第百六十九話 ブラックドラゴンダウン
僕はその光景をアディンの背中から見る。
眼下に広がるのは、さながら、熱と光を沸騰させる原初の海だった。
世界をそこから始めるための破壊の飽和。
両者の押し合いは互角に感じられた。
いや、わずかに……光が近づいてくる。押し返されてる……!?
まさか、あの威力で負けるのか!?
リリリリーン、キキキキイイイイ……。
突如、アディンたちが旋回を続けながら、これまでとは異なる詠唱を始めた。
連なる百の鐘が一斉に鳴りだすような重厚な共鳴だ。そばで聞く僕の聴覚は、その音だけに埋め尽くされた。
ライトアローが刻んだ細い軌跡を塗り替えるように、巨大な光が撃ち落されたのはその直後だった。
これはまさか、トリニティエコーの追加詠唱か!?
〈雪原の王〉との戦いでは見せなかった新しい力だ。いつの間に身に着けていた?
アディンたちは獲物をなぶるようなことはしない。パスティスのような一撃必殺だ。だったら、ヘラジカ相手にこれを出し惜しんだということはないだろう。
僕はぞっとする想像にたどり着き、ひそかに生唾を飲んだ。
まさか、先の戦いで力の不足を感じ取って、この短時間のうちに自分たちの強さを一段階押し上げた?
以前アンシェルが、サベージブラックにも危機の時代があったことを語った。種を残すために、卵の中で性別を恣意的に決定する機能だ。
それくらい生に貪欲なら――そしてこれほどの力を持つ竜なら――、自らの強制レベルアップくらいしてのけるかもしれない。
強い者が現れれば、それをさらに上回るべく、体のどこかから力を引っ張ってくる。
それがこのトリニティエコーの追加詠唱だとしたら。
うちの子最強すぐる……!
眼下の激突地点が遠ざかった。アディンたちの魔法が、クリオネのレーザーの一点照射を押し返しだしたのだ。
だが、こんなもんが地上に落ちたら一体どうなる? 町が平らになるどころじゃない。
それでも止めようがないッ……! サベージブラックの強さを見くびった僕のミスだ!
ラスコーリ村長、町づくりは氷河石器時代から始めますので!
アディンたちの魔法が、とうとうレーザーの焦点を打ち砕いた。
大陸を穿つ輝きが、地表へと迫る。
やってしまったか!?
しかしこの状況で、クリオネはさらに生への執着を見せた。
光の矢どころか、光の巨柱となったアディンたちの魔法へ、レーザーを交差させるようにして再放出したのだ。
光の柱の外縁部で、すさまじい火花が散った。
「魔法の外側を……削り取ってる……!!?」
彫刻家が一本の木材から神像を削り出すように。精密な動きのロボットアームが、インプットされたデータを元に、単なる金属の塊を複雑な部品へと加工していくように……!
サベージブラックの魔法を、わずかずつ、しかしとてつもない速度で相殺しようとしている!
「何なんだ、こいつ……!」
こんなの、今までとは全然違う。アディンたちも尋常じゃないけど、このコキュータルも異常だ。どういう発想をしてるんだマジで!?
それでも、急速落下する竜の魔法を完全に削り切ることはできなかった。
白光の衝撃がクリオネの胴体へと着弾する。
重さすら伴った光と、突風とは違う何かの振動が、僕の体を突き抜けた。それは人の可聴域をはるかに超えたクリオネの絶叫だったのかもしれない。
しかし……僕は眼下に見る。
蒼い心臓は燃焼と鼓動を止めていない!
あのわずかな時間で、耐えられる範囲まで威力を削ぎ落しやがった!
ごふ、ごふ、とアディンが荒い息をついていた。
砂漠で死にかけた時に似ている。異様な疲弊。もしかして追加詠唱の反動……!?
サベージブラックをしても、今の攻撃には無理があったんだ。
キー……キー……。
なおも何かを唱えようとするアディンに、僕は叫んだ。
「もういい! もう十分だアディン! ここから先は僕に任せろ!」
蒼い心臓を指さす。
「あそこに僕を落とせ! 直接アンサラーを撃ち込んで仕留めるから!」
キリリ、リ……。
アディンが突然失速し、急降下を始めた。
力尽きたわけじゃない。翼を閉じて、ぐんぐん落下速度を上げていく。
こいつ……! 僕を下まで運ぶつもりだ! この疲弊しきった状態で!
「よせ、無理するな!」
叫んだ僕のすぐ横を、青白い直線が切り裂いた。
クリオネの触手が、再び魔力の閃光を上空へと向けてきている。
真上から見るそれは、ほとんど光の網のようだった。
「僕を置いて離脱しろアディン! 今のお前じゃ避けきれない!」
けれどアディンは僕に従わなかった。初めてのことだった。
錐の先端のように鋭く体を縮め、クリオネのレーザー網の中へと突入していく。
くっ……!
僕はしがみつくしかなかった。
手を離せば、空気抵抗を受けて一気に置き去りにされるだろう。それは、危険を冒して僕を運ぼうとするアディンの意思を無にする愚行だ。
共に行くしかない……!
刃のようなレーザーが、僕とアディンの至近距離を、オーロラの端のように揺らめきながら通り過ぎていく。
冷気が灼熱し、空気中に漂う不純物が一瞬で燃焼する音がする。
直撃すれば一発だろう。
クリオネが触手を振り回すたびに、閃熱がすぐ横を薙いでいく。
極めて危険な状況にもかかわらず、アディンは決して憶することなく、最小限の動きで、正確に、これ以上なく精密に、光条の隙間をすり抜けていった。
翼のわずかな角度、ほんの少しの体の向きで風を受け、一瞬後に待ち受ける死を、真正面からかいくぐっていく。
一つ、また一つ……!
なんて竜だ。肉体的にも、精神的にも、図抜けて強靭にできている。本当に……。
「最高の竜だよ、おまえは……」
心臓が迫る!
アディンが落下位置をやや手前に微修正したのがわかった。
垂直降下からL字型の落下軌道に持っていき、クリオネの胴体に強行着陸するつもりだ。
ガアアアアアアアア!
アディンが吠えた。
ストッパー代わりに伸ばした後ろ足が、海を割るようにクリオネの体表を切り裂き、輝く緑の体液を噴出させた。
正真正銘、最後の力を振り絞った渾身の制動!
クリオネの体を削り取りながらも、速度はなかなか落ちない。
心臓の輝きが前方に見える。停止は間に合いそうにない。
「だが、よくやった! 今度こそ僕に任せろ!」
僕はアディンの背から飛び出した。
「うおおおおお!」
両手で持ったカルバリアスを、内臓を透けさせるコキュータルの体表へと突き立てる。
重量のあるアディンよりも、僕単体の方が勢いは殺しやすいはず。
カルバリアスがクリオネの表皮をやすやすと切り開いていく。
止まらない、まだ。
押し込んだカルバリアスががたがたと揺れた。
並みの剣ならへし折れるところだ。しかしこれは女神の聖剣!
もぎ取られそうになる五指を渾身の力で押さえながら、僕は叫んだ。
「止まれええええええええええええああああああああああああ!」
体を支配していた一方通行の運動エネルギーが霧散した。
止まった!
僕は顔を上げる。
心臓は通り過ぎてしまったけれど、さほど距離は空いていない。
「うおおおお!」
深々と潜り込んだカルバリアスから手を放し、心臓へと全力で走る。
もたもたしていたら、あのレーザーがこちらを向く。いや、先に、疲れ切ったアディンたちが狙われる! 一気に仕留める!
正面から風が吹いた。
アディンと同じように、後ろ足でブレーキをかけながら僕の横を通過していったのは、ディバとトリアだった。
二匹に遅れて、勢いを殺しながら滑ってくるパスティスとアルルカが見える。
離脱せずに、僕とアディンについてきていたらしい。
後続の彼女たちの方がスピードの調整がうまくいったのか、僕よりも心臓に近い位置で停止に成功した。
「心臓だ。心臓を狙え!」
僕が叫ぶと、いち早く勢いを殺しきったパスティスがうなずき、クリオネの上を駆けだした。
上から見た限りでは、心臓部付近は追加版のトリニティエコーを受けて大きく陥没していた。しかし、あと一歩のところで急所に届いていない。
「ああああああ!」
その一番薄いところを、パスティスの爪が切り裂いた。
長い爪を突き立てたまま駆け抜けた彼女の後ろを、体液の水柱が追いかけていく。
今ので心臓が露出したはず! とどめは僕がッ!
そう考えた頭の中を、青白い光が照らした。
クリオネのレーザーだ。
野郎、自分の体に向けて撃ってきた!? この状況を命の危機と理解したんだ!
動きの鈍いカイヤで懸命に走るアルルカに追いつく。
「アルルカ、君は退避しろ! カイヤじゃ機敏な回避は無理だ!」
アルルカは悔し気に顔を歪ませたが、
「騎士殿、とっておきがある! 使ってくれ!」
すぐにうなずき、カイヤの背部パーツの一つを取り外した。
一見、先端の尖った銛のように見えるが、僕はその形状にある超兵器の面影を見た。
ディガーフィッシュ。砂漠魚雷。
「突き立てて十秒でドカンだ!」
「使わせてもらう!」
僕に銛を受け渡すと、アルルカは方向転換して、クリオネの背中から飛び降りていった。
空からの数条のレーザー照射が、残った僕の行く手を阻む。
照射地点からは体液が沸騰するように滲み出てきている。自らを焼き刻みながらでも僕を止めるつもりだ。
上等だ! 気持ちで負けるな!
「第二のルーンバースト!」
鎧の内側から青白い炎を噴き出させつつ、僕は再び光の網を張ったレーザーの中に全力で飛び込んだ。
真上から、斜めから、×字を描きながら、時にでたらめに揺らめきながら迫る光線を、横にかわし、飛び越え、潜り込み、鎧の端を削らせながら一直線に、防御姿勢のまま駆け抜ける。
アディンがやったことを僕もやるだけだ。
親が子に負けるわけには、まだいかないだろ!
足元で跳ね散る体液は、ほとんど池のようになっていた。一歩を踏み込むたびに水しぶきが上がり、足元が緩む。滑ったらアウト。一瞬も油断できない。
もう少し、あとちょっと……!
レーザーは次でラスト。右から回り込んで突破して――
「なっ……!?」
僕は目を見張った。
柱のように目の前に立ったレーザーが、突然、細かい格子状に分裂したのだ。
対竜サイズじゃない。明らかに対人間用。こんな芸当までできるのか!?
それは、分裂したことで僕の進行方向の大部分をカバーしていて、とてもじゃないけど横から回り込むのは不可能だった。完全に進路を塞がれた。もうダメだ――
な、わけねえだろォォォ!
僕はアルルカから渡された銛を腹に抱え込むと、前傾姿勢を保ちながらさらに踏み込んだ。
「女神様の加護と、ルーン文字の塊でできたナイトがあああああああ――!」
軌道そのまま。真っ直ぐ。弾丸のように真っ直ぐ。
クリオネのレーザー網が、視界一杯に広がる。
「海産物の古代魔法ごときにおくれを取るはずがないよなあああああああああ!」
飛び込んだ。
頭に、肩に、背中に、焼けた鉄の錐をねじ込まれるような痛みが走る。
いてええええええええええええええ!!!
僕は止まらずに走り抜けた。
もし鎧が耐えきれなければ、僕の体は溶断されるままに四散し、勢いよくバラバラに転がっていっただろう。でも僕は信じていた。激闘を潜り抜けてきたこの体の頑丈さを。仲間の力を。
通過は一瞬だった。
足元から蒼い火焔が立ち上る。
ここはもう心臓の真上だ。
「うおおおおおおお!」
防御姿勢を解いて銛を半透明の肉の中に突き込み、両腕を交差させる。
「第一のルーンバースト、これで終わりだあああ!」
両方の腕の付け根から走った光が、交差部分で混じり合い、魔力の混線を引き起こす。
現代ルーン文字の暴走と超兵器爆薬の爆轟は、青白く燃焼する心臓の真上に灼熱の球体を二つ膨張させ、上から完全に制圧した。
球形の直径は巨大クリオネの胴体を貫通して地面まで到達し、そのキノコめいた巨躯を中心部からへし折り煮沸、直ちに蒸散させる。
吹き荒れる雪片に交じって弾き飛ばされた僕は、激しく回転する視界の中、空と地上の間に定期的に現れる小さな火焔の華を見つめて、微笑まずにはいられなかった。
豪華な花火だ。
総力戦の勝利に、これ以上ふさわしいものはない。
これが『リジェネシス』でよかったな。『デッドスペース』だったらおまえ死んでるぞ。




