第二百六話 クロウ
裏口横の壁に張りつく僕の中で、心臓が冷たく脈打っていた。
ディノソフィアは確かに、黒騎士を「クロウ」と呼んだ。
九郎。それは僕の名前だ。
苛立ちに泡立つ頭の中で、その意味を必死に分解する。
同じ全身鎧騎士姿。
アンサラーという名前の武器を持つ。
顔は見えず。
そして同じ名前……。
この一致は偶然のものか?
いや、これくらいならありえるだろう……。絶対ないとは言い切れない。
違う点だってあるはずだ。
体格は……実はよくわからない。黒騎士は鎧の分厚さと威圧的な気配のせいか、その実体をいまいち把握できていない。
声は? 声もよくわかっていない。錆び付いたあいつの声は、元がどんなだったかわからないくらいざらついているからだ。
しかし、腕前。これは明確に違う。
アディンとパスティスの協力があっても一蹴された。実力差はかけ離れている。
鎧の形もアンサラーの機能も違う。
僕はルーン文字の加護を持っているけど、あいつは帝国の鎧でドワーフ好みの重装甲。
僕のアンサラーは長銃。あいつのは、銃と剣の変形機構付き。これも別物だ。ドルドが改造してやろうかと言っていたけど……。
世界を救うという役目だって果たしていない。むしろ立場的には逆だ。
だから、あれが辻九郎であるはずがない。
でも、会うたびに挑みかからずにはいられなかったのはなぜだ? 不自然なくらい。この苛立ちもそう。どうして……?
――自分は、世界に二人もいらないから?
そんなことがあるかよ……!
僕は奥歯が痛くなるほど歯を食いしばった。
ざらりと音がして、地面に何かが投げ出されたことを察する。
「魂の化石か。これほどの純度のものをよく集めたものじゃ。またわしに納めに来たのか? 契約の延長のために? あるいは、そちらの方は失敗したのでわしにだけ“続けろ”という腹かな?」
魂の化石とは、アノイグナイトのことか。
黒騎士がアノイグナイトを集めていたのは、ディノソフィアに献上するためだったのか? ディノソフィアと黒騎士は繋がっていた……? しかも契約の延長だと? 失敗? 続けろ? 何のことだかわからない……。
「存外律儀なヤツじゃ。が、こんなものをいちいち持ってこなくとも、おまえとの契約をこちらが一方的に破棄することはない。そもそもわしから言い出したことじゃからな。ふふん、それとも、互恵関係のつもりかな? そんな姿になり果てて、心があるフリをするのは得意なようじゃな。“スケアクロウ”よ」
「――!!!」
スケア、クロウ……?
スケアクロウ。
スケアクロウ!!
僕の体から、数キロ分にはあろうかという緊張が、煙のように抜けていった。
スケアクロウ! これだ。これがこいつの本当の名前!
さっきは途切れ途切れで前半部分が聞き取れなかったんだ。
スケアクロウ。ツジクローじゃない!
何だよまぎらわしい名前しやがってよおおおおおおおおおおおおおおお!
どういうことか思い切り悩んじゃったじゃねえかよおおおおおおおおお!
しかも、九郎脅しだと……? 言いえて妙な名前じゃないか、ええ?
確かに、おまえは色んなところでチラチラ出てきて、僕をビビらせてくれたよなあ。
疑念が晴れた途端、胸の奥から真新しい苛立ちが沸き上がってきて、僕の体をためらいなく裏庭へと押し出していた。
「アンサラー。動くなよ」
物質化したアンサラーの銃口を差し向け、僕はスケアクロウを見据えた。
のどかな神殿の裏庭に似つかわしくない異物感を放つ黒騎士が、悪魔と向かい合って屹立する。
その突出した分厚い気配は、積み上げられたレンガブロックを尻に敷いて座っている悪魔ディノソフィアすら凌いでいた。
足元には、口からアノイグナイトを溢れさせて転がる麻袋。
想像したとおりの光景。
「おかえり、騎士」
ディノソフィアが緊張感なく笑った。
スケアクロウは無言。首一つ動かしてはいないが、怒りの面を持つ兜の奥から漂ってくる気配が、僕の肩を捕らえて重くする。
相変わらず、異様なまでの重圧感。負けじと声を出す。
「人の家に忍び込んではいけないって、王様に教わらなかったか黒騎士?」
「人の家か」
ディノソフィアが横でくすくす笑う。ほっとく。
「スケアクロウって名前だったんだな。ディノソフィアの部下とはね」
スケアクロウに問いかけたつもりだったが、答えたのは悪魔の方だった。
「だいぶ前に一人でうろついているのをわしが拾って、加護を与えてやったのじゃ。女神だって騎士を持つ。悪魔が騎士を持ってもよかろう?」
「悪魔の騎士ってわけか。道理で……」
異様な気配。並々ならぬパワー。悪魔から力を得ていたというのなら腑に落ちる。
案外、僕が攻撃的になるのも、知らず知らずのうちに、こいつから神敵の気配を感じ取っていたからなのかも。
何だ。わかってみれば、不可解なことなんて何もないじゃないか。
それにしてもディノソフィアは、名前といい、騎士といい、とことんリーンフィリア様に当てつけるようなことが好きらしい。
「おまえの目的は、世界を滅ぼすことか?」
スケアクロウは答えない。
「おまえは帝国の生き残りなのか? それとも、鎧を着ているだけで中身はまったく別物か?」
スケアクロウは答えない。
「この街の形が帝国と同じなのと、何か関係があるのか?」
スケアクロウは――
「ふふっ。あはははは!」
やはり答えなかったが、代わりにディノソフィアが腹を抱えて笑いだした。
「何だよ。うるさいぞ」
僕がたしなめると、彼女は足をばたつかせるのをやめ、
「ツジクロー。おまえ勘違いをしておるよ」
……ん?
今、スケアクロウが少し反応したような……。気のせいか?
「勘違い?」
「そやつは帝国の鎧を着ているわけではない」
「何? どう見ても帝国騎士の鎧だ。おまえも王宮で見たことあるだろ。前の戦いで」
「逆じゃよ。帝国が、そやつの鎧を着ているのじゃ」
……え?
何だそれ。どういう意味だ?
「帝国は、おまえが創ったんじゃよなあ、スケアクロウ?」
ニタリと笑ったディノソフィアの言葉に、僕の理解が一瞬飛んだ。
帝国を、こいつが創った……?
「帝国騎士の鎧は、そいつを真似て作ってあるんじゃよ。順序があべこべじゃ」
「……! ……!? ……!!!???」
何だ? 何だ何だ何だ?
僕は今、とんでもないことを聞かされている。
こいつが帝国の創始者?
「まさか、初代の皇帝……?」
「いいや。国の基礎を作りはしたが、帝位には就かなかった」
話しているのはディノソフィアばかりで、スケアクロウは一言も口を利かない。だが、否定の気配もない。果たしてこれは本当のことなのか?
「待て。国の基礎ってことは、ひょっとして帝国の町並みも……?」
「こやつがここから図案を持ってきたのじゃな」
そうだったのか。だから二つの街は瓜二つだったのか。だとしたら、ここであの情報が活きてくる!
「グレッサリアは街自体が古代ルーン文字の魔法陣だ。帝国にそれと同じものを作って、契約の悪魔を呼び出させたのか? 前の戦いは、おまえが仕組んだことだったのか!?」
巨大な魔法陣の中央に立つ王宮で、皇帝は契約の悪魔を呼び出し、そこから世界の終わりを始めた。
わざわざこの街を見本に帝国をデザインしたというのなら、最初からそれが目的だったと考えてもおかしくない!
「答えろスケアクロウ!」
焦る僕に、どこか空とぼけた声が返る。
「為政者というのは代を経るごとにどうしてああも激しく劣化するのかのう。当初の志は忘れ、やがて民のために、次は国のためにと言いだし、最後は己の保身のためにまで落ちぶれる。おまえも、人があそこまで愚かだとは思っていなかったのではないか」
「ディノソフィア、おまえは黙って――」
「それが人だ……」
ぎしりと、錆びた鉄同士がこすれ合うような声で、スケアクロウが言った。
僕は思わず追及の言葉を飲み込む。
「技法や知恵は伝わっても、意志は繋がらない。それが人の限界だ」
諦めのような、見限りのような、空疎な口調だった。これほどはっきりと感情を見せてしゃべったのは初めてか。
ディノソフィアが笑う。
「だから捨てたか? 創国に尽力したわりに、あっさりしたものじゃったな。いや、損切は慣れたものか。おまえが離れなければ、あるいは、あの男の自国を巻き込む大がかりな自殺劇は起こらなかったかもしれんぞ。まあ、それでもおまえの目的が果たされることはなかったろうが」
捨てた。帝国を?
じゃあ、あの戦いには関わっていない?
こいつにとっても悪魔召喚は予想外のできごとだったのか?
それに、目的だと?
そういえばさっきディノソフィアは、スケアクロウが何かに失敗したようなことを言っていたような……。こいつの帝国を使った目論見は、以前の戦いより前に、すでに失敗しているのか?
「おまえを拾ったのも、確かそれくらいの時期じゃったよな。黒騎士」
……?
ちょっと待て。今の言い方は変だ。
帝国の歴史は、人の国としてはかなり長いはず。
さっきの話の流れからすると、スケアクロウは建国に立ち会い、それから何世代分、長くて最後の皇帝まで帝国と関わっていたようだ。
その後、ディノソフィアと会って、悪魔の騎士になったとしたら……。
こいつ、どれだけ長寿なんだ?
僕はてっきり、悪魔の騎士になって長寿を得たから、国を作ってなおかつその後も生きられたのかと思っていた。女神の騎士が歳を取らないように。
でも違う。こいつは元々、人間とは比較にならない寿命を持っていたんだ。
エルフ……? いや、でも、声は多分、男だ。ドワーフ……の体格でもない。
じゃあ一体、こいつの中身は?
わからない。せっかく名前と素性が割れたのに。
こいつの正体にはまだ続きがある。
分厚い装甲板に鎧われ、歩く砦のような帝国騎士の体が、一回り不気味に膨らんだ気がした。
「それで、話してはやらぬのか? 内心、こやつらの進撃速度に驚いておるんじゃろ?」
からかうような声が伸び、スケアクロウの鎧の表面に小さな波紋を作ったように見えた。
「天界に対してあれだけ好き勝手に振る舞っておきながら、こうまで早くこの土地にたどり着くのは、おまえの話にもなかった。予定を狂わされて業腹であろうが、端倪すべからざる早さであることは確かじゃ。わしは認めてやった。おまえも、驚かせてくれた褒美に、何か教えてやったらどうじゃ?」
無言の圧力がディノソフィアに向かったのがわかった。が、彼女はいつも通り飄々と笑うだけで、むしろそのスケアクロウの不満な態度をこそ楽しんでいるようだった。
「……時間は問題ではない。いずれ……無駄な足掻きだ……」
スケアクロウの気配がこちらに向き直る。
……!?
急に体が引っ張られる感覚。いや、違う。足は動いてない。
鎧の中身が、僕が?
何かのイメージが頭の中で弾ける。
小雨。
荒れた神殿。
いつも見ている夢だ! 何で今!?
枯れた庭木。
誰もいない。
寂しい。悲しい。そして、悔しい。
扉。
開けた先には――
「アン……サラー……」
錆びた声がそう言うのが聞こえ、僕は意識の自由を取り戻した。
こいつッ……!
スケアクロウの背に、大剣型のアンサラーが実体化するのを見ずに、僕は聖銃の引き金を引いた。
わけのわからない幻覚にほんの一瞬だけ対応が遅れたものの、かつてない近距離。防御は間に合うはずもない。
それでも、背中に手を回したスケアクロウが、光条の先端を神速の上段居合いで地面に叩き伏せるのを、僕は刹那の世界に見た。
これまでで最速。爆音と光が裏庭の雪を盛り上げ、弾け散らす。
こいつ、今までまだ手を抜いてたってのか?
「待て!」
雪煙から躍り出て街を駆けていくスケアクロウを、僕は必死に追いかけた。
これまで一瞬で掻き消えていた姿が、今日に限っていつまでも視界の中に納まっている。
それを見るたびに胸がざわつく。イメージが浮き沈みする。
小雨。神殿。苔。扉。悲しみ。怒り。クソッ、何だこれは!
僕が生身を取り戻してから何度も見る夢の断片。
光景がまたたくのに合わせて苛立ちと憤懣が激しく上下する。
スケアクロウに会うたびに感じていた憤りの理由――正体は、この光景だったとでもいうのか?
しかしこれが何だっていうんだ。今はどうでもいいだろ! 敵は目の前だ、しっかりしろ!
頭を叩いた。
少し冷静になれた気がした。
スケアクロウは消えていない。
多分、僕を誘い出している。
ヤツもきっと、いい加減うんざりしてるんだ。見かけるたびに噛みついてくる野良犬に。
今日で終わりにしたいのだろう。
改めて見つめ直す帝国黒騎士スケアクロウの素性。
ディノソフィアと契約を結んだ、悪魔の騎士。
その強さの秘密も、僕が一方的に敵対する理由も、わかってみればどうってことない。
こっちは女神側。あっちは悪魔側。近づけば火花を散らし合うしかない電極みたいなもの。それだけ。しっくりきすぎて、逆に拍子抜けするくらいだ。
こいつからはもっと、得体のしれない不気味な重圧を感じていたんだけど、それも結局は悪魔の気配ということだったんだろう。
筋の通った綺麗な一本道。そういうことだ。ツジクロー。
何も不思議なことなんてない。納得だろ。
………………。
「《いや》」
《「違う」》
違う。
何か、違う。
そういう、誰からもわかるようなお綺麗な理屈ではない何か。
光と闇じゃなく、正義と悪じゃなく、神と悪魔でもなく、もっと原始的で、根源的で、原理的な部分が衝突する馬鹿げた泥仕合を、僕はしようとしている。
どうして?
何で?
わからない。これから戦うつもりなのに、わからない。
でも、そんな低俗で低劣な憎しみ合いで十分だという気もする。
その程度のものだという突き放した割り切りが、なぜか僕の中にある。
僕はつい最近名前を知られ、おまえも今日、僕に名前を知られた。
これも一つの縁だ。
ここで決着をつける。
スケアクロウ:かかし
※お知らせ
何だかややこしいことになっていますが、次回投稿は明日です。
ストックもできたし、ちょっとくらい隔日投稿崩しても大丈夫やろ……。




