第百六十八話 コキュータル
町の奥へと進む僕らの前に、かろうじて形を保った家が見え始めた。
雪をかぶり、群青の空の色を映して蒼ざめてはいるものの、かつての町の形状を残す貴重な証拠だ。
でも、どうしてここらへんは無事な家が多いのか?
兜に取りつけた羽飾りが急に口をきいた。
「騎士、首尾はどうなってるの?」
落ち着いたアンシェルの声に、僕はカイヤの背中に揺られながら応答する。
「順調。町にいる敵はかなり減らせたはず。今、奥の方へ進んでる」
「町の様子は?」
「壊滅してる」
僕は包み隠さず告げた。
「でも、妙だ。町の端よりも、中心部に近い方が無事な建物が多い。どういうことだろ?」
「気をつけなさい」
アンシェルは固い声で警告してきた。
「村長から話を聞いてわかったけど、グレッサの町は、中心に大きな穴を持った、ドーナツのような全体像を持っているわ。住人たちはこの大穴を〈コキュートス〉、そこから這い出てくるヤツらをコキュータルと呼んでいるそうよ」
「〈コキュートス〉に、コキュータルか。なるほど。それで?」
「〈コキュートス〉の付近には、コキュータルを迎え撃つための施設が多くあったみたい。グレッサの民は、コキュータルの侵攻ルートをある程度コントロールしていたわけね。それを支えきれなくなって、町から逃げ出した。つまり、穴から這い出た直後は、ヤツらは一塊だったの。そこから町の外に向けて、扇形に分散していった形ね」
小学校で習った扇状地の写真が頭を過る。
山間を流れていた細い川が、急に開けた場所にたどり着いて広がっていく様子。
「じゃあ、無事な家屋が見え始めたということは……」
「穴の近くまで来てるってことよ」
「ちょうど何か見えてきた……!」
僕は天を仰いだ。
町の内側に、もう一枚、大きな壁がそそり立っていた。
多分、〈コキュートス〉を覆っている壁だ。どこかにわざと出口が用意してあって、そこにコキュータルを誘導していたのだろう。
壁の手前にある見張り台らしき尖塔に、大きな灯がともっている。
僕らが目指していた光だ。
灯の内側では、静かに燃える心臓が、ここまで不気味な鼓動を届かせていた。
青白い炎が、持ち主の輪郭を宵闇の空へぼんやり浮かび上がらせる。
そこに怪物が潜むことを、ある程度覚悟しているつもりではあったけど……。
「うそだろ、おい……」
なんであんな生き物が地上の塔に張り付いてるんだよ……。
誰も、何も言えないでいる。
鳥だ獣だというような、わかりやすい生物とは明らかに違った。
そこにいるのは、クリオネだった。
翼足と呼ばれる翼のような足を羽ばたかせて泳ぐ姿から「流氷の天使」とも呼ばれる海洋生物だ。貝の仲間ではあるけれど、殻は持っておらず、知らない人が見たらまったく別種の生き物に見える。
そいつが、尖塔にぺたりと抱き着くようにくっついていたのだ。
大きさは尖塔と同等。あの〈雪原の王〉と似たり寄ったりの巨体だ。
「な、何だかちょっと可愛いかも……。あ、いや、別に可愛いものが好きなわけではないぞ。一般論的にそうではないかと思っただけだ。うん」
アルルカが何やら言い訳しているが、あれの本性を知っている僕としては、彼女の純真さが可哀想に思えた。
「騎士様、やる?」
パスティスが、小首をかしげる可愛らしいポーズで問いかけてくる。……血まみれで。
僕は周囲の灯りを探った。
遠くからは群がっているように見えた複数の大きな灯は、近づいてみるとかなり距離があることがわかった。
ラスコーリは町は東西南北に分かれていると言っていたし、それぞれが別の区画の主として君臨しているのかもしれない。
こいつに仕掛けても、他の連中は寄っては来ないだろう。多分。システム的に。
「よし、やろう。パスティス」
「うんっ」
嬉しそうに微笑み、うなずく彼女。
「う、うむ。わかっている。どんな姿をしていても、や、やっぱり敵だからな……。わかり合うのは無理だよな?」
一方で戦士の一族はまだ幻想を見ている模様だ。
いくらクリオネが可愛くても、あのデカさは普通にやべーと思うんだけど。
と。
薄暗い空を、小さな影が横切った。
鳥のようだ。大きな翼を優雅に羽ばたかせ、巨大クリオネの近くを通り過ぎる。
クリオネが動いた。
尖塔に抱き着いていた体をゆっくりと反らし、巨大な頭部を、通り過ぎる鳥へと近づける。
「か、可愛いなあ。鳥と一緒に遊びたいのかな?」
この状況下でアルルカが夢見がちな発言をした直後だった。
クリオネの、赤ん坊のようなすべすべの頭部が頂上部でばっくりと割れ、中からバッカルコーンと呼ばれる触手が溢れ出て、鳥を掴み取った。
かつてお茶の間を震撼させた、天使の捕食シーンだ。
「ギャアアアアア!?」
悲鳴は襲われている鳥ではなく、隣のドワーフ少女のものだ。
鳥が暴れて抵抗するのも、一、二瞬程度の間のみで、触手に締め付けられ、その内側で何かを破裂させたような飛沫を拡散させた後は、ぴくりとも動かず半透明のクリオネの頭部の中に運ばれていった。捕食完了だ。
「あれは邪悪な生き物だ! 速やかに殺すぞ騎士殿!」
よし、やる気になった。
半泣きのアルルカに反応したわけじゃないだろうけど、短い食事を終えた巨大クリオネは、尖塔に引っ付いていた部分を完全に剥がし、町の上へと墜落してきた。
下にあった建物は轟音と共に舞い上がった雪煙に飲まれ、あっという間に見えなくなる。
落下の衝撃で生じた吹雪めいた雪交じりの突風が、時間差で僕らを襲った。
兜の表面で砕け散る雪の欠片を見ながら、そのずっと向こうで、爆発するような炎が立ち上るのを見た。
蒼い心臓。
クリオネが心臓を燃やしているのだ。戦いに備えて。
それはもう灯と呼べるような優しいものではなく、凍てつく国で燃え盛る氷の炎のようだった。
再び気流が乱れる。
「う、おおっ……!」
僕は思わず驚嘆の叫びを上げていた。
クリオネが羽ばたき、浮き上がったのだ。
建物が飛び上がるような現実感のなさ。
そして再び地面に落ちる。飛ぶというより、跳躍の方が近かった。
衝撃と地鳴りが押し寄せる。
再び舞い上がる雪煙の中を、鋭く引き裂く音が鳴った。
この音は――!
「触手を伸ばしてる! 捕まるな!」
僕が叫ぶと、仲間たちがぱっと散開した。
捕まれば、さっきの鳥と同じようにヤツの口に運ばれてしまう。
けれどそれは勘違いだった。
僕のすぐ近くに振り下ろされた半透明のバッカルコーンは、こちらを絡み取ろうなどという意思は微塵も見せず、積もった雪ごと地面を叩き割ってみせたのだ。
触手によるアレなシーンなど興味はないということか!? この全年齢対象者め!
「胴体側に回り込め! 狙いは燃える心臓だ!」
この状況下で僕の声が届いたかどうかは、はなはだ心許ない。
太鼓のバチのように断続的に振り下ろされる触手が、町の南エリアを丸ごと打楽器の一つに変える。打擲のたびに、衝撃と轟音で町がびりびりと震え、建物に積もっていた雪が崩れ落ちる。
僕の眼前で、民家が叩き潰された。
「ふんぬうううう!」
逆手のカルバリアスで思い切り触手を切り上げてみたものの、半透明の表面に浅い切り込みが入るだけで、クリオネが痛みを感じた様子もない。
クソッ、サイズが違いすぎるか。
切りつけた触手が地面でうねり、僕へと迫った。早いし、でかい。避けきれない!
なら――
「力比べだ、この野郎!」
僕は聖剣を地面に突き立て、それを受け止めようとした。
勝ち目はないだろうけど、気持ちで負けるかタコが!
が。インパクトの瞬間、突風が僕の体を空へとさらい上げた。
「アディン!」
キリキリキリ……。
後ろ足で僕を捕まえたまま、嬉しそうにのどを鳴らしたのはアディンだった。
眼下の町が野太い触手で薙ぎ払われる音を聞きながら、視線を周囲に向けてみれば、ディバに乗ったパスティス、カイヤごとトリアに摘まみ上げられたアルルカの姿もある。
全員が竜に乗った。それならここからは正真正銘のドラゴン戦だ。
僕は脚を伝ってアディンの背中へと這い上がった。
すぐ横の空間を暴風が撫で切っていった。クリオネが触手を空に伸ばしているのだ。
あれに巻き取られて捕食されれば、さすがのサベージブラックでも一巻の終わりだろう。僕らは言うまでもない。
「アディン、上から狙い撃て!」
僕が背中を軽く叩いて上を指さすと、アディンは一鳴きして高度を上げる。ディバとトリアもそれに続いた。
いくら触手が強力でも、届かなければ意味はない。
そしてあの鈍重な動き。飛び道具の格好の的だ。
リーン、リーン、キーン……。
三匹の竜が空中で巨大な照準円を描く。下には町があるけど、こいつを吹っ飛して安全を確保できれば、被害総額には釣りがくるだろ!
暗澹の空が一瞬輝き、一本の光の矢を招き入れた。
トリニティエコー式ライトアロー!
間近で見る破壊の嚆矢は、闇ごと世界を焼き尽くす炎の柱にも見えた。
僕は咄嗟に身を乗り出し、下方で横臥するクリオネの最期を見届けようとする。
瞬間、揺らめいていた半透明の触手の表面を光が走った。
古代ルーン文字!
こいつも〈雪原の王〉と同じものを持っているのか!?
あのヘラジカは魔力の傘を作って、アディンたちの魔法を反射、拡散させた。同じことをされたら、今何とか残っている町は今度こそ更地になるだろう。
が、クリオネは僕の予想を超えた動きを見せた。
半透明の体表を覆った魔法の文字が光を全体に行き渡ると同時に、無数の触手の先端から膨大な輝きを撃ち放ったのだ。
まるでロボットものに出てくる、大出力のレーザーキャノン。
その放出に間断はなく、触手が上向くと同時に、町と空が、無限のリーチを持つ刃に切りつけられたように青白く灼熱した。
刃の切っ先は、ただ一点に集中する。
アディンたちが撃ち下ろしたライトアロー。
裁きの火のように落ちてきた竜の魔法を、束ねられた古代ルーン文字のレーザーが迎え撃つ。
輝く鏃と剣先が衝突し、この世のものとは思えない肉厚の爆光を〈ダークグラウンド〉の全域へと充満させた。
シン・クリオネ
このレーザービームはもちろん光速より遅いです。




