第百六十三話 雪虫
『Ⅰ』の雪原エリアの話をしよう。
そこでは、短い夏に思いきり働き、冬はずっと家で閉じこもるという暮らしをしている人々の日常が、牧歌的に描写されていた。
夜が長く深い彼らは、気を紛らわせるために、多くの物語を語り継いでいた。
いずれも口伝で、しかも家によって伝わり方が変化していくものだから、あっちではハッピーエンド、こっちではバッドエンドみたいな違いが方々にある。
公式では“話語りの町”とあり、時折挿入されるそれらの温かい語りと相まって、非常にメルヘンチックな雰囲気なマップだった。
が、物静かな設定とは裏腹に攻略はなかなか難物で、口伝のストーリーの結末を巡って町人たちがしょっちゅう衝突し、町の発展をたびたび妨げてくる。
しかも、プレイヤーはシステム上直接彼らを仲裁する手段を持たないため、一番手っ取り早い方法は、神の奇跡で落雷を食らわせて双方を仲良く(天国送りに)させることに限定されていた。
現実ではとても選べない選択肢だけど、作り自体は浅い『Ⅰ』のクリエイトパートにおいて、不和イベントは純粋にデメリットしかないため、時間経過での寛解を待つより、そっちの方がずっと効率的なのは確かだ。
しかもこのやり方は、前にも言ったかもしれないけど、あらゆる町づくりパートで通用する万能の解決法なもんだから、他人のプレイ動画とかから『リジェネシス』を知った人の中には、リーンフィリア様を荒ぶる雷神だと勘違いしている輩がいるとか、いないとか。
しかし――
ここまで語っておきながら、僕がこの雪原を見て強く連想するのは、“話語りの町”ではなく、前作のラストステージ〈蒼い荒野〉の方だった。
そこは草木も生えないグランドキャニオンみたいな荒れ地で、画面全体が文字通り真っ青に表現されている。今の光景と同じだ。
女神の騎士は、世界中から集った仲間たちの進撃の先鋒としてここを突き進んでいくわけだけど、このエリアでは何から何まで異質だった。
フィールドには常に小雨が降っていて、BGMは最初、ノイズのような鈍い重低音がずっと流れるだけになっている。それだけでも結構怖いのだが、いざイントロが始まると、ガムランという楽器による、どこかリズムの狂った音が不気味に鳴り響き、そこから他の楽器のパートが一つずつ追いついて、シンフォニックなメロディーに変わっていくという、ゲーム中随一の怪曲ぶりを発揮するのだ。
進んでいくと荒野が突然歪み、そこには決してないはずの帝国の町並みのマップに強制移行するという演出とも強烈にマッチしていて、当時の僕に、音楽には人を恐怖させる力があることを、初めて教えた楽曲となった。
モブ敵もこれまで戦ってきた悪魔の兵器ではなく、どこか虫を思わせる怪生物が、地面の亀裂からわらわら這い出して来る。切り倒すと、緑に発光する体液をぶちまけ、ますます別世界の生き物という印象を抱かせた。
実際、ラスボスである〈契約の悪魔〉と、こいつらの関係は明かされていない。ラストステージにして、実はもっとも謎めいた決戦場だった。
その秘密は、あるいは、この『Ⅱ』で明かされるのかもしれない。
もしそうなら……コレするしかない。
期待していいかどうかはわからないけど。
※
がしんがしんと、金属の足が地を蹴る音が続いていた。
「カイヤの開発が間に合ってよかった。これなら雪原も苦労なく進める」
僕は下に見えるアルルカの頭に感謝を述べる。
「ありがとう、アルルカ」
隣に座るパスティスもそれに倣い、手を伸ばしてアルルカの頭に積もった雪をそっと払ってやる。
現在、僕ら二人は、カイヤの背中に装着された、丸っこいパーツの上に乗せてもらっている状態だ。
「雪は綺麗だが、砂漠よりも歩きにくいものなんだな……」
アルルカはぼやきつつ、カイヤと連動した足を動かし続ける。
雪原は見ているだけならとても綺麗だけど、渦中にいる者たちにとっては厄介極まりない場所だ。
フィールドの降雪は穏やかで、積もった量も数十センチ程度にとどまっている。人が埋もれてしまうほどじゃないけど、これだけでも従来の歩行が困難になる厚みだ。
抜き足差し足にまとわりつく雪が、行軍速度だけでなく、体力も着実に奪っていく。それを避けるためには、パーティーの先頭の一人がラッセルといって雪を踏み固めていく作業をする必要があった。
この重要性は「ラッセル泥棒」なる言葉が端的に表している。登山などで、人が苦労して踏み固めた道を、別パーティの人間が楽々通っていくことだ。踏み固められた雪道は、もはや「奪われた」と感じてしまうほど貴重な財産なのだ。
幸い、カイヤの力強い歩行は、この程度の雪ならさして苦にしないようだった。僕とパスティスは周囲に目を凝らしつつ、アルルカを前進に専念させる。
時折、周囲を鋭い風が通り過ぎた。
アディンたちだ。
薄暗い周囲に溶けたサベージブラック三匹が、STGで自機を取り巻くオプションのように、僕らの周りを警戒してくれている。
オプションというには、あまりにも強大な戦力だが。
この布陣、もうこのままラスボスまで突っ込んでもクリア可能な盤石さを僕に自負させる。
アンサラーを油断なく構えつつ、目指す灯りがまだまだ遠くにあることを目で確かめた。
薄暗い常夜の世界で、冷えた色の光に彩られるそこは、幻想的な美しさとは対極のイメージがある。
死者の町。
光はすべて鬼火で、セルバンテスたちが案じた同胞は、彼らが上陸できない間に、とっくに滅び去っていた――そんないやな予感すら、絵空事では済まなく思える。
でも、行かないわけにはいかない。
カイヤの駆動音と、雪を踏む音だけが規則的に流れた。
いやに静かなのは、雪が音を吸っているからだろう。
何だか本当に世界は死に絶えて、僕たちだけが寂しく旅をしているような気持ちになってきた。
ふと、視界の端を何かがよぎった。
何気なくそちらを見、僕は驚きを口からこぼしていた。
「……虫。蝶……?」
雪片に紛れて羽をひらめかせるのは昆虫の蝶のようだった。
思わず伸ばした手をするりと抜けて、雪と群青の薄闇に消えていく。
「どうし、たの?」
「蝶がいた。この寒さに虫なんて……」
いるはずがない。
「騎士殿、パスティス、前から何か来るぞ」
突然、アルルカが警戒を発した。
僕は急いでアンサラーを正面に向ける。
柔らかい無数の羽が僕らを飲み込んだのは、その直後だった。
「うわっぷ……!」
今度こそ間違いなく蝶だ。蝶の群れだ。数千、いや恐らくそれ以上の蝶たちが、雪と共に僕の視界の中で激しく乱舞する。
何で雪の中にこんなに虫が飛んでるんだ!?
驚かされはしたものの、害意は一切感じられなかった。たまたま彼らの集団と行き会ってしまっただけらしい。蝶の群れはあっという間に僕らを通り過ぎていった。
「何だったんだ……?」
カイヤの腕で顔をガードしていたアルルカが、呆れたようにぼやく。
「騎士、様」
パスティスがくすくす笑って、僕の肩のあたりを指さす。
見れば、一匹の蝶がとまっていた。はぐれたらしい。
ん……?
まじまじと見て、その異変に気づく。
「この蝶……中身が透けてる……?」
最初は模様かと思ったけど、違う。
まるである種の深海生物のように、蝶の中身が透けて見えた。
何だかよくわからない器官がびっしりと詰まっている。
虫の内臓なんて知らないけど……でもこれは、多分、普通のとは違う。
なぜなら体内に、全体のサイズに比べて明らかに不釣り合いな巨大な臓器を持っていたからだ。休みなく脈動し続けるそれは心臓に見えた。
蝶はすぐに音もなく飛び去っていった。
「みんな気をつけて。悪魔の兵器とは違う、変な生き物がいる」
僕が警戒を促した直後、どさりと音がして、アディンたちが地面に着地した。
グウルルルル……。
三匹が揃って、威嚇するようにのどを鳴らした。
「何か、来るって……。攻撃、させる……?」
パスティスが素早く竜たちの意図を読み、僕に聞いてくる。
さっきの蝶は無害だった。危険だけど、少し様子を見たい。
「出方を見よう。少しでも身の危険を感じたら仕掛けていい――」
僕の返答の尻を、ドンという重低音が飲み込んだ。
地震じゃない。
この手の震動は、こっちの世界に来てからいやというほど体感してる。
足音だ。巨大な何かの。
正面。青ざめた空の色を映して染まる雪は、ある一定の範囲から先、暗闇に断たれて消えている。
その動かぬ闇から、ぬうっと最初に現れたのは。
角。
「…………!!」
巨木の枝先を思わせる大きな角が、闇からずるずるとせり出てくる。
終わらない。まだ出てくる。まだ、まだ……。
まるで本当に木の枝のように長く、無数に分岐している。
しかもその角は。
「また半透明だ……」
角の内部に血管らしきものが走っているのがかろうじて見て取れた。
ブルルル……。
いななくような音がして、ついに角の持ち主の顔が光の中に抜け出た。
「鹿……?」
日本人が鹿と聞くと、ほっそりしてしなやかな馬のような動物を想像するけど、こいつは違った。
ヘラジカ。
それに近い。
ヘラジカを鹿せんべい食ってるヤツと一緒にしてはいけない。
馬というよりは牛に似たどっしりとした体に、風景との対比に違和感を感じるほどの巨大さはもはや実在する怪獣だ。
足が長く、車でぶつかるとちょうど胴体がフロントガラスに落ちてくる形になって、運転手が死ぬ。
それが今、マジで怪獣レベルの大きさになって、僕らの前に現れた。
仲間たちが凍りつくのを感じる。
単なる巨大生物なら、いくらでも戦ってきた僕らだ。
でも前方に現れたこいつは、これまでに見たどんなヤツとも違う。
半透明の体毛と皮膚の下には内臓が透けて見えていて、しかもそれらは、顕微鏡で見た微生物の中身のような、到底哺乳類のものとは思えない、奇怪な形をしていた。
これだけ中身がはっきり露見しているのに、骨格の類が見えないのも不可解だ。
そして、蝶も持っていた、巨大な心臓――
悪魔の兵器じゃない。でも、普通の生物でもない。
何なんだ、この土地は? 何でこんなヤツらがいるんだ?
クアアアアアアアアオオオオオオオオ。
ヘラジカが首を大きくもたげ、重々しく鳴いた。
瞬間、透けて見ている心臓が勃と蒼い炎を宿し、激しく脈動する。
突風が、舞い散る雪と共に僕の体を揺さぶった。
それは恐らく、こいつの殺気だった。
ガアアアアアアアアアア!!!
相手の威嚇にいち早く反応したのは竜たちだった。
ヘラジカの咆哮に対抗するように吠えると、ぐっと足に力を込め、一瞬後には砲弾のスピードで躍りかかっていた。遊びなし。完全に敵とみなした俊敏な動きだ。
だがそのサイズ差は圧倒的だった。
アディンたちは、尻尾を入れなければ三メートルほどのサイズ。対するヘラジカは二、三十メートルはありそうで、なおかつ体高もある。
それでも。これまで竜たちは、どんな巨大な敵でも最終的に葬ってきた。
今度もそうなる――僕はどこかでそう思っていた。
グアアア!
先頭のアディンがヘラジカの顔目がけて腕を振り上げる。
ヘラジカの視線が、恐らくその爪に集中したであろう瞬間。残りの二匹が、アディンの背後から左右に散るように飛びかかった。
フェイント!
一匹目が相手の注意を引いて、残り二匹の攻撃が本命。いや、囮の一匹目すら必殺の威力を持っている。これはもう対処不能のハメ技に等しい。挑んだヤツが悪いレベル!
二つの黒いつむじ風が、巨獣の左右から背中と肩を間違いなく切った。
しかし、ヘラジカは揺らがない。
ダメージを負った様子もない。
体毛に防がれたのか……!?
その結果を一番わかっているのは、竜たち自身だった。間を置かずに再度躍りかかろうと地を蹴った瞬間、ヘラジカが巨体に似合わぬ俊敏さで首を振り、それらを弾き散らした。
地面に叩きつけられる前に体勢を立て直したものの、着地後数メートル、雪煙を上げながら衝撃に引きずられた破壊力は、あの大きさが伊達ではないことを物語っている。
リーン、リーン、キーン……。
サベージブラックは速やかに次の策を講じた。
アディンが口腔からガラス鐘のような高音を発し始めると、ディバとトリアもそれに唱和する。
トリニティエコー。三匹の竜が独自の詠唱法で声を重ねることによって、基礎的な攻撃魔法を異次元の破壊力へと押し上げる、アディンたちの必殺技。
三匹が雪を蹴って飛んだ。
ヘラジカの上空で、照準のリングを作るように旋回を始める。
すぐに光の矢が落ちてくるぞ――!
その時、ヘラジカが身構えるように頭を下げた。
「!!?」
僕は目を見開く。
二本の巨木そのものである角の根元から先端まで、青白い光が、幾何学的な模様を描きながら走ったのだ。
いや、あれは模様じゃない――ルーン文字……!!
しかもストームウォーカーに書かれていた古代ルーン文字だぞ!?
「どうしてこの鹿が……!!」
僕が毒づいた直後だった。
アディンたちが描く円の中心を撃ち抜くように、光の矢が地上へと放たれた。
来たっ!
対するヘラジカも角を天へと振り上げる。
瞬間、青い軌跡で描かれた傘のようなものが一瞬見え、両者の接触と同時に、沸き立つ油のような激しい光の中へ消えた。
矢の白と傘の青が弾け、混ざり合い、バチバチと紫電を走らせる。
受け止めた……!?
しかしそれだけでは終わらなかった。
受けられた竜の魔法が、突然、噴水のように弾け散ったのだ。
「うおおおおお逃げろおおおおお!」
「うわあああ!」
僕が叫ぶと、アルルカは慌ててカイヤを後退させた。
跳ね返された光の矢が、無数のつぶてになって雪原に降り注ぐ。
小さく砕かれたとはいえ、本来、エリアボスを丸ごと消し飛ばす攻撃魔法だ。破片の一つ一つがありえない威力を持っていて、あちこちで雪交じりの火柱を立ち上げさせる。
僕らが何の被害もなく範囲から逃げきれたのは、幸運としか言いようがなかった。
ブルルル……。
それらがようやく収まり、舞い上がった雪と蒸気に周囲が白く包まれる中、ヘラジカの青い心臓だけが、僕らを圧倒するように輝いていた。
すさまじいパワーと耐久力。
加えて、古代ルーン文字まで操る。
とうとう……アディンたちに匹敵する生物が現れた。
投稿したその日にちゃんと読んでもらえるとか、作者は幸せ者です。
またすぐに投稿できなくなりそうなので、間隔詰めてやっていきます。
ヘラジカは魔物(真顔)




