第百八十二話 羽のついたフリュート船
『交易?』
一つに重なったみんなの声の中からセルバンテスのものを拾い、僕は彼に目を向けたまま続けた。
「そう。ここと〈ブラッディヤード〉を行き来して、あっちから資材を取り寄せてほしい。ナグルファル号は商船だよね?」
「え、ええ。そうね。ヴァッサーゴ家は海運業を生業としていたから。昔の話だけど」
「どう? やれる?」
僕は念を押すように聞く。さっきまでの悲愴を戸惑いに変えたセルバンテスは、掴むべき光明を垣間見たように表情をわずかに動かしたが、やがて諦観の混じった小さな息を吐き出した。
「可能か不可能かで言えば可能でしょうけど、問題だらけよ。交易というからには、こっちからも何か品物を持っていかなきゃね。でも、今のグレッサリアに外に持ち出せる商品なんてある?」
即答する。
「水」
「み、水う?」
僕はリーンフィリア様に向き直りたずねる。
「確か〈ダークグラウンド〉の雪解け水はおいしいんでしたよね」
「え、ええ。わずかに甘みがあっておいしいです。こんな水は飲んだことがありません」
「アルルカ、ここの水はドワーフたちにウケると思う?」
「砂漠では元々水は貴重品だ。その上こんなうまいときたら、みんな喜ぶだろう」
「と、いうことなんだけど」
セルバンテスに感想を仰ぐ。
彼はあごに手を当てて思案顔になる。いつの間にか、彼からは無力感に打ちのめされた男の気配が消えていた。
「水……。考えたことなかったわ。消費するものだとばかり思ってた。水自体を長持ちさせる方法はあるけど……。それでも無理ね。ここと他の大陸はどこも離れすぎてるの。時間がかかりすぎてたどり着く前に傷んじゃう」
「〈ヘルメスの翼〉で船をぶっ飛ばすのはどうかな?」
「海の上でそんなことしたら、船体が浮き上がってひっくり返っちゃうわよ!」
「だったら飛べばいいだろ!」
「やだ荒くれ!?」
「いや、待て」
冷静な声が割り込んできた。アルルカだ。彼女はカイヤの中で腕を組みながら、
「騎士殿の言ったことは案外間違ってないかもしれない。マルネリアと相談したい。街に戻るからちょっと待っててくれ」
「その必要はないよ」
突然聞こえた声に僕らはぎょっとなった。声の主は街に残ったマルネリアその人だったからだ。
「羽飾りから!? どうして……」
アンシェルが驚きの声を上げながら僕を見る。そうか声が近いと思ったのは、ここから聞こえているからか。
「にゃはは。便利な魔法だから、アンシェルが使ってる時に目で盗んだんだ」
「あんた、人のものを……。それに結構複雑な魔法なのに。呆れを通り越してちょっと感心するわ」
アンシェルの複雑な称賛をよそに、マルネリアはすぐに本題に入る。
「話は聞かせてもらったよ。で、ナグルファル号をカモメにすればいいって?」
「ドワーフの工業技術と、エルフの魔法技術で何とかできないか」
アルルカとマルネリアが何やら専門的な会話を始める。受話器代わりの僕の頭は、日常的に難しい何かを話し込んでいることがある二人の会話を見事に理解できない。
「うん……そうか……」
「なるほど……」
最初は足取りの軽い言葉が往復していたものの、だんだんとやりとりの頻度が下がり、アルルカの声も重くなっていった。状況は芳しくないらしい。
僕も言い出しっぺの手前、何か言わないといけないと思い、会話に参入する。
「マルネリア、ルーン文字は使えないの? あれがあれば色々できると思うんだけど」
アルルカが少し驚いたように僕を見て、羽飾りの奥からも沈黙が帰ってきた。
うっ、この反応はあまりよろしくない。
「騎士殿は大事なことを忘れてるのかな。ボクのルーン文字は樹鉱石に刻まないと効果がほとんどない。騎士殿の鎧は特別製だから例外的に機能してるだけだよ」
「そ、そうだった……」
痛恨のミスに押し黙る。くそ、所詮素人考えだったか……。魔法の世界にだって無理なことはある。
「あれ……? ねえ騎士殿。それだけ? 続きがあるんじゃないの?」
「ごめん。ない」
追撃のマルネリアが押し黙った僕のメンタルにさらにダメージを加速させようとするけど、しかし、どうやら彼女の言いたいことはそうではなかったらしい。
「いいや、あるはずだよ騎士殿。ボクらは今日までにこれの答えをすでに見つけてる」
「え、どういうこと?」
「えぇ……? ほら思い出してよ。騎士殿がボクに教えてくれたようなもんなんだよ?」
マルネリアの声は完全に笑っている。すでに明るい結論へとたどり着いているふうだ。でも、何だ?
「降参。もったいぶらずに教えてよ」
「もうー。騎士殿は樹鉱石以外の場所で機能するルーン文字を見てきたじゃないか! ボクよりずっと間近で! 骨とか! 皮膚とか! カンテラとか!」
あっ!
「古代ルーン文字か……!」
羽飾りから満足げな空気が伝わってきた。
「そう。古代ルーン文字の最大の特徴は、刻む場所を選ばないこと。これを超兵器のパーツと組み合わせれば、ナグルファル号は文字通り大陸間を飛んで行ける。きっとね」
話を聞いていた全員が唖然とした顔を見合わせ、それからすぐに期待に満ちた表情を浮かべる。想像もしなかった何かが起ころうとしている。みんなの目に高揚がきらめいた。
「で、問題は、みんながそれに協力してくれるかどうかってことなんだけど、諸君?」
「わたくしたちにできることがあれば、何でも協力しますわ」
「もちろんアタシたちもよン、魔女ちゃん!」
その場のほぼ全員がすぐに協力を申し出たものの、なぜかラスコーリは乾いた唇をすり合わせるばかりで、何も言ってこない。
「市長は渋ってそうだねえ」
意地の悪そうな声を上げるマルネリア。ラスコーリははっとなり、
「い、いや、そんなことはないですじゃ。ただ、その古代ルーン文字というのは、街の器具に刻まれている文字のことでしょう? あれらの製作技術はとうに失われていて、わしらはあるものを使っているにすぎないのです」
「いいさ。サンプルをたくさん見せてもらえれば、ボクが自力で解いてみせる」
「しかし……」
「んんんー? もしかしてボクに解読されたらまずいことでもあるのかにゃー?」
「とんでもない! わ、わかりました。必要なものをご用意しましょう」
よし……!
何だかうまくいきそうな気配だ。
「騎士様」
呼ばれて振り向くと、渡し板ぎりぎりのところまで出てきたセルバンテスの穏やかな顔があった。
「アタシを元気づけてくれたのね。こんな図体だけの役立たずを」
僕はあっけらかんと返した。
「いいや。僕はピンチを助けてもらいたかっただけだよ。ちょうど手の空いてる船乗りがいそうな気がしたからね」
「まあ謙虚。あなたが女神の騎士に選ばれた理由がわかるわ。もうあと二歩こっちに近づいてくれたら、思いきり抱き締めてあげるのに」
僕はカカッとバックステッポした。
「それは離れすぎよ!」
無力感に苛まれた船乗りはもういなかった。陸地から切り離され海を彷徨うだけの男も、もういない。これから彼は、故郷と外の世界を繋ぐ線となる。
グレッサは再び世界と繋がる。
たとえ神の呪いに縛られていても、新しい場所にたどり着ける。
誰かのために何かを為し、守ることができる。
まだ見ぬ期待に、入り江の冷たい空気が春の温もりを得た気がした。
そんな素晴らしい瞬間に、だった。
「どうにも――」
その温度のない声は、まさに、
「天界に戻られないと思ったら、こんなところにいたのですか……」
青天の霹靂のように、僕らの頭上に降り注いだ。
ナグルファル号のマストより高い位置にいる彼女を、僕は咄嗟に見上げた。
アンシェルたちと同じような幼い容姿。童顔にもかかわらず、なぜか大人びて見える顔の造作。一糸の乱れなく背に流される金髪。そして、火傷しそうなほど冷たい目。
「オメガ……!!」
現行最強。天使の突撃隊一番隊隊長オメガは、突如、そして厳然としてこの場に闖入した。
冷然と見下ろす目に、アンシェルとは明らかに異質な色を感じ取ったのか、それまで笑顔だったグレッサの民たちが一瞬にして顔をこわばらせる。
「リーンフィリア様……」
「はっ、はい」
彼女の呼びかけに、びくっと肩を揺らしたリーンフィリア様が、気をつけの姿勢になった。
「ここがどういう土地かおわかりですか……?」
「ここは……天界から罰された民の住む地です」
「そう。汚れた民の住む、汚れた土地です。あなたがいるべき場所ではありません。ただちに天界にお戻りください……」
絶対的な尺度を伴った一言が、凍てつく土地からさらに温度を奪っていく。氷が人の形をなしたように厳格な天使の前に、あらゆる反論は無意味。
一瞬、そう思わされたが、
「わたしは、ここに住む人々を救いたいと思っています」
女神様がはっきりと告げた一言が、天使の凍れる牙城に蟻の一噛みを突き込んだ。
今度はオメガが揺らぐ番だった。不機嫌そうに首を傾げる仕草に対し、リーンフィリア様は矢継ぎ早に続ける。
「聞いてくださいオメガ。彼らは確かに悪魔を信仰しています。けれどそれは、悪徳や邪な心から発芽したものではなく、自分以外のものへの畏れと敬いから来るものです。彼らに天や他の地上の者への害意はなく、穏やかで平和な暮らしがしたいだけの、素朴で善良な人々なのです。天の神々は、勘違いをしているのです」
彼女の訴えを聞いていたオメガは、冷風がわずかに乱した横髪を首の一振りで整えた後で、静かに言った。
「どうにも……。思い違いがあったようです……」
それを聞いた女神様の表情がわずかに明るくなる。
まさか、話が通じたのか……?
オメガが静かに続ける。
「善良な者とは、善良な心を持つ者のことではなく、善を為す者のことです。悪とは、悪意ある者のことではなく、悪を為す者のことです。もしその者が大きな悪意を永遠に心の奥底に閉じ込めたまま人に善を施し続けて死んだのなら、その者は聖人と呼ばれるでしょう」
「それなら――」
「いいえリーンフィリア様。グレッサの民はすでに最悪の悪を為しています」
天使のささやくような声が、地上を冷たく押し潰す。
「親しげに悪魔の名を呼び、そのありようを認める。その行為自体が許されざる絶対的な悪です。リーンフィリア様も天に住まう神のひとはしらであれば、それが価値観などといううつろいやすき繰り言の類でないことくらいわかるはず……。思い違いに気づかれましたか?」
信仰の自由とか価値観の違いだとか、そんな許容点はここには存在しない。
天は悪魔を許さない。それに与する者も許されない。
心酔の度合いや動機など一切関係なく、その名を気安く呼ぶことすら悪徳である。
オメガはそう言っている。
恐るべき不寛容と石頭の集合体だ。しかしこの考えは、彼女の言う通りリーンフィリア様自身も確実に持っているのだ。
だからこそ苦しんだ。グレッサの民を救っていいのかと。
けれど。
彼女はすでに自分の本当の心を見つけている。
「彼らはわたしのために祈ってくれました。わたしが元気になれるようにと懸命に。それは彼らの善を明かす行いであるはずです」
決して叩きつける強い言葉ではない。しかし、理屈を受け付けない本心は、確かな熱量を持って身の内から鳴り響き、オメガからにじみ出る冷風を緩やかに巻き取って吹き散らした。
「わたしが彼らを導き、グレッサの民が天と共にあることを証明してみせます」
オメガは重々しい瞬きを一度し、無駄のないただ一言をぽつりと言った。
「後悔しますよ……」
「いいえオメガ。わたしはあなたと対峙する今この瞬間においても、後悔はしていません」
その返事を聞いた天使の目がわずかに動き、慄然と空を見上げるグレッサの人々を捉えた。感情の伴わないまぶたの奥で、極限に凝縮された光の粒がきらめくのを僕は見た。
彼女の唇がわずかに動き、音のない言葉を紡ぐ。
ヤハリ消シ去ッテオクベキダッタ。
瞬間的に走った悪寒が、僕にアンサラーの名を叫ばせかける。しかし、
「オ、オメガ!」
決定的瞬間が訪れる前に割り込んできたアンシェルの声が、激突の空気を寸前でとどめた。彼女は背中の小さな羽を震わせながら、身振り手振りを大きくして訴える。
「天界はまだ女神様に対して何の裁定も下してないわ。あなたが今ここで判断する必要なんてないじゃない! 少しは様子を見てよ!」
オメガは瞳に収縮した光をぼやけさせ、刺々しい空気を静かに呑み込んだ。
「オメガに見逃せと言ってるのですかアンシェル? そんなことを言っても聞き入れるはずがないと、誰より知っているあなたが?」
「そうよ……。そこを曲げて頼んでるの。女神様はこの土地に長々と居座ったりしない。グレッサの民に深入りもしない。すぐに街を立て直して天界に戻るわ。それでいいでしょう?」
最強の天使はそこで、見たことのない顔を表した。
ニタリと。
これまでの物静かさが嘘のように悪辣な笑みを浮かべて、アンシェルにそれを見せつけたのだ。
「いいでしょう……。他ならぬあなたとオメガの仲です。オメガを止めたことの意味がちゃんとわかっていると信じ、猶予をあげます……」
「猶予とは、どれくらいですか」
リーンフィリア様が臆さずはっきりとたずねる。
しかし、すでに背を向けかけていたオメガは、これに謎めいた答えを返すだけだった。
「時間など意味はありません。それを決めるのはあなたです。リーンフィリア様……」
コレンドー!
※お知らせ
オメガが(意味深)なことを言って去ったばかりですが、諸事情により次回投稿は一か月後の7/13を予定しています。
投稿の際は活動報告およびツイッターでお知らせしますので、よければまた見に来てください!




