第二百七話 どうでもいい!
グレッサリアの外壁を越えて、雪原に飛び出た先に、スケアクロウはいた。
ヤツはもう逃げてはいない。こちらを向いて立っていた。
白と群青と黒に彩られたうら寂しい景観の中で、スケアクロウを取り巻く色が一際陰鬱で、濃かった。
「俺は……」
ヤツは、赤錆びにまみれた声で、初めて自分を呼称した。俺、と。
「おまえ……が不愉快……だ」
飾らない感情論を突きつけられたことで、スケアクロウが持っていた異物感と、薄暗い神秘性が薄れていく。
少しずつ見えてくる。
こいつは、ただの、こいつだ。
何一つ不可解な部分などなく、つまらない感情を吐き、明確に快不快を持つ、僕らと同じ生命体だ。
近づいていると感じるのは、僕が生身を得たからか? ようやく、理解した。
そう思考した直後だった。
「――――ッ!!??」
スケアクロウから猛烈な闇が広がり、こちらの背後までを飲み込んだような気がした。
――!? ――??? ――!! ! !!!
小雨■降ル
■■■失■苔むし■神殿
■■ガ手入れ■■■■庭木■今ハ■■果てルばかリ
ここニはもウ■■イナい
■■しい
■■シい
どうしテ■■■ことニ?
■は歩■
フと気配■■ジる
■■ハ■■■■■ノ部屋
扉を開ける
■ノ中に黒い塊が■タ
■が近■■ト■■は■■を開ケ■
見ると■■ハ
右■ガ無■
左■が■■
■眼■■い
■と■■ガ■■
彼女■言ウ
「■■様、■いところ全部■■■よ……」
「だから■して……」
ウウうウゥアがああ、ああああアアア――ガアァアアアアアアアアアア!!!???
荒い息が聞こえた。僕だ。
僕は今、何を、見た?
何かとてつもなく悲しくてつらいものを見せられた――でも思い出せない。
何度も瞬きする。視界がにじんでいた。何で、僕は泣いてるんだ。わからない。
わからない。わからなすぎる、が。
「できることが、あっただろうがッ……!」
不意に、絶叫が僕の腹の底からほとばしった。
「小さなことで、十分だっただろうがァッ!」
スケアクロウの陰影がわずかに揺らいだ気がした。
僕は何を言ってるんだ?
だけど、そのたった二つの言葉で、僕の心は目的を果たしたように落ち着いた。
苛立ちに震えていた体の線が定まり、すべての疑問やためらいが頭の中から消えている。
残ったのは、ただ一つの納得。
きっと、さっき見せられた何かが、スケアクロウを憎む本当の理由だった。挑みかからずにはいられない真の理由だったんだ。
何か途方もなく悲しくて、切なくて、やるせないもの。その感情の矛先としてヤツがいる。
それはきっと正当な行為じゃない。
ヤツにはヤツの言い分がきっとある。
けれど僕自身が言っている。こいつと戦うことは、僕にとってまぎれもない正義だと。
もう畏れない。
こいつはそんな神秘の存在じゃない。
重力さえ伴う威圧感や異様な存在感など、謎からくる僕の単なる思い込み。
不可解な強さにおののく必要もなければ、間違っても、憧れることなんてない。
こいつはもっと無様で惨めな、どうしようもない一人の最低野郎だ。
追いかけることも、想うことも、脅かされることも、金輪際ない!
右手を兜の正面装甲に重ねる。
つい先日の仲間の声が蘇った。
――「騎士殿は、ナグルファル号の初期不良のこと覚えてる? そう、材質によって古代ルーン文字の記述を微妙に調整しなきゃいけなかったのに、ボクがそれに思い至れなかったこと」
――「あの技術を、騎士殿のルーン文字にフィードバックできるようになったよ。ボクの技がどうというより、騎士殿が受肉したことが大きいかな。古代ルーン文字は、使い手によっての微細なカスタムまで可能なんだ」
――「発動キーは右手に仕込んでおくよ。第二のルーンバーストの発展形。強化量も稼働時間も大幅に増す。でも反動も大きいから、どうしてもその場でぶっ飛ばしたい相手にだけ使って。やり方は――」
右手で、顔を思い切り引っ掻く!
指先に込められていたルーン文字が兜の装甲板に五本の線を描き、その直後に鎧を覆っていたすべての文字列を変形させ、連結させ、統合させた。
兜の牙模様が開門し、獣の息遣いのような青白い煙がもれる。
顔部分のプレートには吊り上がったひし形の目が六つ輝き、そこから炎を噴き出した。
第二のルーンバーストEX。
後先無用の必殺“獣躙モード”!
「おまえを追うのも今日で最後だ! 今日こそ僕はおまえを追い抜いていく!」
蹴った地面が爆砕し、踵から噴き出した蒼白の燐光が僕の全身を前に突き出した。
探り合いの間合いは一瞬でゼロになり、こちらの超速に対応したスケアクロウのアンサラーがカルバリアスと激突して、足元の雪をドーム状に浮き上がらせた。
「ううう――おああああああ!」
渾身の力を込めたカルバリアスを乱打する。
魔力文字の伝導を受けた聖剣が青白く輝き、空間を切り裂くような太刀筋がいくつも流れて、スケアクロウの剣の前で飛び散った。
斬撃を弾き合う中で大剣アンサラーが引く動きを見せる。
反撃が来る!
これまで幾度となく見せつけられてきた剣筋。地表をすべて薙ぎ払う暴風のような一文字斬りを、僕は地に伏せる獣の姿勢でやり過ごした。
そのまま足元をすくう最下段斬りを撃ち放つ。
斬軌道上にあったスケアクロウの右足が浮いた。
剣が素通りする絶妙のタイミングで、ヤツの足が振り下ろされる。こちらは低姿勢とはいえ、わずかについた角度は、立てかけた木の棒を足で踏み折る形を想起するに十分だった。
スケアクロウの靴底がカルバリアスの横腹に重なった瞬間、僕は剣を手放し、叫んだ。
「アンサラー!」
ほぼ無意識の反応だった。
狙いは大雑把だったけれど、重心を一気に右足に傾かせたスケアクロウの意表をつくことには成功する。
魔法弾を腹と背中にかすめさせながら、黒騎士の重厚な鎧が素早く飛びのいた。
体勢を毫ほども立て直されれば、いかに衝撃半径が強化されたアンサラーの弾丸も、ヤツの横を素通りするそよ風と化す。
二射でアンサラーを投げ捨て、物質化を解除させると、僕はすぐにカルバリアスを拾い上げてスケアクロウとの間合いを詰めた。
こいつに克つには、型は無用の長物だった。
剣の振り方。当て方。間合いの取り方。殺し方。全部ヤツの方が上手い。
渾身の一刀も、意表を突いたビハインドブリットも、それが“技”として成立する以上すべて対応される。これまでの戦いで嫌というほど思い知らされた。
だから剣と剣ではなく。
騎士と獣の戦いに持ち込む。
再びカルバリアスとアンサラーの刃が噛み合う。
接触地点がじりじりと火花を散らす中、僕は左手で左足の腿を撫で、スケアクロウの肩を掴んだ。
轟音!
左腿に仕込んだ爆発と轟音のルーン文字を左手に移しての即時起爆。
右側頭部でもろに受け、わずかに足元をぐらつかせたスケアクロウの隙に、僕は聖剣を全力一閃させた。
金属を削る硬質の音が響き、スケアクロウの重鎧に分厚い傷が走った。
――!!
初めてヤツに傷をつけた。
スケアクロウに動揺は――ない!
今の一撃に力を込めすぎ、引き戻すタイミングが一瞬遅れた。スケアクロウが両手持ちにしたアンサラーの切り上げと切り下げの二連撃は、美麗なほどコンパクトで素早く、ルーン文字の炎に彩られる僕の鎧に二本の縦線を刻み込んだ。
だが、浅い。後退がすんでのところで間に合っている。新たなルーン文字の力は、こいつに引けを取っていない!
「まだまだァ!」
カルバリアスで斬りつける。
スケアクロウの鎧に新しい傷が穿たれる。
スケアクロウが斬り返す。
僕の鎧にも新しい傷が走る。
こいつ……!?
防御してこないつもりか!?
「おまえが……不愉快だ……」
スケアクロウが重く軋む声で言う。
暗く燃える熾火のような強烈な感情の発露。
「僕もおまえが嫌いだ!」
負けじと腹の底から言い返す。
こいつと僕には、余人には理解不可能な関係がある。それが何なのかは正確にはわからないけれど、決して逃れ得ないほど根深く強固な因縁がある。
こいつが帝都をグレッサリアそっくりに作ったのも、あの寂しい神殿の夢も、僕がさっき見せられた覚えていないけれども泣きたくなるような何かも、きっとそれに絡んでいる。
それに引っ張られ、僕はスケアクロウを拒絶する。
ヤツにもそれと同じ何かがあるのか。僕を拒絶する何か。頭ではなく体が理解する理屈。脳ではなく神経が思考する激情。それが。
でも、それでいいのか?
こんなに全開で、こんなに渾身なのに、こんなに意味不明なままで。
因縁に引きずられたままで。
納得はしている。でも、それは納得させられているだけだ。
ここにいるのは、誰と誰だ?
乱打戦になった。
技と技のぶつかり合いでもなく、力と力でもなく、意地と意地ですらなく、ただ鉄と鉄の衝突。火花はいつしか爆光になり、轟音は衝撃波となって雪原をめくりあげる。
「うううおおおおお!」
カルバリアスとアンサラーを鍔迫り合いに噛み合わせたまま、僕は左拳でスケアクロウをぶん殴った。火の粉が飛び散る。
「だけどな!」
僕は叫ぶ。
一瞬ぐらついたスケアクロウが、すぐに殴り返してきた。熱と共に世界が揺れる。
「だが……!」
スケアクロウも叫び返す。
互いの得物にかかる圧力が一瞬消え、僕らは同時に剣を引き、技巧もへったくれもない次撃をぶつけ合った。
六つ目の獣面と、怒号の鉄面が間近でにらみ合う。
「それもどうでも――」
「いい……!」
この戦いは、誰のものだ?
ここにいるツジクローと、スケアクロウのものだろ!
力と力で剣を弾き合う。感情と感情で互いを弾き合う。
刹那の離反。その隙間は、すぐに次の激突で埋められる。
身に覚えのない複雑な因縁なんか、知らない。
僕だって何度もこいつと戦ってきた。そして負けてきた。
こいつと戦う理由は、僕にだってもう十分にあるんだ!!
「おまえが、」
僕がカルバリアスを叩き込む。
「死のうが……、」
スケアクロウがアンサラーを打ち込む。
「生きようが、」
斬撃。
「そんなものは……、」
重撃。
「クソほども、」
閃撃。
「知ったことか……!」
砕撃。
「僕はただ!」
爆撃。
「おまえを……!」
轟撃。
「前のめりに叩き潰して!」
火花。
「上から見下ろし……!」
風圧。
「おまえの負けだと!」
激震。
「言いたいだけだ……!」
ガツッ! と互いの肩の上に刃が叩きつけられる。
破断力のない、鈍器のような一撃。
「ツッッッ!」
「……!!」
追撃は、ない。
切り倒すのではなく、そこから相手を押し潰すための力を込める。
「這い――」
「つくばれ……!」
うなるような声を重ね合わせる。
凄まじい圧力だった。まるで肩に巨人が手を乗せているかのようだ。
これだ。これがヤツが持つ異様な力。膂力という枠を超えた非物理の加重。こいつが背負ったあらゆるものの重みのような、そんな圧。
だが負けない。絶対に負けたくない……この重さにだけは!
「ぬあああああああ!」
「おおおお!」
僕の上体が徐々に沈んでいく。
だがスケアクロウの上半身も同じくらい下がっていく。
――――!
いかなる不条理な力の作用か、僕とスケアクロウの体は同時に地面に叩き潰れた。
『……!!』
僕はもがきながら立ち上がる。一瞬でも、一刹那でも早く。
ヤツの無様を見下すために。
だから、
「僕より先に――!!」
「俺より先に……!」
身を起こした時、まるで鏡写しのように相手の顔が間近にあるのを見て、僕らは叫んだ。
『立ち上がるなあああッ!!』
直後に、怒りに任せた横薙ぎの一撃。
腰も脚も入っていない腕だけの力は互いの剣を無様に弾き合い、遠くへと手放させる。
「――だあああ!」
弾かれた力の向きとは逆回転の拳が再び互いを捉え、吹っ飛ばした。
雪を蹴散らしながら転がって転がって、ようやく止まった先に、巨大な剣が突き立っていた。ヤツの異形のアンサラー。
僕は躊躇わずにそれを引き抜くと、スケアクロウに向かって走る。
「これじゃ……ないッ!」
思い切り銃剣アンサラーを投げつける。
「これは、おまえのだ……!」
スケアクロウもこちらに向かって走り込みながら、カルバリアスを投げ返してきた。
二つの刃がくるくると回転しながら、まるで慣れ合うように火花を散らしてすれ違い、離れ、互いの手元に戻る。
己の愛剣を手に。
己の叫びを空に。
『うううおおおおおガあああああああああああああああ!!!』
そして僕らの距離はゼロになる。
文章でナンセンスな殴り合いを書いてみたかった。




