第百八十一話 船乗りの帰還
カイヤが僕らを乗せて雪原を走っていく。
南部都市の鐘楼から見える海に船影が確認されてから、ラスコーリは大急ぎで出迎えの準備を整えようとした。
というのも、グレッサリアは海に面しておらず、港代わりの入り江にはコキュータルが闊歩する雪原を越えていかなければならないからだ。
そこで僕は、雪道も変わらず動けるアルルカに運搬役を頼むことにした。
カイヤの上に乗れるのはせいぜい五人。プラス両腕で抱えて二人の合計七人。
リーンフィリア様とラスコーリは代表として。そこにモニカ、レティシア、シンクレイミが志願し、僕とアンシェルが腕で運ばれる組に回された。
コキュータルとの戦いもなく雪原を抜けると、船が何隻が入れるくらい大きな入り江が現れた。
海岸沿いまで雪が積もってはいたものの、湾が凍りつくほどではないらいしく――そういえば今は春だった――、一部に停泊用の足場が組まれている。
グレッサリアが世界から断絶されてから、港という施設は完全にその意義を失い、森での避難生活の足しにするためにほとんどが解体されて、今はこの粗末な桟橋が残るだけだという。
僕らが到着して少しすると、ナグルファル号が音もなく入ってきた。
みんなで一斉に呼びかけると、船べりにセルバンテスとアーネストが現れ、二人も手を振り返してくる。
「あら~! アバドーンにサブナクにシャックスじゃないの~! 久しぶりね~!」
「ヴァッサーゴ! フォルネウス!」
ヴァッサーゴ……フォルネウス?
モニカたちの呼び声に疑問符がついたのは一瞬。すぐにそれが、血統家であるセルバンテスとアーネストのファミリーネームであることに思い至る。
何だよ、無駄にカッコいい名前しやがって!
ナグルファル号が接岸し、たくましいセルバンテスの手により渡し板が置かれると、モニカたちは我先にとその上に乗った。
「お久しぶりですわ。ヴァッサーゴ。互いの無事を喜ぶ以外にありえない」
「あはは! アバドーンったら、ずいぶんおしとやかな女の子になっちゃって。あのお転婆が見違えるようだわ」
「元気そうでよかった……。それだけ」
「口下手なサブナクにそこまで言ってもらえたら光栄よおん。ね、アーネスト!」
「おお、そうだな。相変わらずオレ様より一段階だけ可愛くない女ども」
「フォルネウスはいつも通りすぎてつまらないデス! 大海に出たのにまだうぬぼれてるデス!」
「うるせーなシャックス。そういうのはオレ様より可愛いものを見つけてから言えよ!」
親しげに握手を交わす彼らを眺めていると、僕の隣にいるラスコーリが懐かしむような口調で言った。
「血統家はいがみ合っていた時代もあったのですが、皮肉にも数を減らしてからはあのようにみな仲良くやっておりましてな。セルバンテスはモニカたちよりも先輩、アーネストは同期といったところでしょうか。特にセルバンテスは、良き兄貴分としてみなに慕われておりますのじゃ」
確かにあの強オカマは頼りがいがありそうだ。
再会を喜ぶ彼らは、けれど、どんなに嬉しさを表そうとも決して抱き合ったりはしなかった。
渡し板の上で、手が届くほぼぎりぎりの範囲で握手をするばかり。
その奇妙な光景に僕は、グレッサが呪われていることをはっきりと思い出した。
セルバンテスたちは陸に上がれず、モニカたちは大陸から出ることができない。あの渡し板の中間地点には、そんな見えない制約の壁が立ちはだかっているのだ。
あれだけ楽しそうに話し合える仲間と、手を伸ばし合うのが精いっぱいの愛情表現だなんて、僕は今更ながら天界の傲慢さと残酷さに憤りを覚えた。
「セルバンテス、アーネスト」
和気あいあいとした空気の中にラスコーリの声が差し込まれ、彼らの視線を女神様へと向けさせる。
「女神様……!」
セルバンテスは船側に戻ると、膝をついてこうべを垂れた。アーネストもそれに倣う。モニカたちが見せた臣下の礼と同じだった。鎧を着た僕より様になっているのを見ると、血統家に伝わる由緒正しい姿勢なのかもしれない。
「本当にこの地に来ていただき、感謝の言葉もありません。本当に、本当に、ありがとうございました」
「いいえ。いいのです。わたしも知らなければいけないことがたくさんありました」
リーンフィリア様は優しく彼を見下ろして言った。
「あなたの本当の名前はセルバンテス・ヴァッサーゴというのですか? そして、アーネスト・フォルネウス?」
セルバンテスはわずかに顔を持ち上げ、苦笑のような曖昧な表情を見せた。
「はい。アタシもアーネストも、海に閉じ込められた時点で家の名簿から除名されているとは思いますが、アバドーンたちは変わらずにそう呼んでくれるようです。女神様には耳障りな名前でしょうがどうかお許しください。それで……グレッサの民は――?」
説明する彼の目が隠さずに不安を示す。
女神様にグレッサの民を助けてほしいと最初に言い出したのはセルバンテスだ。彼は悪魔の名を隠していた。悪魔信仰についても。
しかしリーンフィリア様がここにいる以上、すでに秘密が明らかになっていることは彼も承知の上だろう。
女神様は優しく微笑みかけた。
「大丈夫です。わたしは、あなたたちを助けます」
セルバンテスの目が驚きと喜びに潤み、すぐに、女神様の後ろでカンテラの光を示すモニカたちへと移った。
オーディナルサーキットが復活していることに気づき、彼はおおよそのことを理解したらしい。声を震わせて礼を言うと、もう一度リーンフィリア様に深々と頭を下げた。
「それにしても、ずいぶん早かったね。〈ブラッディヤード〉から半年くらいかかるって話だったけど。僕らがここに着いてから半月とたってないよ」
感動の再会も一段落し、空気が緩んだところで僕はたずねた。するとセルバンテスは大きな手をぺらぺらと振り、さっきの神妙な面持ちを吹き飛ばすいつもの声音で答える。
「それが聞いてよ騎士様ん! あれからナグルファル号が嵐に巻き込まれちゃったの! もー何日も海が荒れ狂って、船の中がどったんばったん大騒ぎよ」
「ドワーフたちが積み荷をしっかり固定してくれたおかげで、オレ様の超絶可愛い顔が木箱にぶっ潰される悲劇は回避されたんだけどな。ヤツらにゃあ、可愛いオレ様の肖像画を残す権利をくれてやってもいいぜ?」
「このタコがごめんなさいねえ、アルルカ。ドワーフのみんなには、アタシたちホント心から感謝してるから。こんな顔だけ野郎の絵なんか、アタシが描いたのをいくらでも贈るわ。――それで話を戻すんだけど、ある日嵐を抜けたら、ものすごく船が進んでたのよ。風がナグルファル号を運んでくれたのね、きっと」
「へえ……。三か月分も?」
「ナグルファル号は帆船だからねえ。風が味方してくれるとすごいわよお?」
セルバンテスはケラケラ笑った。
どんだけどでかい嵐にぶつかったやら。改めて空からここに来てよかったと思う。
「ときにセルバンテス、アレクサンドルたちはどうした? 奥で寝ておるのか?」
ラスコーリが問いかけると、モニカたちも「そうそう」と言わんばかりにうなずく。
「アレクサンドル……?」
僕は首を傾げた。知らない名前だ。ナグルファル号の船員? でも、最初に見た時からこの船には二人しか乗ってないはず……。
「彼らは北海で船を降りたの」
「えっ」
少し言いよどんだセルバンテスが、妙にしんみりした声で告げると、誰もが口を開けたまま固まった。
アレクサンドルというのは、きっとグレッサの民だろう。でも、彼らは陸に上がれないはず。それに、北海……。つまり海だ。陸じゃない。そこに降りたということは、つまり……海に飛び込んで――?
「やあね。海に身投げしたわけじゃないわよ。氷の上に降りたの。島みたいにでっかい氷の上にね。神様も、氷の上は陸地と見なさなかったみたい」
ああ! とみんな得心がいった顔になる。
なるほど。その手があったかー。
僕の故郷でも、南極は雪の下に地面がある大陸だけど、北極はただの氷の塊が浮いてるにすぎない。
ラスコーリも感心した様子でうなずき、
「では、家族でそこにおるのか」
「ええ。ミーシャさんと坊やも一緒に」
何だ。天界の罰も結構ガバガバだな。ざまあみろ。
「アタシも一緒に降りないかって誘われたんだけど、そうするとナグルファル号が一人ぼっちになっちゃうしね」
セルバンテスが言うと、みんなの視線は自然ともう一人の乗員であるアーネストに移る。
「オレ様は元々、自分より可愛いヤツに会いに行くために船に乗ってたからな。氷の上に永住するわけにはいかねえぜ。まあ、それに……オレ様まで降りたら、この筋肉だるまが一人になっちまうからな」
「あらやだ。今更点数稼いでも、あんたのサイアクな性格がマイナスより上になることはないわよ」
「ケッ。こんなバケモノでも一応、戦友だからな。ああ、オレ様の優しさが七つの海を泣かすせいで、今日も海水がしょっぱいぜ」
「もう、何て壮大なバカなのかしら……」
……?
慣れた憎まれ口の応酬に、潮風のようにべたつく寂寥が混じっているのを感じ取り、僕は首を傾げた。やっぱり、一緒に乗っていた人たちが降りてしまったのが寂しいんだろうか?
僕が答えを知らないまま、セルバンテスは昔を懐かしむような眼差しを、ナグルファル号のまだ新しい帆へと投じる。
「三人とも、あの時たまたま船に乗っていただけで故郷に戻れなくなってしまったんだもの。生粋の船乗りじゃないし、降りて正解だわ。氷の上とはいえ揺れない地面があるし、嵐に怯えることもない。アタシも、家を作るために船の予備資材をあげたり、海で取れた食料を届けたり色々協力したわ。氷の上にも結構動物がいるのよね。それを捕まえて食べたり、骨を加工して道具を作ったり……」
「楽しそうですわ」
モニカが微笑む。
「ええ。それに、きっと幸せだったと思うわ。家族水入らずでね……」
だが、返すセルバンテスの笑みはどこか寂しい。
幸せ、だった……?
その不穏な語尾と空気を、誰もが即座に感じ取った。静かに微笑むばかりのセルバンテスに続きを問う声はどこからも出ず、少ししてから、不自然な沈黙に焦れた様子のアーネストが、ぶっきらぼうにこの物語の続きを伝えた。
「今はもう全部消えちまった。家も何もかも。北海で猛吹雪が何か月も続いてな。誰も近づけなかった。ようやく晴れた時にはもう何も残っちゃいなかった」
全部……消えた……?
「家ごと雪に埋もれてしまったのね。それ以前に、寒くて生きてはいられなかったでしょうけど」
「ヴァッサーゴ……」
モニカが目に涙をためながら、彼に歩み寄った。レティシアとシンクレイミも、うつむいて肩を震わせている。
幸せな家族の話のはずだった。過酷な呪いの中でも、どうにか自分たちの生活を改善しようと努力した人々のはずだった。それが、こんな。結末だなんて。
セルバンテスは精一杯モニカに近づき、すすり泣く彼女の肘を包み込むように支えた。
「ありがとう。泣いてくれるのね」
「だって、アレクサンドルは……。あなたのお兄さんなのですわ……!」
……!
「そうね。立派な人だったわ。奥さんも坊やも、優しい人たちだった。とても素敵な」
セルバンテスの家族だったのか。彼らは。
僕は何も言えなかった。言えることなんかなかった。ただ悲しいだけだった。
「グレッサの民は寒さに慣れてるから。きっと、今夜は冷えるね、なんて言いながら家族揃って同じベッドで寝て、そのまま天国に行けたと思うわ。最期までみんな一緒だった。だから寂しいことなんてないの」
ぽろぽろと涙を落とす少女を、セルバンテスの声が優しく慰めた。でも、一番寂しいのは彼自身のはずだった。
猛吹雪で近づけない氷の陸地を前に、彼は何を思っていたのだろう。兄夫婦の危機に立ち入れない彼は、自分に何を感じていたのだろう。
「そろそろアタシたち、行くわ」
モニカを落ち着かせてから、セルバンテスは不意に言った。
「もう行くの?」
僕が何も考えずに反射的にたずねると、彼は苦笑し、
「リーンフィリア様がみんなを助けてくれることはわかったし、アタシたちは見ての通り陸に上がることもできないしね。むしろ、いつまでも残ってたら気を遣わせちゃうわ。今も街のために戦ってるアバドーンたちには本当に申し訳ないけどね……。ごめんなさい、肝心な時に何もできなくて。ホント、役立たずよね……」
無理に作った空っぽの笑みは、きっとそうであったろう、かつての彼を想像させた。
船上から吹雪を見つめていたセルバンテス。
消えた兄夫婦の家を探しながら、きっと幸せな最期だったと言い聞かせ、泣き顔を無理やり笑顔に作り直させた、その時の彼を。
その時、あの立派な体に、彼はどれだけの無力感を積み込んでしまったのだろう。
大切な人たちの危機を前に何もできない自分を、どれくらい呪ったのだろう。
彼の優しさがすべての自責の裏返しのように思えて、胸が苦しかった。
「そんなことはないさ。おぬしのおかげで、女神様はこの地を訪れてくれた。おぬしは、わしらの救世主じゃ」
ラスコーリが言うと、彼のつらそうな笑顔が少しだけ楽になる。モニカたちもそうだとうなずく。誰もが懸命にセルバンテスを励まそうとする中、しかし、どの表情にも陰りが居残り続けていた。
アレクサンドルの話を聞いてからずっと。
みんなの骨の髄にまで染み込まされている。
自分たちが今いる場所に閉じ込められ、逼塞しながら生きていくしかないこと。
逃げ場もなければ、進むべき場所もないということ。
女神様の元でグレッサリアが復活してもそれは変わらない。
世界からの孤独と隔絶が、精一杯のゴール。
だからせめて、悲しい顔を隠して、小さな慰めと優しい言葉を探す。
僕は、
そうしない。
「セルバンテス。頼みがあるんだけど」
「え?」と、みんなが一斉に僕を見た。
神が作った孤独なんかクソ食らえ。
罰なんかに誰が従うか。
「ナグルファル号で、交易をやってほしいんだ」
彼が役立たずでないことを証明する。
もう一度、グレッサをこの世界と繋げてやる。
心に傷を持つ漢=最強




