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第二百五話 奈落にて

 ここまで身近にありながら、〈コキュートス〉を直に見る機会というのはなかった。


 強壁に覆われ、本来は狩りの時間にのみ一部を解放し、コキュータルという資源を街に放出して、都市エネルギーを供給する巨大な井戸。

 すべては街の繁栄のためにある――というこれまでの常識が、今、じっとりと逆転の兆しを見せている。


 街のすべてが〈コキュートス〉のために存在する。グレッサの民は、一晩で仕事を終えてくれる靴屋の妖精のようなエンジニアにすぎない。そんな可能性だ。

 果たして、この街と大穴の本当の関係とはどういうものなのか。


〈コキュートス〉近辺は立ち入り禁止となっていた。

 壁の出口は壊され、コキュータルは出入り自由の現状。カンテラの機能があっても、間近に迫られたら効果はない。接近を制限するのも当然の措置と言える。


 僕らもここでドンパチやるつもりはなかった。アディンに乗って空から近づく。

 普段より人数が多いので、僕の後ろにマルネリア。パスティスの後ろにカルツェが騎乗した。


 上から見た内壁は、四角い形をしていた。

 四隅に監視小屋があり、今は無人だけど、かつてはここから〈コキュートス〉の状態を見張って、鐘を鳴らすタイミングなどを決めていたのだろう。


 僕らは監視小屋の屋根に降り立った。

 雲が地上より近くに、風がさらに冷たく感じられた。


「これが〈コキュートス〉……」


 つぶやいて、下を見つめる。

 直径一キロはありそうな大穴が、確かに街のど真ん中を貫いていた。

『Ⅰ』のラストステージである〈蒼い荒野〉の亀裂を思い出させる重く深い闇が、穴の途中から湖面のように揺らめいている。


 その水面に映るのは、鬼火のような蒼い灯。

 いずれも這い上ってこようとするコキュータルの心臓。今この瞬間に縁に到達した者もいた。ただ、その数は決して多くはない。コキュータルのすべてが地上に這い出てくるわけではなく、中には穴にとどまっているのもいる。


 まるで地獄とこの世を繋ぐ通路のようだった。

 現実のものとは思えない光景に、ただただ立ち尽くす。


〈コキュートス〉とは。コキュータルとは一体何なのか。

 この穴はどうして生まれた。

 この穴の底にはどんな世界が広がっている。


 悪魔のいる世界なのか。

 それとも冥府の入り口か。


 こんなに身近にありながら、僕らは何一つわかっていなかった。

 そういうものだと受け入れて、細かく分析する余裕すらなかった。

 僕らはケーキの入った箱をかじるばかりの蟻のようだ。


 そんなことを漠然と思い、言うべき言葉を見つからないでいた時だった。


「静かじゃろう」


 突然の声の闖入に、僕らは揃って振り向いた。

 バルバトス家の家長アンネが、年相応に背を丸めてそこにいた。


「婆様。いつの間に」


 カルツェが少し焦りながら問うと、


「最初からおったぞ。小屋の中にな。時々のぞきに来ておるんじゃよ。何しろ、西部にはまともな血統家が残っておらんからな」


 本当か……?


 僕は視線だけでパスティスに問いかける。彼女は小さく首を横に振った。「誰もいなかった。気配はなかった」そう言っている気がした。

 だったら、どこから現れた。ついさっき、この壁を駆け上がってきたとでも?


「〈コキュートス〉の見学に来ていたんだ」


 マルネリアがこちらの意図を少し明かした。嘘は言っていない。

 アンネは無害そうな笑みを浮かべると、


「ここから見ている分には、まるでメダカが泳ぐ池を見ているようじゃろう。コキュータルたちが整然と這い上がり、出てくる。物静かで、静謐でさえある」


 その感想には同意できるものがあった。

 騒乱も障害もなく、コキュータルたちは粛々と地上に出てくる。

 その淡々とした様子がかえって怖い。


 アンネは、僕たちにグレッサリアの秘密を話すだろうか。

 ラスコーリとは違うスタンス。リーンフィリア様を弑天と会わせたのも彼女だ。


「この穴はいつからあるの?」


 マルネリアの質問に、アンネはどこか鋭さを秘めた眼差しで答えた。


「〈コキュートス〉に何か疑問があるようだね。ただの物見遊山じゃなさそうだ。一つ、行き着くところに行き着いたということか。そうか……」


 アンネはその場に腰を下ろすと、すっと手を後ろに回し、キセルを取り出した。

 表面には古代ルーン文字が刻んであり、彼女が触れた途端、先端の火皿から細い煙が上がり始める。

 不思議と臭くない。瑞々しい木の匂いがした。


 これは、長い話になりそうだ。でも、とても大事な。

 いよいよ、聞けるのか。この街の大きな秘密を。


「始まりは、そうだね。〈決別の季節〉あたりかね」


〈決別の季節〉? 何やら意味深な……。


「すべては〈ナダルの酔狂〉と“バックローダー”とのサーキュリングから始まった。【ハングドロス・ネメシリウス】の騎士どもが《ミドル・ゾネア・ラ・フシス》への攻撃を決意した時からどのみち退路はなかった」


 えっ!?


「あ、あの……」

「そうだよ騎士殿。お察しの通り、所詮[オシス・カタストロフ手記]にあった手慰みにすぎない。つまり(歪められた骨格群)と同じ。ただ、それを救世と呼べば{ヤツら}も黙っちゃいなかった。ただまあ、コラシス値のステージにおいては、ロウエンドと定義された最下層集団の非現実的なアプローチにすぎなかったことに変わりはない。そうだろ?」


 ど、どうしよう……。


 何一つわかんねえ……!!


「アンネ、ちょっと待って……」

「ああ、わかってる。〔オベリスク・エム・ニルムスの薄布〕と名指しされたもので結論を急ぎするのは大抵悪手だ。わし個人は〝デミニオンの時計〟とでも呼ぶべきだと思ってる。ああ、〝デミニオンの秒針に追われし者ども〟か。これを軸に一連の事象を捉えれば、誤差は立ち位置程度の違いに――」


 あああ止まらねえ!

 やべーよ、何だこの話!? 何一つわからない!


 スタイリッシュ言語かこれ!? ルシがファルシしてコクーンが高貴!

 全然話の中身が伝わらない!


 ご丁寧に鍵括弧すら一個一個形が違う!

 どうしてこんな……。


 ハッ!? まさかこれがアンネのセントラルな性癖なのか!?

 アンネこそマジのガチ勢かと思ってたけど、腰を据えてしゃべりだすと出てくるのかその病が! こ、こんな重要なところで……そんなあ……。


「おっと、少し話がそれたね。ただ、このメインストーリーには三層ある脇道の理解が必須だと思ってね……」


 どうしよう……。何か重要なことしゃべってるのかな……。聞けないとまずいよな……。


 僕は仲間をちらりと見やる。

 パスティスとアルルカは見るからに聞いてるふりをしている顔だった。時折、どちらかがうなずくと、慌ててもう一人もこくこくうなずいてる。


 頼みの綱はマルネリアだけど、彼女も真っ青だ。

 理由はわかる。


 未知の言語を解読するにおいて、その定石的初手は、文章に何度も出てくる単語を探すことだと、マルネリアは僕に教えてくれた。

 その単語を追ううちに、それがどんな性質なのかがわかってくるという。


 だが、恐ろしいことに、アンネはこれだけべらべら話しておきながら、同じ単語が二度と出てこないのだ。もはや鍵括弧も限界を超え、「†」とか「xXXx」まで使い始めている。


 これでは何一つ解読しようがない。


 ど、どうしよう。このままだと、大事な話を全部聞き流すことになる!


「婆様、婆様。何を言ってるのか不明」


 ここでカルツェが声を上げてくれた。助かった! 終わったかと思ったよ!

 するとアンネは小さく舌打ちし、


「参ったね。若者の言葉の乱れってやつかい。最近の子供が使う言葉はよくわからんね……。ラスコーリにゃこれで通じるっていうのに」


 違うよあんたの世代が乱れてんだよ!!

 なかなかねえよ年寄りの言葉遣いの方がカオスな社会は!!


「普通に言ってくれないかな……」

「わしは普通にしゃべってるつもりだよ。他に何て言ったらいいかわからんね」


 もうダメだァ……。


 あ、ラスコーリに通訳させるってのは……?


 それもダメだァ。あの爺さんは話をはぐらかしそうだし、下手すると、実は全然わかってないのにわかってるフリしてた可能性すらある。


「まあ、〈コキュートス〉がいつからあるのかってのは、ちょっと知らないがね」


 ナウなヤングが聞きたかったのはそれ――――ッ!


 じゃあ今まで一体何の話をしてたんだよ相当長かったぞチクショウ!?

 こうして、僕らの大発見は、重力を自在に操る高貴な言語ッシュによってうやむやのまま霧散していったのだった……。


 ※


 くそー。

 何か重要な真実に迫れそうだったのに、結局また考察止まりだ。


 神殿に戻るなり、僕は胸中で毒づき続けていた。

 まったく腹が立つ。イライラする。もう少しでわかりそうだったのに。


 僕がせっかくこの街と帝都の類似性を発見したっていうのに、どうしてそこから広がらないかなあ。マルネリアも、ほかのみんなももっと色々考えてくれたっていいのに……。


 ……。

 ……。

 ……。

 は!?


 ツジクロー、おまえ今何つった!?

 仲間が悪いみたいなこと考えたか?


 何言ってんだおまえ。みんな悪くないだろこのアホボケカスドジマヌケ……って、おいおいおい、待て待て待って!


「何だ……?」


 僕は壁に肩を押し付け、手で顔を覆った。


 何だこれ。

 滅茶苦茶イライラしてる。自分でも理解不能なくらい。


 え、何で? 何でこんなにイラついてるの?


 仮説が空振りするなんていつものことじゃないか。〈コキュートス〉から帰ろうとした時は全然こんな気分じゃなかったのに、いつの間にこんなに?


 何だろう。自分でも気づかないくらい落胆してるのかな……。


 何にせよ、悪くもない仲間に八つ当たりするなんて異常だ。迂闊なことを口走る前に、裏庭で素振りでもして頭の中を空っぽにした方がいい。そうしよう……。


 僕はラウンジを抜けて、裏口へと足を向けた。

 それまで、心はささくれる一方。本気で何かがおかしい。


 裏庭には先客がいるようだった。


 話し声がする。どうやら、ディノソフィアらしい。リーンフィリア様とでも一緒にいるのか。


 思えば、ここ数日の激動のスタート地点は、あの悪魔の登場からだったようにも思える。

 ヤツ自身はろくに語らないが、多くの因縁を鎖の束のように引きずりながらここに現れたのかもしれないと考えると、僕らが何かを知るためにディノソフィアは確かに必要な人材だった。今回のことについても、軽くふっかけてみるか。


 そんなことを思い、気楽に裏庭に入ろうとした僕は、そこにいるはずのない人影を見て、瞬間的に戸口の陰に隠れていた。


 何で!?


 僕は胸中で叫んでから、そうっと外をうかがう。

 ディノソフィアがいる。それはいい。それはわかる。

 しかし、彼女の前に立っているのは……。


 見間違えるはずもない、あの帝国騎士だった。


 本物だ。何であいつがここにいるんだ!?


 ……ぐっ!?


 猛烈な苛立ちが体中を駆け巡る。

 まるで十年来溜めに溜めていた怒りが、今突然燃え上がったようだった。

 あいつのせいなのか……? さっきから感じている怒りも憤懣も、全部。


 これまで、僕はあの帝国騎士を見るたびに強い苛立ちを覚えていた。

 でも、ここまで生々しく息苦しい怒りは今までなかった。

 何でだ? 僕が生身を手に入れたから、深く認識できるようになったのか?


 理解が追いつかずに白濁する頭の中に、ディノソフィアの薄笑いが響く。

 彼女とヤツの会話が途切れ途切れに聞こえた。


「――クロウ。何じゃ――、おまえまだこの世界に存在しておったのか――」


 …………。

 え?


 ディノソフィア、今、何て。


 九郎?


 それって、僕の、名前……?


ギャグ&シリアスさん「おれたちはどうすれば……(オロオロ)」

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