第百六十二話 蒼雪
その日。
異変はすでに空から始まっていた。
「あっ、リーンフィリア様」
空飛ぶ女神神殿の端に立っていた僕は、母屋から駆け出てきたリーンフィリア様を見て、咄嗟に質問を投げかけていた。
「この空は一体何なんでしょうか?」
「わたしにもわかりません」
恐らく僕と同じ理由で戸惑い顔の女神様は、残念そうに首を横に振った。
視線を戻し、断ち切られたような神殿敷地の外に広がる、無窮の空を見つめる。
――夜。
そう思えてしまうほど、前方の空は黒ずんでいた。
今は昼にも関わらずだ。
雲より高い位置にある神殿は、基本的に天気の変動というものがない。そしてこれはまったく理屈に合わないことなのだけど、太陽は普通に上って南中し、やがて沈む。この間、地上では四十回の日の出と日没が繰り返されているはずなのにだ。このあたりは真面目に考えると頭がおかしくなって死にそうなので、そういうものだとスルーするが。
問題は、年中穏やかなスカイブルーに包まれている日中の天界に、暗闇の空が存在するということだった。
まるで、そこから先は太陽の光が――加護が――届いていないとでも言うように。
「変な、空……」
パスティスがつぶやくと、足元にいるアディンたちも不穏な唸り声を上げる。
「〈ダークグラウンド〉はあの空の下にある。未踏破だから暗黒地帯と呼ばれてるんじゃなく、実際に暗いなんて、名付けた人は知ってたのかな?」
マルネリアが真剣な声で言えば、
「誰も知らない土地だ。何があっても不思議じゃない」
アルルカが緊張した面持ちを空の彼方へと向ける。
神々の怒りを買ったグレッサの民。世界から忘れ去られた彼らが住む〈ダークグラウンド〉。太陽すら照らしきれない暗い空。
まだ踏み入れてもいない大地に、僕らは異様な何かを感じ取らずにはいられなかった。
緊張感に、僕らの間から会話が途絶えた、その時。
「みんな、ごはんよ」
『わぁい』
アンシェルの呼びかけに、全員が明るく振り返ったのだった。
※
「〈オルター・ボード〉はいつも通りか」
エリア最初の一戦。橋頭保を作るための1stバトルフィールド突入を前に、僕らは入念な準備の中にあった。
天界から支給された〈オルター・ボード〉は、明確な命令違反を犯した今でも普通に機能した。まず、神殿で〈ダークグラウンド〉を目指しても何も言われていない段階で、いきなり手を出してくるようなことはなさそうだ。減点だけはされてそうだけど。藁蛮神様が。
意外なことに、この空の旅の安全を請け負ったのはアンシェルだった。
天界は直に手を出しては来ないだろうと。
僕としては、神殿は危険と判断し、セルバンテスたちの船を使う計画もあったんだけど、そちらには、〈ブラッディヤード〉から〈ダークグラウンド〉まで半年以上かかるという大きなデメリットがあった。
時間がかかりすぎるし、神がガチで怒ったのなら、大海原のど真ん中は逃げ場のない処刑場に変わる。嵐で仲間が散り散りになって、世界を巡って再会していくイベントをやっている時間的余裕はない。だから、空が使えるのは単純にありがたかった。
「何も見えないようだが……」
アルルカが物珍しそうにボードをのぞき込んできた。彼女が〈ブラッディヤード〉で見ていたものは、すでに大半の土地が町で占められていたエリア後半の俯瞰図だ。
「最初はね。でも僕らが地上に降りて探索すれば、どんどん靄が晴れて、土地の様子がわかるようになるよ」
そう説明した僕は、アルルカの背後に立つ、アシャリスの骨組みのような超兵器を見る。
僕らと一緒に戦うために、ここで組み上げられたアシャリス三号機「カイヤ」。
パーツの有限性や調達性を考慮し、アシャリス一号機よりもちゃんと「着る」という形に近くなった、いわゆるパワードスーツだ。
今まで顔しか出ていなかったアルルカだけど、カイヤではほぼ全身が剥き出しで、機械の腕部と脚部に自身の四肢を通すことで、己の動きを超兵器に追従させる仕組みになっていた。本人はS字型に曲がったアシャリスの背骨に腰掛ける形になり、どこか、巨人の膝の上に座る人間を連想させた。
最初、アルルカは資材がインゴット分しかないことを憂慮していた。これまでのようにパンジャンドラムや砂漠魚雷をほいほい使えなくなったからだ。
が、僕が、資源が制限されているからこそ創意工夫で技術を開発していった民族がいると教えてあげたら、はっとした顔になって、すぐさまこのカイヤを組み立ててみせた。
その結果、サイズは三メートルほどと小型化に成功し、デンドロビウムのパクリの根源――もといオマージュの象徴である巨大コンテナも背負っていない。これはカイヤがアノイグナイト未搭載で、他の超兵器を制御する力を持たないからで、アルルカはこれについて性能低下ではないかと少し悩んでいたようだ。
が、僕との世間話後、彼女はこの超兵器制御の機能をさっぱりと諦めた。アシャリスが言った「前のアイデアに引きずられすぎ」という苦言が早速活きたのかもしれない。
結果、現在の主な攻撃方法は、特大スティックによる打撃および、両腕に取り付けられた大型ボウガンとなっている。他にも秘密兵器を搭載しているとのこと。
現段階での攻撃性能は一号機二号機に劣るけど、僕らにとって嬉しいのはアルルカという仲間であり、これから彼女が発展させていく可能性の方だ。
アルルカ先生の次回作にご期待ください!
「よし、行こう」
僕とパスティスとアルルカが神殿の縁に立つ。
「本当に降りて大丈夫なのだろうか」
カイヤを身にまとったアルルカが引きつった笑みを僕に向けてきた。僕とパスティスには慣れた降下だけど、アルルカは今回が初めてだ。
「大丈夫さ。心配いらない」
彼女もリーンフィリア様の力によって従者になり、その加護を受けられる身となった。カイヤも、まあ装備の範疇とみなされて、着地のショックは中和されるだろう。
「今回は最初からアディンたちもつれていく。何が起こるかわからないからね」
眼下に広がる空は、すべてが群青色になっていた。澄んだスカイブルーは、もう神殿のはるか後方にしか見えず、僕らが異常な空域にいることをいやでも自覚させる。
手加減は無用だ。
「行ってきます!」
リーンフィリア様に向けてそう宣言すると、軽く地を蹴って頭からダイブする。一瞬遅れてパスティスも身を投じ、逡巡分、さらに後になってからアルルカの巨影も飛んだ。
雲海に飛び込んだ際の冷たさが、金属の隙間を通って肌身を撫でていく。
クルクルクル、クルルルル……。のどを機嫌よく鳴らしながら、三体のサベージブラックが自由落下の中で翼を遊ばせ、みんなとの落下を楽しむ余裕を見せる。
さあ、この下にはどんな世界がある?
暗く湿った雲の中を落ちること、ほんの数秒。
突き抜けた。
「これは……!」
僕は思わず声を上げた。
雲を抜けると、雪だった。
「何だここ……!」
かつてアスファルトの道路から舞い降りる雪を見上げていた僕は今、それらをフリーフォールの速度で上から切り裂く騎士をやっている。
雪片の砕ける音と、大気が押しのけられていく圧を同時に感じながら、体勢を変えて周囲を見回す。
異変は空だけではなかった。
蒼い。
僕らと共に落ちていく雪も、下に見える大地すらも、どこか蒼く見える。
北の最果ては、蒼く、暗い土地だった。
《すべてが凍てつき、青ざめる。天がもたらす熱と光に拒まれた大地は、世界の最後を切り取った光景に似ていた。人も、獣も、神々さえも去り、残されるのは、恐らく、音もなく降り積もるこの色彩だけだった》
どこか物悲しい主人公の語りを聞きながら、僕はあることに気づいた。
ボイスがあるということは、これは正規のストーリー。僕がごちゃごちゃかき回さずとも、女神の騎士はここを訪れることになる。それはつまり、リーンフィリア様は自らの判断で天界の指示を蹴ってここを目指すってこと。
僕の個人的な意見は不要か。少し悔しいが、さすがだ。やはり女神様は格が違った!
無邪気に風に舞う雪を割りながら、僕らは落ちていく。
雪の降りはそれほど激しくなくとも、空の暗さもあって見通しは悪かった。これでは、降下中にエリアの様子を探るのは無理か……。
「んん……?」
地面が迫る中、遠くに光を見た。
鬼火を思わせる淡く青白い光は一か所に密集し、薄暗い世界に、何かの輪郭を浮かび上がらせている。
町……? 町の灯りか?
そう考えた直後、降下スピードがぐっと落ちた。女神様の力が働き、着地を保護してくれようとしている。地面が近い。
接地。
緩和されていない位置エネルギーが地面で弾け、降り積もった雪をすり鉢状に抉り取る。同心円状に雪の波紋が広がる中、
「アンサラー」
僕は速やかに聖銃を実体化させ、銃口を方々に向けつつ周囲の安全確認をした。
動体反応なし。敵性勢力発見できず。よし、ひとまずスタート地点は安全だ。
改めて、〈ダークグラウンド〉の1stステージを見回す。
蒼ざめた夕暮れの世界だった。
一面は雪に覆われ、樹氷がいくつか見える以外、目ぼしいものはほとんどない。
群青色の空の一部がわずかに明るくなっていたけど、それが太陽なのか月なのかは、雪雲のせいで判然としなかった。
主人公が世界の最後と詠った理由がわかる。
たとえ人がいなくなっても自然は続いていく。獣たちも生き続けるだろう。けれども、ここにはそれすらほとんどない。残された思い出すら、雪が覆い隠してしまうようだった。
何もかもが終わった世界は、確かにこうして寝静まるのかもしれない。
「みんな無事?」
僕が振り返ると、パスティスもアルルカもそろって腕を上げて応えた。
「あれ? アディンたちは?」
竜たちが近くにいない。
砂漠の暑さは大敵だった。しかしドラゴンのような爬虫類っぽい形からすると、寒いのはもっとダメそうだ。これ、ひょっとしてまたまずいか?
慌ててアディンたちを探すと。
クルクルクル……。
キイ、キイ。
アディンたちはきょうだいで、雪の中ではしゃいでいた。転げまわったりじゃれ合ったり、無意味に雪に飛び込んで竜の形を残したりと、寒さを苦にしている素振りは一切ない。
「サベージブラックは寒いの平気なのよね」
羽飾りから、目の前の光景を追認するようなアンシェルの説明があった。
「みんな。遊ぶのは、後、だよ」
パスティスが呼びかけると、アディンたちは「はーい」とでも返事をしそうな態度で集まってきた。うーむ。これはお母さんですね。間違いない……。
ひとまず竜たちが健在で安心だ。
「雪は初めて見る」
アルルカがどこかぼうっとした様子で言った。
「なんて綺麗なんだ」
カイヤと一体化した腕を伸ばし、終わりなく降り続ける雪を受け止める。
確かにこの光景、グレッサの民の話がなければ、ある種幻想的とも言える。
「それに、思ったより寒くないな。これなら砂漠の夜の方がずっと冷える」
「それはリーンフィリア様の加護のおかげだよ。僕らにとっては〈ブラッディヤード〉もこんな気候だった」
「何と……。そんな秘密があったのか」
でなきゃ僕はスタート地点で、永遠に熱中症で死に続けるどクソゲーをやらされてた。
「ひとまず、あそこを目指して進もう」
僕は親指で一方向を指し示す。
降下中に見えた、青白い光の集合地点があった。
あれがグレッサの民が住む町なら話は早いんだけど、果たして……。
あ、毎回恒例の〈ヘルメスの翼〉は、さすがに今回はなしだよ。あれは天界でコース等をインプットさせた魔法を、アンシェルが僕にかけてたからね。
《天の加護はもはや届かない。この土地にも、我々にも。この身と女神の行き着く先に、どうか春の兆しがあらんことを》
なんか辛気臭いぞ、主人公。
まるで、これまでヤツらと仲良しだったみたいじゃないか。
しれっと再開していきましょう。
後半ステージにはやはり静けさが必要不可欠。




