第百六十五話 休息ポイント
後ろ脚だけで立ち上がったヘラジカが前足を地面に振り下ろし、雪原に地響きを巻き起こした後で、僕らは奇妙なものを見た。
角の一部をかじり取られて怒り狂っているだろう蒼い心臓が、徐々に光を弱めていったのだ。
唐突に踵を返し、ヘラジカはその巨体を群青の闇の中へと沈ませていった。
退いた……。
撃退というよりは、勝負を預けられた感だけが残された。
必ずまた戦うことになるだろう。サベージブラックと同等の怪物と。
「トリア!」
僕ははっとなり、慌てて竜の三子の元へと駆け寄った。
パスティスを乗せたディバと、アディンが、すでに集まっていた。少し遅れてアルルカが駆け寄る姿も見える。
キリリリル……。
トリアは億劫そうに首を振った。
看ていたパスティスが、
「大丈夫。目を回した、だけ、だって……」
と、子竜の症状を教えてくれた。
「よかった……」
安堵の息を吐く。見た限り、トリアの黒い体表にも傷らしきものはない。ヘラジカの角は針のように尖っているわけじゃないけど、あの巨体とあのパワーだ。並の生き物が打たれれば、柔い雪玉のように砕け散ることになっていた。
それを目を回しただけとか、ええと、この子たち本当にまだ子供なんだよな……? え、最終的にどれくらい強くなるの?
「騎士様。ありが、とう……」
パスティスが突然僕の手を握ってきた。
「ど、どうしたの?」
「トリアのこと、助けてくれた……」
「そんなの当たり前のことだよ。それより、パスティスたちこそ凄かった。あの鹿の角を――」
「それより、じゃ、ないよ」
彼女にしては珍しく、ぴしゃりと僕の言葉を遮った。
「アシャリスと、アルルカのこと見てて、思ったの。子供が死んじゃう、って、ほんとうに、悲しい。どうして、自分が生きてるのか、わからなくなる、くらい。戦ってるから、危ないのはしょうがないけど……でも、助けてもらえて、本当に、嬉しかった」
「パスティス……」
「トリアも、ちゃんとお礼、言って」
クルクルクル……。
トリアがのそりと近づいて、僕の鎧に体をこすりつけてきた。
「よしよし……」
撫でて応えてやりながら、ふと、トリアの表皮に白いものが載っているのを見つける。雪かと思い、撫でるついでに払い落としてやろうとすると、指に変な引っかかり方をして取れた。
キューと、トリアが変な鳴き声を上げる。不思議そうにこちらを見てくるので、僕は「ごめんごめん」と謝りながら、皮膚から剥がれた白い何かを顔の前に示してやった。
「何だろう、これ?」
「鱗みたいだが……」
横からのぞき込んだアルルカが言う。
わずかな明かりを求めて、暗い空にかざした。
確かに鱗のようだった。サベージブラックの幼体には鱗がない。だとしたら、これはトリアが大人になりかけているという証なのかもしれない。色が白いのも、まだ不完全な鱗だったせいか。剥がしてしまったのは悪かった。
そういえば、パスティスも〈ヴァン平原〉の町で鱗を落としてたっけな。案外、ぽろぽろ取れるものなのかもしれない。
僕は記念にその白い鱗を取っておくことにした。あわよくばDLC天使どもの取引に使えるかもしれんしな……ククク。
「それで、次はどうする? このまま進むか? それとも、コースを変えるか?」
アルルカが聞いてきた。
あのヘラジカは、方角的には、僕らが目指す町の方からやってきた。
あんなのが群れでいる可能性は考えたくないけど、それ以外にもこの大陸は何かがおかしい。
『Ⅰ』のラストステージに現れた怪生物と同じ、輝く緑の体液を持つヘラジカ。あるいは、最初に見た蝶もそうだったのかもしれない。
悪魔の兵器ではないが、より悪魔と密接な関係――〈契約の悪魔〉とも近しい存在と考えることもできる。
用心を重ねて損はない。引き返すのはなしにしても、迂回くらいは……。
《こんな森の中に、人の住まう村を見つけることになるとは。雪原を闊歩する生物たちがそうであるように、ここの人々もどこか奇妙だ。しかし、わたしと女神は快く迎えられた。町を目指すにあたって、ここで得られる情報は、得難いものになるだろう》
「森の中に村が……?」
主人公のつぶやきを思わず反復すると、それを聞いた仲間から驚きの声が上がった。
「そう、なの……?」
「本当か、騎士殿」
ああ、主人公のモノローグは他の人には聞こえないんだった。
けれど、これは珍しく頼りにしていい情報だ。僕はうなずき、周囲の森の探索を提案した。
トリアはすぐに元気になり、カイヤに乗った僕らのまわりを、他の竜たちと一緒に飛び回りだした。タイニー号も僕らを中心に走り回っており、空陸の警戒網はさらに凶悪になっていた。
町の前に村か……。
再びカイヤに揺られながら思う。
1stステージの中間地点といった趣か。こういった趣向は『Ⅰ』の山岳エリアにあった。たどり着いても町づくりは始まらない。1stステージが長い場合の、プレイヤーの休息ポイントといったところだ。
村人はグレッサの民だろう。間違いなく。ゲームでは休み時間にすぎなくとも、僕らにとっては重要な情報収集の場所になる。
雪原にいる奇妙な生物の正体。
古代ルーン文字との関係。
この空の暗さ。
聞きたいことは山ほどある。
そもそもグレッサの民とは何なのか、という最初の疑問も忘れてはいけない。神々の怒りを買った理由。一体いつからそんなことになっているのか。彼らへの謎も多い。
それにしても、今回、主人公はかなり早くにゴールにたどり着いたな。
そもそも、アディンたち抜きでどうやってヘラジカを攻略した? 初見で撃退できるような相手じゃないぞ。こっそりリックルでも引き抜いたのか? いや……あのパンダにそれはないな。
キリリリ……。
竜たちが鳴きだした。パスティスが「あれ」とつぶやき指をさす。
前方の樹氷の隙間に、暖かな橙色の光が見えた。
※
村発見の一報を受けて、リーンフィリア様とアンシェルも地上に降りてきた。マルネリアも一緒だ。
「け、けっこう寒いですね……」
温室育ちのリーンフィリア様は、雪原の冷気に早速震えだした。
「とりあえず、こいつがあったかいので抱いておいてください」
僕がアンシェルを押し付けると、女神様は、不適切な顔つきになった天使を抱きしめて暖を取る。まずいな。足は白タイツのおかげで多少大丈夫だろうけど、腋は無防備だ。もしリーンフィリア様が腋をしまってしまったら、世界は闇に閉ざされる(断定)。
「騎士殿、人がいるよ。行ってみよう。きっとグレッサの民だ」
一番寒さをナメた格好をしているわりに、女神の加護のおかげで元気なマルネリアが、一番乗りに村へと駆けだした。謎に包まれた暗黒大陸について調べたくて、うずうずしているのがわかる。
彼女が言うように、人々は村の入り口に集まっていた。
全員が分厚い毛皮のコートに、ウシャンカと呼ばれる耳つき帽子のようなかぶりものをした完全防備。それでもどこか寒々しく見えるのは、昼なお暗い大陸で暮らす彼らの心細さが表れていたからなのかもしれない。
「おおーい」
マルネリアが陽気に腕を振りながら彼らに近づいていく。敵意のないアピールはあれで十分だろう。あんな格好で、雪女と勘違いされていなければ。
そんな彼女に対し、最初、村人たちは戸惑った様子を見せた。グレッサの民は世界の歴史から抹消されている。外から人が来ることなど長らくなかったのだろう。
しかし、リーンフィリア様の姿を見ると、態度を一変させて、村の入り口から駆け寄ってきた。彼らは膝で滑り込むように、彼女の前にひざまずいた。
「まさか、神族の方が再びこの土地を訪れることがあろうとは……」
目元も口元も豊かな白い毛で隠れた老人が、代表するように声を震わせた。
身なりや態度から見て、村長かもしれない。
「しかも……」
彼は、僕らを一人ずつ確かめるように見つめる。その目線は、最後尾にいるアディンたちにまで続いた。
「このような若々しく逞しい戦士たちまでお連れになって……。こんな日が来ようとは、本当に夢にも思っておりませんでした……」
村長は地面を両手について、その場で泣き崩れんとする勢いだった。
リーンフィリア様は優しい語り口で、
「あなた方のお話はセルバンテスから聞きました。さあ、体が冷えないうちに立ってください。そして、その……できたら温かいところに行きましょう。いえっ、決してわたしが寒いからというわけではなくてですね……」
「これはとんだ失礼を! わしの家へいらしてください。狭苦しい場所ですが、寒さはしのげると思いますじゃ。お連れの方々も、さあどうぞ。せん――竜たちももちろん歓迎いたします」
女神様たちがほっとした顔で村長宅に案内される中、何気なく僕に近づいてきたマルネリアが小さな声で話しかけてきた。
「騎士殿、聞いた?」
「聞いた」
囁き返す。
「あのおじいさんは、ボクたちをお連れの人と表現して、アディンたちを別な呼び方で呼ぼうとした。何かわかる?」
「多分――戦士」
マルネリアは目を猫のように細め、ニヤリと笑った。
「あの時のストームウォーカーと同じ呼び方だ。この村、ゼッタイ何かあるよ」
さっきの能天気さとは裏腹に、そこには、どんな小さなことも見逃さない魔女の狡猾さが浮かび上がっていた。
セーブポイント&ロード時間稼ぎかな?
※お知らせ
ちょっと予定が早まったので、投稿間隔が空きます。(隔日~2日くらい?)




