第百七十話 グレッサリアの迎撃
グレッサの民が住んでいた円形巨大都市――グレッサリアというらしい――の南部解放は、森の中でひっそり暮らしていた人々を歓喜させた。
村人たちはすぐに雪原を越えて都市へと押し寄せ、外壁付近の惨憺たる内情に呆然と立ち尽くすこともなく、大穴〈コキュートス〉付近に生き残っていた建造物への移住を開始する。
人間の数が、村で見た時よりも多く感じられたのは、どうやら森の中にはラスコーリたち以外の村もいくつか潜んでいたからのようだ。
集結した彼らが懐かしい町並みに感慨にふける姿を想像していた僕は、我先にと納屋に駆け込み、バケツやスコップを持ち出した彼らの行動に目を剥くハメになった。
彼らはものすごい勢いで雪かきを始めた。
いや、正確には、雪に飛び散ったコキュータルたちの体液を集めていた。
体液が一体全体どういう仕組みでグレッサリアの都市エネルギーに転換されるのか、衝撃と共にそれを知るのはもう少し後のこと。
今は、彼らにとって、この燃料集めこそが優先順位の最前列にあることだけわかってもらえればそれでいい。
雪に降りかかったものも、家の壁に飛び散ったものも、例外なくすべて掻き集める。
そう例外なく。だから。
僕がこの状態なのも、ちゃんと理由のあることなのだ。
かぽーん。
湿った室内に反響する木桶の音が、鼓膜を心地よく震わせる。
熱のこもった湿気が鎧に細かな水滴を結実させ、上から流れてきた大きな雫にさらわれて、一緒に縁を落ちていった。
「あ~、生き返る~」
ここはラスコーリ市長の邸宅にある浴場。
立ち上る湯気の中に、マルネリアののんきな声が染み込んでいった。
「わたしたちは汚れていないのに、湯あみなどしていてよいのでしょうかあああ~」
途中までは真面目だったリーンフィリア様の台詞は、湯加減のちょうどよさにあっさりと敗北し、終わり頃にはすっかりふやけていた。アンシェルの声がそれを追いかけ、
「いいんですよ、外は寒かったですし。どうせグレッサの民は体液集めで忙しいから、こちらも今のうちに骨休めしておきましょう。あ、騎士、その顔のタオル取ったら〈ダークグラウンド〉の雪の下に永遠に埋まってもらうからね!」
「わかってるよ……」
僕は、バスケをしている心音を極力悟られないよう、短い返事をした。
ここは女湯で――しかもリーンフィリア様たちが使用中なのに、なぜ僕までいるのか?
いや待て。手遅れになるのではままるな。
前置きはちゃんとした。これは、体についた汚れ――すなわちコキュータルの体液を洗い落として集める、極めて重要な作業なのだ。
この緑に発光する謎の液は、油のように水に浮き、他の物質と溶けあうことがほとんどない。だからこうして排水溝に流してしまっても、下水道の途中で分離し、“オーディナルサーキット”と呼ばれる集積場に流れ着く仕組みができあがっているそうなのだ。
今、外で雪かきをしている人々も、体液付きの雪を、片っ端から側溝に投げ込んでいる。
そしてかつてコキュータル相手に「狩り」をしていた人々は、仕事の後はこうして風呂に入るのが当たり前だった。つまりこれは、恒例行事なのである。
しかし、オーディナルサーキットに燃料がほとんど入っていない今、使える浴場は極めて限定されている。緊急時には避難場所ともなる市長宅はそのうちの一つで、男女で別々に入ると時間がかかるという理由から、僕はここに置かれているというわけである。
抵抗はしたよ、一応……。
でも竜たちに尻尾で縛られて連行されたんでぼくはわるくぬえ。
僕は顔を何枚ものタオルでぐるぐる巻きにされ、あまつさえ壁の方を向かされて、洗い場に座らされている。
湯船のある背後にどんなパラダイスが広がっていても何も見えないし、見る気もない。そんな度胸はありません……。
「ふーん。アルルカって意外と胸あるんだね」
「な、何だマルネリア。普通だろう。そちらの方がずっと大きいぞ」
「ボクはまあ、そういう血筋だし。それに大きさより形だよ形。ふーん、へえー。ドワーフもなかなかいいもの持ってるねえ……」
「や、やめろ。まじまじ見るな」
「むふう! これは巨乳エルフたちがもっとも好む美乳の疑いがある! 疑惑を晴らすために触診を開始する!」
「するなあ! やっ、やめて……ひわあああ……」
おいィ? 今の言葉聞こえたか?
聞こえてない。何か言ったの? 僕のログには何もないな。
よーし健全! このゲームは家族の前でやっても問題ないぞ!
背後で濡れた足音が聞こえ、不意に目の前が明るくなった。
誰かがタオルをはずしたのだ。
「ヘアッ!? ちょ、ちょっと待って! まだ壁しか見てない! ノーカンだからアンシェル!」
咄嗟に天使に言い訳しつつ、手で顔を覆ったけれど、返ってきたのは肩にかけられた温かい湯だった。
「遅くなって、ごめん、ね……。竜たちは、洗い終わったから、次は、騎士様」
パスティスの声がした。さらに後ろから、キューというアディンたちの心地よさそうな鳴き声。
「綺麗にする、から」
再び湯がかけられ、でこぼこになった鎧の表面を、彼女の柔らかい指が撫でていく。
言うまでもないことだけど、至近距離にいるパスティスは裸だ。ここは風呂場なので、目を閉じていてもそう断言できる。
「…………」
パスティスは普段から体にぴったりフィットする服を着ているので、そのラインを想像するのは容易だった。
豊満な体つきというわけではないけど、無駄がなく、スレンダーで、すっと伸ばした背中のS字曲線がとても綺麗で……。
…………。
…………。
臨兵闘者皆陣列在前! 臨兵闘者皆陣列在前! 破! 破アア!
「じ、自分でできるから、パスティスは湯船であったまってよ」
煩悩を振り払った僕がか細い声で抵抗すると、聞きつけたアンシェルが即座に釘を刺してきた。
「そこから動くことは許さないわ、騎士! いいからパスティスに洗われてなさい。兜でバレないからって、こっそり目を開けるんじゃないわよ!」
「やらないよ!」
僕は声を上げて抗議したものの、天使はほとんど聞いちゃいなかった。すぐさま声から棘を抜いて、
「さあ、リーンフィリア様、お背中をお流ししますね。フヒィ!」
おいィ?
また、他方からはこんな声も。
「何てことだアルルカ。君は百人に一人の魔乳の素質を秘めている可能性が無きにしも非ずだよ。ボクを専属マッサージ師に指名してくれれば、一揉ませでエルフ千人を篭絡できるレベルに育成してあげられる気がするけど、どうかなあ!?」
「や、やめろ。手をわきわきさせながら近づくな。わたしは綺麗な体でお嫁さんに……あああああ」
僕より邪悪な者が二人ほど野放しにされているようなのですがそれは。
そんな外部への意識を洗い流すみたいに、再び頭から湯がかけられた。思わず首をすくめる。
「わざわざ手でやらなくとも、いつもみたいに雑巾でいいよ」
「そうすると、今度は、雑巾を洗わないといけないから……。洗い流すだけなら、こっちの方が、早い、よ」
ああ、そうなのか……。
「また、傷が増えちゃった、ね」
パスティスの指が、クリオネのビームが刻んだ個所をなぞったのがわかった。
衝撃はあったものの幸い貫通はしておらず、中身も無事だ。エネルギーが分散されていたのがよかった。それでも、全速力で駆け抜けなければどうなっていたかわからないけど。
「パスティスも頭から浴びてたけど、大丈夫だった?」
戦いが終わった後、僕らの姿は生傷以外にもひたすらに凄惨だった。肉弾戦オンリーだったパスティスは特に、髪や爪から返り血が絶え間なく滴り落ちるほどだった。
体はともかく、髪にかぶってしまうと大変そうだけど。
「うん……。ちゃんと、綺麗にした……」
どうやら大丈夫らしい。
「だから……少しなら、見ても、いい、よ……」
「えっ」
「騎士様が目を開けても、わたしからは、わからない、から……」
「……………………」
「……アンシェルには、秘密に、する……」
「……………………」
ええと……。
このシーンの描写は、早くも終了ですね……。
※
その後、風呂は何事もなく「健全に」終了した。
もちろん僕は何も見ていない。
体液を洗い落としてもらった僕は、みんなが着替え終わった後に、ようやくその場から動くことを許された。
森の中の小屋とは違い、十分に広く、大きな暖炉のある居間では、分厚い絨毯敷きの床の上でみんながくつろいでいる。
リーンフィリア様が珍しく髪をアップにしていたり、アンシェルとマルネリアが温泉に浸かったみたいにやたらツヤツヤしていたり、アルルカが部屋の隅で体育座りをしたままぶつぶつつぶやいていたり、パスティスがのぼせたように顔をほんのり赤らめていたりと、完全にリラックスした空気だ。
ええと、重ね重ね言うけど僕見てないからね。兜の外からはわかんないだろうし証拠もないけど!
何だか、みんなで温泉旅行にでも来たみたいなのんびりした雰囲気の中、廊下へ通じる扉が開いて、ラスコーリが現れた。大きなトレイに何かを載せている。あれは何だ?
トレイを近くのテーブルに置くと、彼は柔和に微笑んだ。
「どうでしたか、湯加減は」
「とてもよかったです。どうもありが――どうしたのですか、その目は?」
代表してリーンフィリア様が謝辞を述べようとして、その異変を指摘する。
ラスコーリは、豊かな眉毛の下に滑り込ませるように、黒い眼帯をしていた。村ではしていなかった装備だ。彼の穏やかな外見に、どこか引き締まった印象を加えている。
「ああ、気になさらないでください。作業着のようなものですじゃ」
作業着? 眼帯が? 体液集めに関係しているのだろうか……?
「ご休憩のところ大変心苦しいのですが、これからのことについてお話しても?」
「ええ。構いません」
代表して女神様がうなずく。
「ああ、そう身構えずとも大丈夫ですじゃ。少し堅苦しい話にはなりますが、すぐにコキュータルの討伐を頼むような剣呑なことにはなりませんので。お休みになりながらお聞きください」
村長改め、南部都市の市長となったラスコーリは、トレイに載った器具を僕らに配った。
「まずは、それを身につけてくだされ。これは腰に下げるカンテラですが、地下にあるオーディナルサーキットから力を得て、明かりの他に、寒さを防いだり、様々な危険から身を守ってくれたりと効果を発揮します。ここでは、大人から子供までが身につけている必需品ですじゃ」
「……地下から? それ、どういう原理?」
マルネリアが顔をしかめてたずねる。
「さて、詳しいことは。我々も、古くから使っているだけのものなので……」
僕は深く考えず「そういうものだ」としてカンテラを受け取ったけど、マルネリアは何か納得いかないことがあるらしく、その道具を色んな角度から眺め回したり、さわったりしていた。
まあ確かに……。地下にある集積場から力を得るってどういう仕組みなのかさっぱりわからんな。有線でもないし。
スイッチを入れると、種火も用意していないのに、ガラス内部に青白い火が灯った。
コキュータルが燃やしていた心臓と同じ色だ。ヤツらを燃料にしているので、それ自体は別に訝しむようなことでもない。
「灯は、できれば寝る時にも点けておいてくだされ」
「どうしてですか?」
僕がたずねると、ラスコーリは長い眉毛の下で、目をぎょろりと動かし、窓の外へと向けた。
それからすぐのことだった。
黒く塗りつけられたような窓の外を、青白い炎が通過する。
「!?」
僕らは弾けるように身構えた。
屋敷の外にコキュータルがいる!
「大丈夫です」
ラスコーリ市長は、僕らをなだめるように言った。
「彼らは基本的に建造物を攻撃しません。また、カンテラを点けていれば、こちらから不用意に近づかない限り襲っても来ません」
「でも、外壁沿いの町は派手に壊されてたわよ」
アンシェルの指摘に彼は、
「あれは、オーディナルサーキットが停止し、カンテラが効力を失った後で、彼らが我々を追い回した結果ですじゃ。家屋自体を狙ったものではありません。迎撃施設が復旧しない今、コキュータルは穴から現れ続けるでしょうが、家の中にいる限りはほぼ安全です。町の者たちも、今頃は息をひそめて彼らをやりすごしているでしょう」
にわかには信じがたいが、彼が嘘をつく理由もない。……多分。
「あの触手の怪物の仲間が、今も外を闊歩しているというのか? 何という危険な町だ!」
アルルカが突然声を震わせた。クリオネの捕食シーンがよほど衝撃的だったらしい。
「こんなところに一人でいられるか! わたしはみんなと同じ部屋で寝るぞ!」
「それがよろしいでしょう」
すげー力強く死亡フラグを回避。
もっとも彼女の場合は、恐怖感というより戦士としての心得からだろう。ドワーフ族は勇猛果敢だけど、慎重であることを決してためらわない。
戦闘が始まればいつでも自分が勇敢であることを証明できるので、余計なところで勇気を誇示する必要がないのだ。
が。
「掃除屋が必要なら、今からでも出ていくけど?」
僕は自分の意見を述べた。窓の外を通った心臓の大きさは、クリオネ戦までに倒し尽くした小型のコキュータルと大差ないものだ。倒すのに時間はかからない。
そんな僕を、あきれ顔のアンシェルが諫めた。
「座ってなさい、狂犬。グレッサにはグレッサの都合があるみたいよ」
ラスコーリもその言葉を受けてうなずく。
「ええ。女神の騎士様の申し出は大変頼もしいのですが、これからはコキュータルとの戦いの場所を、特定の地点に定めさせていただきたいのです」
戦う場所を決める?
「街にはコキュータルの体液を効率的に集められるポイントがいくつかあるのです。そこで彼らを討伐してもらえると、より素早くオーディナルサーキットに燃料を供給できるわけですじゃ」
「へえ……。そんな仕組みまで」
「もちろん、女神の騎士様方が不利になるような場所はありませんぞ。こちらも人を出しますし、十分な広さと、迎撃用の“罠”施設をご用意いたしますので、存分に地の利を生かして戦っていただきたいと思いますじゃ」
…………。
罠?
何か引っかかる単語だ。
まさか……。
僕は急いでアンシェルから〈オルター・ボード〉を受け取ると、画面をタップした。
まだ大部分が靄に包まれたグレッサリアの俯瞰図から、南市街地をピンチインして拡大させると、いくつかのポイントが黄色いラインで強調されている。
さらにそこにふれると、町並みと共に、「転がるトゲトゲ鉄球」や「床から飛び出る槍」などの物騒なカタログが表示された。
こ、これは……確かに罠だ!
もう最終局面も近いだろうに、ここでも新システムを出してくるというのかスタッフ……。
罠ゲーだ……!!
〈ダークグラウンド〉は、罠だらけのキルゾーンを持った町作りがテーマ……!
ヨ ウ ガ ン カ ビ ン




