく、半透明の皮膚を持ち、体内に燃える心臓と謎の臓器を保持するサベージブラック。
大きさは、あの弑天よりもずっと小さく、しかし、アディンたちの母竜と同程度ではあるように分析できた。
恐らくは成竜。鱗も生えそろった一人前の黒竜なのだろう。
そこまではいい。
僕を困惑させるのは、サベージブラックの“コキュータル版”という点だ。
コキュータルはそれ自体が種族じゃないのか?
これまで戦った鹿やクリオネも、コキュータルという種の中の怪物たちだと思っていた。
でも、違うのか?
コキュータルというのは、生物が何らかの形で“成る”ものなのか? あるいは、その逆?
わからない。わからないが……。
――グルルル……。
静かにうなるアディンと対峙したまま、他のコキュータルを近づけさせもしなかった北部都市の主は、まだ闘争の気配を見せていない。
――ギリリリ。
アディンがむずがゆそうに体を揺すった。まるで僕に降りろと言っているふうだ。
こんな態度を示すのは初めてだった。戸惑いを感じつつ、それに従って下竜する。するとアディンはようやく準備が整ったような態度で、ゆっくりとコキュータルに向かって歩き出した。
「騎士……。これから何が起こっても、絶対にアディンに手を貸すんじゃないわよ」
アンシェルの沈んだ声が羽飾りから聞こえてくる。
「どういうこと? さっき言ってたフェーデって?」
「フェーデっていうのは、サベージブラック同士の争いの中でも特に強烈なやつよ。己の存在の正しさのすべてを証明する戦いなの」
「決闘……」
さっき聞いた言葉を口に戻しながら、コキュータルに対し弧を描くように歩いているアディンを見やる。
「もし横から手を出したりしたら、アディンはもう二度とサベージブラックとしては生きていけないし、永遠にあんたたちの前にも現れない。アディンだけじゃない。ディバとトリアもそうなるわ。この戦いはあいつらの聖域。誰も立ち入ることはできないの」
「何だって……! でも、相手は大人の竜だぞ」
焦る僕の声に、ため息が返された。
「だから、アディンが決闘を受諾する前に退散しなきゃいけなかったのよ。もっとも、いくらあんたの指示でも、サベージブラックが決闘から逃げ出すなんてありえなかったとは思うけどね……」
「騎士様……」
気がつけば、パスティスとアルルカが竜から降りてすぐ横に立っていた。
今の話は聞こえていただろう。パスティスの顔は不安に青ざめている。
「……大丈夫だ。アディンはこれまで先頭に立って敵と戦ってきた。ただの子竜じゃない」
彼女に言い聞かせながら、僕は自分にもそれを認めさせる努力をしなければいけなかった。
アディンは強い。元々の種の強さにプラスして、天使の魔法と、リーンフィリア様からの神の気を身に着けている。
これまで、その力でどんな強大な敵も破ってきた。
しかし、それには常にディバとトリアという家族にして戦友がいたことを忘れるわけにはいかない。全員で力を合わせて戦う。それが、これまでの僕たち一家の戦いだった。
それが、一対一。しかも相手は同族。
明確なアドバンテージは、ない。
コキュータルの正体に対する謎など、もう頭からすっ飛んでいた。
アディンと黒竜が、間合いを計りつつもじわじわとその距離を縮めていくのを、固唾を飲んで見守る。
アディンが足を止めた。
――ヴァアアアアアアアアアアアルル!!
地面を鳴動させるような咆哮が、衝撃となって一帯の雪を舞い上げる。
――ヴォオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアア!!!
黒竜がそれに応じるように吠えた。
聞くだけで体のどこかにひびが入りそうな轟音だった。
アディンのそれを凌いでいる。
次の瞬間、両竜は共に地を蹴って、正面から躍りかかっていた。
ガアアアアアアアアオ!
互いの首筋を狙った牙は、両方の首筋に浅い傷を刻んだだけに終わった。そのファーストインパクトで位置を入れ替えた二匹の竜は、すぐに前脚を振り上げて次の戦いへと移行する。
立ち上がった竜が、元に鋭い爪で互いの急所を狙う。
軽く撫でただけで神殿の石柱に傷をつけてしまうような獰猛な爪だ。取っ組み合いになったアディンと黒竜は、振り回す爪がかすっただけで皮膚が裂け、お互いの、赤と蛍光色の血を周囲にまき散らした。
純粋な押し合いで優位に立ったのは、やはり体格で勝る成竜の方だった。
前脚の力で薙ぎ倒されたアディンが、続く爪の一閃によって鮮血と共に吹き飛ばされた瞬間、僕の胸の内側に耐えがたい痛みが走る。
「アディン!」
思わず駆けだそうとするパスティスを、僕は咄嗟に抱き留めた。
「パスティス、ダメだ。邪魔はできない……」
「でも、アディンが……!」
悲痛な涙を浮かべた目に、諭せる言葉はなかった。
「僕たちの仔は、こんな程度じゃ負けない。絶対に。信じるんだ……!」
励ましともエールともつかない声だけ吐き出して、僕はアディンを見やった。
胸のあたりから血を滴らせつつも、雪の中からアディンが素早く起き上がる。深い傷ではないようだ。しかし、出血は全生物から共通して体力を奪う。タイムリミットをつけられてしまった。
リーン、リーン、キーン……。
アディンが鐘を鳴らすように魔法の詠唱に入った。
そうだ。おまえにはそれがある!
普通のサベージブラックにはない天使の魔法。たとえ単体でもその威力は折り紙付きだ。単純なパワーで押し負けても、こいつがあればいくらでも状況をひっくり返せ――
キーン、キーン……。
「なんだと……!?」
僕は愕然とした。黒竜が鳴いている。アディンと同じように!
どうして!?
二匹のサベージブラックの周囲に小さな光の粒が生まれ、そこから幾条もの閃光が走った。
発射のタイミングは同時。二匹の中間地点で激突した無数の魔力光が、照明弾のような強烈な光を放ちつつ爆散して粒子を舞い降らせる。
「どうしてあのサベージブラックは天使の魔法を使える!?」
理不尽さに叫び散らしてみても、答えなんか返ってこない。
キーン、キーン、リーン……。
アディンが再び詠唱を始める。
そうだ。戦いの最中に驚いてる暇なんてない。気後れした瞬間から不利になっていく。
さっきの魔力の相殺を見るに、天使の魔法に関しては互角の出力のように思えた。活路を見出すならここか。
さっきよりも数も太さも増したレーザーが、黒竜に向かって放たれる。
ヤツも対応する魔法を――使わない! そのまま突っ込んできた!?
愕然とする。光条は黒竜の皮膚を削り取るどころか、逆に純白の飛沫を弾け散らしていた。まるで荒波を砕く巌のように攻撃を防ぎ切り、気がつけばアディンの眼前で前脚を振り上げている。
横殴りの一撃を受け、アディンがもんどりうって倒れた。
黒竜はその隙を見逃さず、さらに追撃を加えようと躍りかかる。
もがくアディンに振り下ろされる爪が、雪原に赤い色彩を振りまいた。
もう見ていられなかった。
「く、くそっ! アンサ――」
「やめろって言ってるでしょ!」
悲鳴のようなアンシェルの叫びに頭を揺らされ、アンサラーの物質化を妨げられる。
僕の代わりにパスティスが叫んだ。
「でも、このままじゃ、アディンが死んじゃう! それよりは、ずっと、いい……!」
「勝手なこと言うんじゃないわよ!」
返された天使の声は、反論を許さぬ重みを持っていた。
「竜には竜の一生があるの! 生きていればそれだけでいいなんて、人のエゴなのよ! アディンは今、自分のすべてを賭けて戦ってる。生みの親も、あんたら育ての親のことも、誇りも全部賭けて。それらすべてが己にとって正しいものだって証明するために戦ってるの。それがフェーデというものよ。そこに横槍を入れるってことは、彼女からその全部を取り上げることになるの! 立派な竜に育て上げるって約束したんでしょ!? ちゃんと誇らせてやりなさい、これまでのすべてのことを!」
――!!
胸の奥まで突き刺さる言葉だった。
命を落とすよりは、惨めであっても生きている方がいい。それはわかる。
でも、竜は、サベージブラックは、そんな生易しい条理で生きてはいないんだ。
胸を張って誇りある生き方ができなければ、生きている意味がない。
それが闘争本能の塊である、サベージブラックの生き様なんだ。
僕たちが納得するかどうかなんて、竜の摂理からすればどうでもいいこと。
アディンは決闘を受けた瞬間から、すべてを覚悟していたんだ。
「アディン、負けるな……。勝て、絶対に勝て!」
「アディン。頑張って……!」
もう僕たちにできることは、歯を食いしばって祈ることだけだった。いや、最初からそうだ。親である僕たちだけが、わかっていなかったんだ。
ディバとトリアも、うなり、尻尾を打ち鳴らしたりして、何かをこらえている。
「大丈夫、アディンなら……。あのストームウォーカーだって倒したんだ。必ず勝てる」
アルルカが願うように言った。
その直後。
ギャアアアアアアアアアア!
聞きたくない絶叫が僕らの体を揺さぶった。
黒竜がアディンの首に、ついに食らいついていた。
ずらりと並んだ牙の隙間からは、よだれに交じっておびただしい量の黒血が流れ落ちている。
「ああっ……!」
絶望の声がもれる。誰からだったか。僕からだったか。
それでももがき、懸命に爪で抵抗してくるアディンを、黒竜は、首を大きく振り回して投げ飛ばした。
積雪の波を起こしながら転がっていくアディンに対し、さらにもう一度首を旋回させる。
その口からは、黒い火の粉が散っていた。
や、やばい……!!!
――バアアアアアアアアオオオオオオオオ!
雪原を黒い炎が走る。
熱波を浴びた雪は溶解することなく、まるで枯れ木のように燃え上がった。
一切のまぶしさを持たずに猛る漆黒が、倒れたアディンに迫り、直後。
爆轟。
巻き起こる黒粉塵、暗く燃える雪片。
衝撃に押し飛ばされるのを耐える僕に、何かが風を切って迫る音が届く。
すぐそばに突き立ったのは、黒い角だった。
半ばからへし折れ、血にまみれた、アディンの片角――
ディバとトリアが、吠えた。
次回、約束された名勝負。『ゼロの軌跡』




